オフィスの壁に掛かった時計の針が、カチリと音を立てて午前零時を回った。
その無機質な音は、私の心の中にある「やる気スイッチ」が完全にオフになる音と重なった。
「……終わった」
最後のデータを送信し終え、私はデスクに突っ伏した。
ここは都内にある中堅食品メーカーの営業部フロア。広大なオフィスには、もう私一人しか残っていない。
空調の切れた室内はしんと静まり返り、パソコンのファンが回る低い音だけが響いている。
私の名前は如月芽衣(きさらぎ めい)。二十六歳。
入社四年目の中堅社員だが、社内での扱いは「便利屋」そのものだった。
「おい如月、この資料、明日の朝一までに頼むわ。俺、これから接待だからさ」
夕方、営業部の権田(ごんだ)課長が私のデスクに書類の山をドサリと置いていった時の、あのニヤけた顔が脳裏に焼き付いている。
接待とは名ばかりの合コンだということは、女子社員の間では周知の事実だ。
自分のミスを部下に押し付け、手柄だけは横取りする典型的なパワハラ上司。
それでも私は、「はい、分かりました」と引きつった笑顔で答えることしかできなかった。断れば、さらに陰湿な嫌がらせが待っていると知っているからだ。
真面目だけが取り柄。NOと言えない気弱な性格。
それが、私をこの「残業地獄」へと縛り付けている鎖だった。
重い身体を引きずり、オフィスを出る。
エレベーターホールの鏡に映った自分の顔を見て、思わず悲鳴を上げそうになった。
ファンデーションは崩れ、目の下にはクマができ、髪はボサボサ。生気というものがまるで感じられない。
「……おばけじゃん、これ」
二十六歳、彼氏なし。休日は死んだように眠るだけ。
私の青春、どこに行っちゃったんだろう。
虚しさがこみ上げてきて、私は逃げるようにビルを出た。
深夜の駅へと向かう道。冷たい秋風が、薄手のブラウスを通して肌を刺す。
コンビニのおにぎりを齧りながら歩く。パサパサとした米の感触が、砂を噛んでいるようで味がしない。
駅の改札を抜ける頃には、意識が半分ほど飛んでいた。
ホームに降り立つ。
誰一人いない、深夜のプラットホーム。蛍光灯がチカチカと点滅し、どこか非現実的な雰囲気が漂っている。
電光掲示板を見る。
「……あ、よかった。まだ電車ある」
表示されていたのは『臨時』の二文字。
行き先はよく見えなかったけれど、どうせ車庫に向かう回送電車のついでに乗せてくれるようなものだろう。
座りたい。眠りたい。帰りたい。
思考回路がその三つで埋め尽くされた私の前に、風圧と共に列車が滑り込んできた。
――ゴォォォォ……。
重厚な音と共に現れたのは、いつもの銀色のステンレス車両ではなかった。
深い漆黒のボディに、金色のラインが入った荘厳な列車。
窓枠は真鍮で縁取られ、車内からは温かみのあるガス灯のようなオレンジ色の光が漏れている。
まるで、大正時代の映画から飛び出してきたようなレトロな外観。
「イベント列車かな……?」
普段なら怪しんで乗らない。けれど、今の私は正常な判断力を失っていた。
プシュー、と蒸気を吐くような音を立ててドアが開く。
ふわりと漂ってきたのは、甘い白檀のお香と、どこか懐かしい古書の匂い。
私は吸い込まれるように、その列車へと足を踏み入れた。
それが、人外魔境への片道切符だとも知らずに。
車内に入ると、そこは別世界だった。
床は幾何学模様の寄木細工。座席は深紅のビロード張りで、ふかふかとした厚みがある。天井には小さなシャンデリアが揺れ、優雅なクラシック音楽が微かに流れていた。
乗客はまばらだ。
向かいの席には、深く帽子を被って新聞を読む紳士。奥の席には、着物を着た女性の後ろ姿。
皆、静かに俯いている。
私は空いている端の席に座り込むと、泥のように深い安堵の息を吐いた。
走り出した電車の揺れが、ゆりかごのように心地よい。
すぐに強烈な睡魔が襲ってきて、私は意識を手放した。
◆
「――おい。……おい、人間」
「……んぅ」
何か、冷たくてヌルリとしたもので頬を叩かれ、私は目を覚ました。
「起きろ。検札だ」
目を開けた瞬間、私は悲鳴を上げることも忘れ、ただ凍りついた。
目の前に立っていたのは、制服を着た車掌――ではない。
