名前のないぬくもり

男の人の目を見ると、心臓が痛む。


痛いと言ってしまうと大袈裟に聞こえるかもしれない。

けれど私の中では、ほんの小さな刺激でもすぐに火がつくように、胸の奥がひりつく。


呼吸の仕方を、一瞬だけ忘れる。


声が出るまでに、ほんの少し間が空く。


その“ほんの少し”が、いつも私を黙らせる。


 二十六歳になっても、私はまだそれを“慣れ”に変えられない。


 朝のオフィスは、音の層でできている。


 キーボードの乾いたリズム、コピー機の低い唸り、誰かが椅子を引く音、カップが机に置かれる軽い衝撃。


人の気配の温度が、部屋の中に溶けていく。

 
その中に混ざる男の人の声だけが、私の背中をわずかに硬くする。


私は企画部の次長という肩書きを持っている。


 入社して四年でこの役職に就いたことを、周囲は「出世が異常」と笑った。

後輩はまっすぐな目で「すごい」と言った。


私はそのどれにも、笑顔で応える。


“すごい人の顔”を作るのは得意だ。


得意になったのは、いろんなものを失ってからだ。


だから、仕事をしている間だけは、私は平気な人でいられる。


そう思い込むための手順を、私は自分の中にいくつも作った。


スケジュールを細かく組むこと。


会話の距離を決めておくこと。


笑うタイミングを予習しておくこと。


そして“必要以上に見ない”こと。


私の平気は、自然なものじゃない。


でも自然じゃないことを悟られるのは、もっと嫌だった。


「相根さん、来週の資料、最終版できました」


後輩の古賀くんがプリントを抱えてやってくる。


私は顔を上げる前に、視線の角度だけで彼の位置を測った。


安全圏。


彼の声は穏やかで、距離もちゃんとしてくれる。私は彼に救われている。


「ありがとう。机に置いておいて」


「はい。あと、この表現、ちょっと分かりにくいかなって思って直しました。見てもらえます?」


古賀くんの指が紙の端を叩く。


私はそこをじっと見て頷いた。


「うん、いいね。読みやすくなってる」


「よかった」


彼はほっとした笑みを残して去っていく。


私はその背中に小さく息を吐いてから、資料を重ね直した。


——会社では“平気な人”でいなければならない。


次長として、判断できる人間でいなければならない。


部下の前で揺らいではいけない。


上の人間に“見抜かれるような隙”を作ってはいけない。


それを守るためなら、自分の心の癖だって、折りたたんでしまえると思っていた。


午前中の会議を二本こなし、企画書のラフを二つ直し、部のメンバーの相談に応え、昼休みが終わるころ、私はようやくコーヒーのカップを手に取った。


今日の午後は社長との打ち合わせが入っている。


企画部が進めている新規プロジェクトの方向性確認。


社長がわざわざ時間を作って口を出してくる案件は、会社としても重要度が高いということだ。


かつて私は、社長から直接のフィードバックをもらえることに少し誇らしさを感じていた。


今は、違う。


予定が入った瞬間から、体の深いところが固くなる。


 ——社長。


同じ会社の人間なのに、東雲颯の前では、私はいつも心の奥の温度が奪われる。


東雲颯。二十八歳。


若くして社長になった、うちの会社の“顔”。


業界でも有名なやり手で、仕事の嗅覚が鋭く、言葉も鋭い。


愛想がない。


不機嫌なのか平常なのか、顔だけじゃ判別できない。


しかもタメ口で、口が悪い。


それを「合理的」「気取らない」で済ませていいのかどうか、私にはよく分からない。


ただ、彼の眼差しはあまりに冷たくて、むき出しの刃みたいに見える。


 
社員の評判は二つに割れる。


 「怖い」


「でも、仕事ができる」


そしてみんな最後に付け足す。


 「顔が、良すぎる」


……どれにも、私は頷けてしまう側だった。


会議室へ向かう廊下を歩きながら、私は手のひらを開いたり閉じたりした。


汗は、ほんの少し。


それでも指先が冷たいのが分かる。


会議室の扉の前に立ち、資料の表紙をもう一度確認する。


万が一、数字を読み間違えたら。


万が一、彼に詰められて声が揺れたら。


万が一、あの低い声がすぐ傍から落ちてきたら。


——私は次長だ。


次長は、逃げない。


自分に言い聞かせて、ノックした。


「失礼します」


「入れ」


短い声。


低く、乾いていて、余計な温度がない。


会議室に入ると、東雲社長はすでに席に着いていた。


黒いスーツの襟元は完璧に整っていて、それだけで“手抜きのない人間”だと分かる。


机の上に開かれた資料の端が、ぴたりと整列しているのが目に入った。


几帳面というより、隙がない。


私は社長と目を合わせないまま席に着き、資料の角を揃えた。


「で?」


社長が顎だけで私の資料を指す。


視線はまだ紙の上。


まっすぐにこちらを見ないところが、逆に圧になる。


「説明、始めます」


 私は声を出す前に呼吸を整えた。


男の人の前で声が揺れるのは、いちばん嫌だった。


私は1ページ目から説明を始めた。


狙い、ターゲット、競合、収益見込み、ロードマップ。


喋っている最中、私はずっと資料の文字を追っていた。