青白い肌に、落ち窪んだ眼窩。制帽の下から覗くのは、肉の削げ落ちた骸骨の顔だった。
「ひっ……!?」
ガタガタと震えながら周囲を見渡す。
さっきまで静かだった車内が、様変わりしていた。
向かいの席で新聞を読んでいた紳士は、新聞を畳むと、その顔には目も鼻もなく、巨大な一つ目だけがギョロリと動いていた。
着物姿の女性は、首がゴムのように長く伸び、天井のつり革に絡みついている。
窓の外には、毒々しい紫色の空と、歪んだ月が浮かんでいた。
「ゆ、夢……?」
頬をつねってみる。痛い。
「切符を見せろ、人間」
骸骨の車掌が、骨だけの白い手を差し出してくる。
「き、切符……ICカードならありますけど……」
震える手でパスケースを差し出すと、車掌はカチカチと歯を鳴らして笑った。
「そんなプラスチックの板切れ、ここでは通用せんよ。この『宵闇(よいやみ)ライナー』の運賃は、お前の『生気』だ」
「せ、生気?」
「切符を持たぬ者は、次の駅で強制下車だ。そこは餓鬼の住処だがな」
骸骨の手が、私の肩を掴む。その力は万力のように強く、冷気が服を通して肌に染み込んでくる。
「嫌っ、離して! 私、帰らなきゃいけないんです!」
「知るか。迷い込んだお前が悪い」
周囲の乗客たち――あやかしたちが、一斉に私を見た。
「人間だ」「うまそうだな」「若い女の生気は格別だぞ」
ざわざわと、品定めをするような声が聞こえる。
恐怖で涙が溢れた。
こんなところで死ぬの?
毎日真面目に働いて、理不尽な残業に耐えて、最後がこれ?
あんまりだ。神様なんていない。
「……誰か、助けて……!」
私が声を絞り出した、その時だった。
「――その娘の運賃なら、俺が払おう」
凛とした、低く艶のある声が車内に響き渡った。
その一声で、車内の空気が一変した。
淀んでいた空気が晴れ、ピリリとした高貴な霊圧が満ちる。
あやかしたちが、一斉に畏怖の表情で道を開けた。
車両の奥から、一人の男性がゆっくりと歩いてくる。
息を飲むほどに美しい人だった。
濡れたような漆黒の髪をオールバックにし、透き通るような白い肌を持つ青年。
仕立ての良いイタリア製のダークスーツの上に、豪奢な黒地に金糸の刺繍が入った着物を、肩からゆったりと羽織っている。
和と洋。現代と過去。相反する要素を完璧に着こなすその姿は、この世の王者のようだった。
何より、その瞳。
彼の瞳は、暗闇の中で鮮烈な金色に輝いていた。
「く、久遠(くおん)の総大将……!」
骸骨の車掌が、慌てて帽子を取り最敬礼をする。
「こ、これは失礼いたしました! 総大将のお連れ様でしたか」
「そうだ。俺の客人だ。無礼な真似は許さん」
男――久遠と呼ばれた青年が私を庇うように前に立つと、車掌は逃げるように隣の車両へと去っていった。
助かった……のよね?
へなへなと座り込む私に、彼が視線を向ける。
冷徹な支配者の顔から一転、彼は甘く蕩けるような微笑みを浮かべた。
「……怖がらせてすまないね、迷い人のお嬢さん」
彼は優雅な仕草で私の隣に腰を下ろした。
至近距離で見ると、その美貌の破壊力に眩暈がする。長い睫毛、通った鼻筋、血色の良い薄い唇。
そして、彼からは何とも言えない良い匂いがした。高級な香水と、森の奥のような清涼感が混じった香り。
「あ、あの、ありがとうございます。助けていただいて……」
「礼には及ばんよ。それより」
彼はスッと顔を寄せ、私の首筋のあたりをクンクンと嗅いだ。
「ひゃっ!?」
「ふむ……やはりな。遠くからでも分かったが、近くで嗅ぐと格別だ」
「な、何がですか?」
「君のその『疲れ』だよ」
彼は恍惚とした表情で目を細めた。
「熟成された残業の香り、上司への押し殺した殺意、将来への不安、そして誰かに認められたいという切実な渇望……。これほど濃厚で、芳醇な『疲労』を纏った人間は、百年ぶりだ」
褒められているのか貶されているのか分からない。
「ここはあやかしの世界。我々にとって、人間が溜め込む負の感情――特に、真面目な人間が限界まで煮詰めたストレスや疲労は、最高級のスパイスであり、御馳走なんだ」
「ご、御馳走……?」
「そう。あの骸骨や他のあやかしなら、君を骨まで食らい尽くしていただろう。だが、俺は違う」
彼は私の顎を細い指ですくい上げ、強引に視線を絡ませた。
金色の瞳に吸い込まれそうになる。
「取引といこうか。俺は『鬼』の氏族を束ねる久遠(くおん)紫苑(しおん)。君をここから無事に人間界へ帰してやる。その代わり」
彼は私の耳元に唇を寄せ、悪魔のように囁いた。
「君のその溢れんばかりの疲労、俺に全て献上しろ」
「えっ……?」
「俺の『専属』になれと言っている。俺の嫁になり、毎晩その極上の疲れを俺に癒やさせろ」
あまりの急展開に、思考が追いつかない。
「よ、嫁!? あやかしの!?」
「不服か? 俺の妻になれば、衣食住は保証するし、何より君を苦しめる全てのストレスから解放してやろう」
紫苑さんは、私の腰に腕を回し、ぐいっと身体を引き寄せた。硬い胸板の感触と、彼の体温に心臓が早鐘を打つ。
「君、肩が凝っているな。腰も痛むだろう。頭痛も酷い」
彼の大きな手が、私の背中を優しく撫でる。
ただそれだけなのに、じんわりと温かい何かが体内に染み渡っていく。
「俺が吸い取ってやる。君は楽になれる。……どうだ?」
甘い誘惑。
「楽になれる」という言葉が、今の私には何よりも魅力的だった。
帰りたい。でも、あんな地獄のような職場に戻って、また明日も罵倒されるのかと思うと、足がすくむ。
「……私、もう疲れました。何もかも」
ポツリと本音が漏れた。涙がこぼれ落ちる。
「頑張っても報われないし、誰も助けてくれないし……」
「俺がいる」
紫苑さんが、私の涙を指で拭った。
「よく頑張ったな。君のその忍耐強さと魂の輝きは、俺が一番知っている。だからこそ、美味そうなんだ」
彼は優しく微笑むと、私の顔を両手で包み込んだ。
「契約成立だ。……頂くよ、君の全てを」
重なる唇。
抵抗などできなかった。
彼の唇が触れた瞬間、熱い奔流が体内に流れ込んでくる。
それは快楽であり、浄化だった。
肩に鉛のように乗っていた重みが、黒い煙となって彼の方へと吸い出されていく。目の奥の痛みも、胃のキリキリした痛みも、心のモヤモヤも、全てが溶けていく。
「んっ……ぁ……」
頭の中が真っ白になり、視界がチカチカと明滅する。
とろとろと、甘い蜜に溶かされるような感覚。指先まで痺れるような口づけは、永遠にも一瞬にも感じられた。
彼が唇を離した時、私は腰が抜けて彼の腕の中に崩れ落ちていた。
「……ふっ、美味い。予想以上の味だ」
紫苑さんは舌なめずりをすると、満足げに目を細めた。金色の瞳が、一層輝きを増している。
「素晴らしい。君は最高の『餌』であり、最高の花嫁だ」
「……体が、軽い……」
信じられなかった。あんなにダルかった身体が、羽が生えたように軽い。視界もクリアで、呼吸がしやすい。
「俺の魔力を少し分け与えた。これで明日も元気に動けるだろう」
彼は私の左手を取ると、薬指に口づけを落とした。
「名前は?」
「如月、芽衣……」
「芽衣か。愛らしい名だ。忘れるなよ、今夜のことは」
彼の指が、私の瞼を優しく撫でる。
強烈な睡魔が襲ってきた。
「次に目が覚めた時が、俺たちの新しい生活の始まりだ」
私は絶対的な安心感の中で、深い闇へと落ちていった。
◆
チュン、チュン、とスズメの鳴き声で目が覚めた。
「……あれ?」
見慣れた白い天井。私は自宅のベッドに寝ていた。
時計を見る。土曜日の朝八時。
ガバッと起き上がる。
「夢……? 全部、夢だったの?」
でも、身体の感覚がまるで違った。
軽い。信じられないほど軽い。
洗面所の鏡を覗き込んで、私は息を飲んだ。
目の下のクマは消え去り、肌は高級エステに通い詰めたかのようにツヤツヤと輝いている。髪も天使の輪ができるほどサラサラだ。
「うそでしょ……」
夢じゃなかったのか。
唇に指を当てる。まだ、あの熱い口づけの余韻が残っているような気がした。
今日は休日出勤だ。権田課長に言いつけられた資料作成がある。
以前なら憂鬱で起き上がれなかったはずだが、今の私はエネルギーに満ち溢れていた。
「よし、行こう!」
私は手早く支度をして家を出た。
会社に着くと、オフィスが何やら騒がしかった。
土曜日だというのに、役員たちが慌ただしく廊下を行き来している。
「おい如月、聞いたか?」
同期の男性社員が、興奮気味に話しかけてきた。
「何かあったの?」
「今日付で、親会社から新しい社長が出向してくるらしいんだ。なんでも、グループ会長の孫で、海外支社をV字回復させた超やり手のカリスマだって」
「へえ……」
他人事のように相槌を打ちながら、私は自分のデスクに向かった。
そこには、昨日権田課長が置いていった書類の山がそのままになっている。
「ちっ、まだ終わってねえのかよ、グズが」
背後から不愉快な声がした。権田課長だ。二日酔いなのか、酒臭い息を吐きながら睨んでくる。
「おはようございます。今からやりますので」
「遅えよ! 新社長が来る前になんとかしろ。俺の評価が下がったらお前のせいだからな」
相変わらずの言い草だ。
でも、不思議と腹が立たなかった。今の私には、もっと凄い後ろ盾がいるような気がして。
「――新社長の到着です! 全員起立!」
秘書室長の声が響く。
オフィスの入り口ドアが開き、数人の取り巻きを連れた長身の男性が入ってきた。
一瞬で、オフィスの空気が変わった。
息を飲む音が重なる。
完璧に仕立てられたイタリア製のダークスーツに身を包み、濡れたような黒髪をオールバックにしたその男性は、この世のものとは思えない圧倒的なオーラを放っていた。
「ご紹介します。本日付けで代表取締役に就任された、久遠(くおん)紫苑様です」
ドクン、と心臓が跳ねた。
嘘。
彼が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は黒のカラーコンタクトをしているようだったが、切れ長の形も、不敵な笑みも、間違いなく昨夜の彼だ。
彼は全社員を見渡すと、低い美声で告げた。
「私が久遠だ。この会社の悪しき慣習は、今日この瞬間から全て撤廃する」
鋭い視線が、私の隣にいる権田課長に向けられた。
「特に、無能な上司が部下に責任を押し付けるような古臭い体質は、早急に排除する必要があるな」
「ひっ……!」
権田課長がカエルのような声を上げて縮み上がる。
紫苑社長は、スタスタと営業部のフロアへ歩み寄ってきた。
社員たちがモーゼの十戒のように道を開ける。
彼は私のデスクの前で立ち止まると、山積みの書類を冷ややかに見下ろした。
「これは?」
「あ、あの、それは如月くんが勝手に溜め込んだ仕事でして……!」
権田課長が慌てて言い訳をする。
紫苑社長は、書類を手に取り、パラパラとめくった。そして、バサリと床に払い落とした。
「こんな非効率な紙屑は必要ない。そして」
彼は権田課長を見下ろした。
「君が部下に仕事を押し付けて飲み歩いていたことは、調査済みだ。明日から君の席はないと思え」
「なっ……!?」
顔面蒼白になる課長を放置し、社長は私に向き直った。
その顔に、昨夜と同じ甘い微笑みが浮かぶ。
「……迎えに来たぞ」
「え……」
彼は私の手を取り、恭しく手の甲にキスをした。
オフィス中から「キャーッ!」という悲鳴と、唖然とする声が上がる。
「如月芽衣くん。君には私の『秘書』兼『専属コンディション管理者』になってもらう」
「へ、秘書……ですか?」
「ああ。君の……能力を高く評価していてね」
彼は意味深に目を細めると、誰にも聞こえないような小声で、吐息混じりに囁いた。
『昨夜の契約、忘れたとは言わせないぞ? 嫁入り前の準備期間だ。……君のその極上の疲れ、今夜もたっぷりと味わわせてもらうからな』
そして、片目をパチリと閉じてウィンクした。
その瞬間、彼の一瞬だけ細められた瞳の奥が、鮮烈な金色に光ったのが見えた。
カァァッ、と顔が沸騰する。
思わず自分の左手を見る。
薬指には、昨夜はなかったはずの、紅い宝石のついた華奢な指輪が嵌められていた。
夢じゃ、なかった。
「さあ、行こうか。まずは社長室で、これからの『契約内容』について、じっくりと話し合おう」
新社長は楽しそうに笑うと、私の手を引いて歩き出した。
呆然と立ち尽くす権田課長。羨望の眼差しを送る女子社員たち。
私の手を引く紫苑さんの背中は、広くて、とても温かかった。
私の平穏な(そして過労な)社畜ライフは、唐突に終わりを告げた。
その代わりに始まったのは、人外イケメン社長との、心臓がいくつあっても足りないスリリングな日々。
終電で生まれた恋の行方は――どうやら、まだ走り出したばかりのようだ。
(了)
その無機質な音は、私の心の中にある「やる気スイッチ」が完全にオフになる音と重なった。
「……終わった」
最後のデータを送信し終え、私はデスクに突っ伏した。
ここは都内にある中堅食品メーカーの営業部フロア。広大なオフィスには、もう私一人しか残っていない。
空調の切れた室内はしんと静まり返り、パソコンのファンが回る低い音だけが響いている。
私の名前は如月芽衣(きさらぎ めい)。二十六歳。
入社四年目の中堅社員だが、社内での扱いは「便利屋」そのものだった。
「おい如月、この資料、明日の朝一までに頼むわ。俺、これから接待だからさ」
夕方、営業部の権田(ごんだ)課長が私のデスクに書類の山をドサリと置いていった時の、あのニヤけた顔が脳裏に焼き付いている。
接待とは名ばかりの合コンだということは、女子社員の間では周知の事実だ。
自分のミスを部下に押し付け、手柄だけは横取りする典型的なパワハラ上司。
それでも私は、「はい、分かりました」と引きつった笑顔で答えることしかできなかった。断れば、さらに陰湿な嫌がらせが待っていると知っているからだ。
真面目だけが取り柄。NOと言えない気弱な性格。
それが、私をこの「残業地獄」へと縛り付けている鎖だった。
重い身体を引きずり、オフィスを出る。
エレベーターホールの鏡に映った自分の顔を見て、思わず悲鳴を上げそうになった。
ファンデーションは崩れ、目の下にはクマができ、髪はボサボサ。生気というものがまるで感じられない。
「……おばけじゃん、これ」
二十六歳、彼氏なし。休日は死んだように眠るだけ。
私の青春、どこに行っちゃったんだろう。
虚しさがこみ上げてきて、私は逃げるようにビルを出た。
深夜の駅へと向かう道。冷たい秋風が、薄手のブラウスを通して肌を刺す。
コンビニのおにぎりを齧りながら歩く。パサパサとした米の感触が、砂を噛んでいるようで味がしない。
駅の改札を抜ける頃には、意識が半分ほど飛んでいた。
ホームに降り立つ。
誰一人いない、深夜のプラットホーム。蛍光灯がチカチカと点滅し、どこか非現実的な雰囲気が漂っている。
電光掲示板を見る。
「……あ、よかった。まだ電車ある」
表示されていたのは『臨時』の二文字。
行き先はよく見えなかったけれど、どうせ車庫に向かう回送電車のついでに乗せてくれるようなものだろう。
座りたい。眠りたい。帰りたい。
思考回路がその三つで埋め尽くされた私の前に、風圧と共に列車が滑り込んできた。
――ゴォォォォ……。
重厚な音と共に現れたのは、いつもの銀色のステンレス車両ではなかった。
深い漆黒のボディに、金色のラインが入った荘厳な列車。
窓枠は真鍮で縁取られ、車内からは温かみのあるガス灯のようなオレンジ色の光が漏れている。
まるで、大正時代の映画から飛び出してきたようなレトロな外観。
「イベント列車かな……?」
普段なら怪しんで乗らない。けれど、今の私は正常な判断力を失っていた。
プシュー、と蒸気を吐くような音を立ててドアが開く。
ふわりと漂ってきたのは、甘い白檀のお香と、どこか懐かしい古書の匂い。
私は吸い込まれるように、その列車へと足を踏み入れた。
それが、人外魔境への片道切符だとも知らずに。
車内に入ると、そこは別世界だった。
床は幾何学模様の寄木細工。座席は深紅のビロード張りで、ふかふかとした厚みがある。天井には小さなシャンデリアが揺れ、優雅なクラシック音楽が微かに流れていた。
乗客はまばらだ。
向かいの席には、深く帽子を被って新聞を読む紳士。奥の席には、着物を着た女性の後ろ姿。
皆、静かに俯いている。
私は空いている端の席に座り込むと、泥のように深い安堵の息を吐いた。
走り出した電車の揺れが、ゆりかごのように心地よい。
すぐに強烈な睡魔が襲ってきて、私は意識を手放した。
◆
「――おい。……おい、人間」
「……んぅ」
何か、冷たくてヌルリとしたもので頬を叩かれ、私は目を覚ました。
「起きろ。検札だ」
目を開けた瞬間、私は悲鳴を上げることも忘れ、ただ凍りついた。
目の前に立っていたのは、制服を着た車掌――ではない。
青白い肌に、落ち窪んだ眼窩。制帽の下から覗くのは、肉の削げ落ちた骸骨の顔だった。
「ひっ……!?」
ガタガタと震えながら周囲を見渡す。
さっきまで静かだった車内が、様変わりしていた。
向かいの席で新聞を読んでいた紳士は、新聞を畳むと、その顔には目も鼻もなく、巨大な一つ目だけがギョロリと動いていた。
着物姿の女性は、首がゴムのように長く伸び、天井のつり革に絡みついている。
窓の外には、毒々しい紫色の空と、歪んだ月が浮かんでいた。
「ゆ、夢……?」
頬をつねってみる。痛い。
「切符を見せろ、人間」
骸骨の車掌が、骨だけの白い手を差し出してくる。
「き、切符……ICカードならありますけど……」
震える手でパスケースを差し出すと、車掌はカチカチと歯を鳴らして笑った。
「そんなプラスチックの板切れ、ここでは通用せんよ。この『宵闇(よいやみ)ライナー』の運賃は、お前の『生気』だ」
「せ、生気?」
「切符を持たぬ者は、次の駅で強制下車だ。そこは餓鬼の住処だがな」
骸骨の手が、私の肩を掴む。その力は万力のように強く、冷気が服を通して肌に染み込んでくる。
「嫌っ、離して! 私、帰らなきゃいけないんです!」
「知るか。迷い込んだお前が悪い」
周囲の乗客たち――あやかしたちが、一斉に私を見た。
「人間だ」「うまそうだな」「若い女の生気は格別だぞ」
ざわざわと、品定めをするような声が聞こえる。
恐怖で涙が溢れた。
こんなところで死ぬの?
毎日真面目に働いて、理不尽な残業に耐えて、最後がこれ?
あんまりだ。神様なんていない。
「……誰か、助けて……!」
私が声を絞り出した、その時だった。
「――その娘の運賃なら、俺が払おう」
凛とした、低く艶のある声が車内に響き渡った。
その一声で、車内の空気が一変した。
淀んでいた空気が晴れ、ピリリとした高貴な霊圧が満ちる。
あやかしたちが、一斉に畏怖の表情で道を開けた。
車両の奥から、一人の男性がゆっくりと歩いてくる。
息を飲むほどに美しい人だった。
濡れたような漆黒の髪をオールバックにし、透き通るような白い肌を持つ青年。
仕立ての良いイタリア製のダークスーツの上に、豪奢な黒地に金糸の刺繍が入った着物を、肩からゆったりと羽織っている。
和と洋。現代と過去。相反する要素を完璧に着こなすその姿は、この世の王者のようだった。
何より、その瞳。
彼の瞳は、暗闇の中で鮮烈な金色に輝いていた。
「く、久遠(くおん)の総大将……!」
骸骨の車掌が、慌てて帽子を取り最敬礼をする。
「こ、これは失礼いたしました! 総大将のお連れ様でしたか」
「そうだ。俺の客人だ。無礼な真似は許さん」
男――久遠と呼ばれた青年が私を庇うように前に立つと、車掌は逃げるように隣の車両へと去っていった。
助かった……のよね?
へなへなと座り込む私に、彼が視線を向ける。
冷徹な支配者の顔から一転、彼は甘く蕩けるような微笑みを浮かべた。
「……怖がらせてすまないね、迷い人のお嬢さん」
彼は優雅な仕草で私の隣に腰を下ろした。
至近距離で見ると、その美貌の破壊力に眩暈がする。長い睫毛、通った鼻筋、血色の良い薄い唇。
そして、彼からは何とも言えない良い匂いがした。高級な香水と、森の奥のような清涼感が混じった香り。
「あ、あの、ありがとうございます。助けていただいて……」
「礼には及ばんよ。それより」
彼はスッと顔を寄せ、私の首筋のあたりをクンクンと嗅いだ。
「ひゃっ!?」
「ふむ……やはりな。遠くからでも分かったが、近くで嗅ぐと格別だ」
「な、何がですか?」
「君のその『疲れ』だよ」
彼は恍惚とした表情で目を細めた。
「熟成された残業の香り、上司への押し殺した殺意、将来への不安、そして誰かに認められたいという切実な渇望……。これほど濃厚で、芳醇な『疲労』を纏った人間は、百年ぶりだ」
褒められているのか貶されているのか分からない。
「ここはあやかしの世界。我々にとって、人間が溜め込む負の感情――特に、真面目な人間が限界まで煮詰めたストレスや疲労は、最高級のスパイスであり、御馳走なんだ」
「ご、御馳走……?」
「そう。あの骸骨や他のあやかしなら、君を骨まで食らい尽くしていただろう。だが、俺は違う」
彼は私の顎を細い指ですくい上げ、強引に視線を絡ませた。
金色の瞳に吸い込まれそうになる。
「取引といこうか。俺は『鬼』の氏族を束ねる久遠(くおん)紫苑(しおん)。君をここから無事に人間界へ帰してやる。その代わり」
彼は私の耳元に唇を寄せ、悪魔のように囁いた。
「君のその溢れんばかりの疲労、俺に全て献上しろ」
「えっ……?」
「俺の『専属』になれと言っている。俺の嫁になり、毎晩その極上の疲れを俺に癒やさせろ」
あまりの急展開に、思考が追いつかない。
「よ、嫁!? あやかしの!?」
「不服か? 俺の妻になれば、衣食住は保証するし、何より君を苦しめる全てのストレスから解放してやろう」
紫苑さんは、私の腰に腕を回し、ぐいっと身体を引き寄せた。硬い胸板の感触と、彼の体温に心臓が早鐘を打つ。
「君、肩が凝っているな。腰も痛むだろう。頭痛も酷い」
彼の大きな手が、私の背中を優しく撫でる。
ただそれだけなのに、じんわりと温かい何かが体内に染み渡っていく。
「俺が吸い取ってやる。君は楽になれる。……どうだ?」
甘い誘惑。
「楽になれる」という言葉が、今の私には何よりも魅力的だった。
帰りたい。でも、あんな地獄のような職場に戻って、また明日も罵倒されるのかと思うと、足がすくむ。
「……私、もう疲れました。何もかも」
ポツリと本音が漏れた。涙がこぼれ落ちる。
「頑張っても報われないし、誰も助けてくれないし……」
「俺がいる」
紫苑さんが、私の涙を指で拭った。
「よく頑張ったな。君のその忍耐強さと魂の輝きは、俺が一番知っている。だからこそ、美味そうなんだ」
彼は優しく微笑むと、私の顔を両手で包み込んだ。
「契約成立だ。……頂くよ、君の全てを」
重なる唇。
抵抗などできなかった。
彼の唇が触れた瞬間、熱い奔流が体内に流れ込んでくる。
それは快楽であり、浄化だった。
肩に鉛のように乗っていた重みが、黒い煙となって彼の方へと吸い出されていく。目の奥の痛みも、胃のキリキリした痛みも、心のモヤモヤも、全てが溶けていく。
「んっ……ぁ……」
頭の中が真っ白になり、視界がチカチカと明滅する。
とろとろと、甘い蜜に溶かされるような感覚。指先まで痺れるような口づけは、永遠にも一瞬にも感じられた。
彼が唇を離した時、私は腰が抜けて彼の腕の中に崩れ落ちていた。
「……ふっ、美味い。予想以上の味だ」
紫苑さんは舌なめずりをすると、満足げに目を細めた。金色の瞳が、一層輝きを増している。
「素晴らしい。君は最高の『餌』であり、最高の花嫁だ」
「……体が、軽い……」
信じられなかった。あんなにダルかった身体が、羽が生えたように軽い。視界もクリアで、呼吸がしやすい。
「俺の魔力を少し分け与えた。これで明日も元気に動けるだろう」
彼は私の左手を取ると、薬指に口づけを落とした。
「名前は?」
「如月、芽衣……」
「芽衣か。愛らしい名だ。忘れるなよ、今夜のことは」
彼の指が、私の瞼を優しく撫でる。
強烈な睡魔が襲ってきた。
「次に目が覚めた時が、俺たちの新しい生活の始まりだ」
私は絶対的な安心感の中で、深い闇へと落ちていった。
◆
チュン、チュン、とスズメの鳴き声で目が覚めた。
「……あれ?」
見慣れた白い天井。私は自宅のベッドに寝ていた。
時計を見る。土曜日の朝八時。
ガバッと起き上がる。
「夢……? 全部、夢だったの?」
でも、身体の感覚がまるで違った。
軽い。信じられないほど軽い。
洗面所の鏡を覗き込んで、私は息を飲んだ。
目の下のクマは消え去り、肌は高級エステに通い詰めたかのようにツヤツヤと輝いている。髪も天使の輪ができるほどサラサラだ。
「うそでしょ……」
夢じゃなかったのか。
唇に指を当てる。まだ、あの熱い口づけの余韻が残っているような気がした。
今日は休日出勤だ。権田課長に言いつけられた資料作成がある。
以前なら憂鬱で起き上がれなかったはずだが、今の私はエネルギーに満ち溢れていた。
「よし、行こう!」
私は手早く支度をして家を出た。
会社に着くと、オフィスが何やら騒がしかった。
土曜日だというのに、役員たちが慌ただしく廊下を行き来している。
「おい如月、聞いたか?」
同期の男性社員が、興奮気味に話しかけてきた。
「何かあったの?」
「今日付で、親会社から新しい社長が出向してくるらしいんだ。なんでも、グループ会長の孫で、海外支社をV字回復させた超やり手のカリスマだって」
「へえ……」
他人事のように相槌を打ちながら、私は自分のデスクに向かった。
そこには、昨日権田課長が置いていった書類の山がそのままになっている。
「ちっ、まだ終わってねえのかよ、グズが」
背後から不愉快な声がした。権田課長だ。二日酔いなのか、酒臭い息を吐きながら睨んでくる。
「おはようございます。今からやりますので」
「遅えよ! 新社長が来る前になんとかしろ。俺の評価が下がったらお前のせいだからな」
相変わらずの言い草だ。
でも、不思議と腹が立たなかった。今の私には、もっと凄い後ろ盾がいるような気がして。
「――新社長の到着です! 全員起立!」
秘書室長の声が響く。
オフィスの入り口ドアが開き、数人の取り巻きを連れた長身の男性が入ってきた。
一瞬で、オフィスの空気が変わった。
息を飲む音が重なる。
完璧に仕立てられたイタリア製のダークスーツに身を包み、濡れたような黒髪をオールバックにしたその男性は、この世のものとは思えない圧倒的なオーラを放っていた。
「ご紹介します。本日付けで代表取締役に就任された、久遠(くおん)紫苑様です」
ドクン、と心臓が跳ねた。
嘘。
彼が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は黒のカラーコンタクトをしているようだったが、切れ長の形も、不敵な笑みも、間違いなく昨夜の彼だ。
彼は全社員を見渡すと、低い美声で告げた。
「私が久遠だ。この会社の悪しき慣習は、今日この瞬間から全て撤廃する」
鋭い視線が、私の隣にいる権田課長に向けられた。
「特に、無能な上司が部下に責任を押し付けるような古臭い体質は、早急に排除する必要があるな」
「ひっ……!」
権田課長がカエルのような声を上げて縮み上がる。
紫苑社長は、スタスタと営業部のフロアへ歩み寄ってきた。
社員たちがモーゼの十戒のように道を開ける。
彼は私のデスクの前で立ち止まると、山積みの書類を冷ややかに見下ろした。
「これは?」
「あ、あの、それは如月くんが勝手に溜め込んだ仕事でして……!」
権田課長が慌てて言い訳をする。
紫苑社長は、書類を手に取り、パラパラとめくった。そして、バサリと床に払い落とした。
「こんな非効率な紙屑は必要ない。そして」
彼は権田課長を見下ろした。
「君が部下に仕事を押し付けて飲み歩いていたことは、調査済みだ。明日から君の席はないと思え」
「なっ……!?」
顔面蒼白になる課長を放置し、社長は私に向き直った。
その顔に、昨夜と同じ甘い微笑みが浮かぶ。
「……迎えに来たぞ」
「え……」
彼は私の手を取り、恭しく手の甲にキスをした。
オフィス中から「キャーッ!」という悲鳴と、唖然とする声が上がる。
「如月芽衣くん。君には私の『秘書』兼『専属コンディション管理者』になってもらう」
「へ、秘書……ですか?」
「ああ。君の……能力を高く評価していてね」
彼は意味深に目を細めると、誰にも聞こえないような小声で、吐息混じりに囁いた。
『昨夜の契約、忘れたとは言わせないぞ? 嫁入り前の準備期間だ。……君のその極上の疲れ、今夜もたっぷりと味わわせてもらうからな』
そして、片目をパチリと閉じてウィンクした。
その瞬間、彼の一瞬だけ細められた瞳の奥が、鮮烈な金色に光ったのが見えた。
カァァッ、と顔が沸騰する。
思わず自分の左手を見る。
薬指には、昨夜はなかったはずの、紅い宝石のついた華奢な指輪が嵌められていた。
夢じゃ、なかった。
「さあ、行こうか。まずは社長室で、これからの『契約内容』について、じっくりと話し合おう」
新社長は楽しそうに笑うと、私の手を引いて歩き出した。
呆然と立ち尽くす権田課長。羨望の眼差しを送る女子社員たち。
私の手を引く紫苑さんの背中は、広くて、とても温かかった。
私の平穏な(そして過労な)社畜ライフは、唐突に終わりを告げた。
その代わりに始まったのは、人外イケメン社長との、心臓がいくつあっても足りないスリリングな日々。
終電で生まれた恋の行方は――どうやら、まだ走り出したばかりのようだ。
(了)