よくない癖だと分かっている。


でも私は目を上げられない。


視線がぶつかった瞬間に胸の奥が縮むことを、私は知っている。

 
社長は一度も頷かない。


資料をめくる音だけが、私の言葉の隙間に入る。


「——以上です。現時点ではこの方向で進める案を考えています」


私は最後のページを閉じ、結論を告げた。


沈黙が落ちる。


社長は紙から目を離さず言った。


「弱い」


心臓が跳ねる。


その一言だけで、胸の奥をきゅっと掴まれたみたいに呼吸が浅くなる。


「どこが、でしょうか」


なるべく淡々と返したつもりだった。


声の高さが上がらないように、言葉の端をきっちり締める。


「全部」


迷いのない、雑な切り方。


でも社長は悪意のない顔で続けた。


「数字の根拠が足りねぇし、競合との差も甘い。“やりたい感”だけで走ってない? この企画」


タメ口。しかも刺さる言い方。


口が悪いのに、言ってることは正しい。


喉がきゅっと狭まるのを、私は奥歯で堪えた。


「……根拠の追加は次回までに補強できます」


「補強? 違うだろ」


社長がようやく顔を上げた。

私は反射的に視線を落とす。


それでも、鋭い目だけがこっちに向いたことは分かった。


「作り直せって言ってんの。
 補強じゃ足りない。骨組みからズレてる」


私は胸の奥で、自分のプライドが小さく鳴るのを聞いた。


悔しい。


でも、それを顔に出したら負けだと思った。


「……わかりました」


資料の端を無意識に強く掴んでいた指に気づき、そっと力を抜く。


 社長はそこで止めない。


「相根、お前さ」


呼び捨て。


がつんとくるのに、それが彼の普通なのが分かっているから、余計に反応できない。


「いい企画出すのは分かる。でも、俺に刺さらないもんは通らない。分かる?」


 私は即答した。


「はい」


声が小さくならないように、短く、はっきり。


——怖い。


でもここで折れたら、次長じゃなくなる。


社長は私の返事に興味がないみたいに視線を資料に戻した。


そしてすぐ次のナイフを置く。


「あと、ここ。顧客の解像度、浅い。“こういう人が喜ぶはず”って願望入ってるだろ」


「……顧客インタビューの数が足りない、ということですか」


「数の問題じゃない。聞き方が甘いんだよ。“欲しい答え”探して質問してる」


胸の奥がひやっとする。


図星に近かったからだ。


私は言い返す言葉の代わりに、メモを取った。


ペン先が紙に触れる音が小さく響く。


「……改善します」


「“改善します”じゃなくて、やり直せ。俺、来週また見るから」


「承知しました」


社長は、ふうと小さく息を吐いた。


ため息とも、興味のなさとも取れる音。


「別に怒ってねぇよ。怒ってたらもう終わってる」


私は少しだけ目を瞬いた。


その言葉があまりに淡々としていて、逆に本音に聞こえたから。


 社長は机に指を軽く置いて言う。


「“今のまま進めたら失敗する”って見えたから止めただけ。お前、止められた方がいいタイプだろ」


タメ口のくせに、妙に核心を突く。


私は返事を探しあぐねて、「……はい」とだけ答えた。


社長は何か言い続けるでもなく、ふと視線を落として書類を閉じた。


「で、スケジュールどうする?」


話題が変わる。


切り替えが早い。


私はその速度に置いていかれないよう、急いで頭を整えた。


「来週の月曜までに再構成し、火曜に中間レビューをいただければ、その後、開発側に展開できます」


「火曜ね。時間は?」


「午前十時からでお願いできますでしょうか」


「俺の予定、確認して」


ぶっきらぼうに言うけれど、それは“仕事としての会話”の範囲で、余計な棘はない。


私はタブレットで社長の予定を確認し、淡々と答えた。


「午前十時、空いています」


「じゃ、それで」


一言で決まる。


しばらく沈黙。


社長は腕を組み、何か考えている顔をしている。


私はその間、呼吸を整えていた。こういう沈黙の時間が、私には一番きつい。


何を言われるか分からない恐怖が、じわじわ染みてくる。


だけど社長は、私のほうを真正面から見ようとせず、横に視線を流したまま言った。


「相根、お前、最近疲れてる?」


いきなりすぎて、私は返答に詰まった。


「……いえ」


「嘘くさいな」


たったそれだけ。


社長の声は相変わらず冷たい。


でも、そこに怒りも嘲りもない“ただの観察”があった。


私は視線を落としたまま答える。


「……忙しいだけです」


「そ」


それで終わり。


掘り下げない。


慰めない。


拒否もしない。


それが、なぜか少しだけ楽だった。


社長は椅子の背にもたれて言う。


「企画、期待してるからな」


言い方は雑でぶっきらぼう。


まるで“ついで”みたいに軽い。


でも、その言葉のあとに、胸の奥がごく小さくふわっとした。


期待してる、の意味が、私にはまだ分からなかったけれど。


打ち合わせはそれで終わりだった。


社長は立ち上がる気配もなく、視線を資料に落としたまま言う。


「以上。出ていいよ」


「……失礼します」


私は資料を抱えて立ち上がった。


扉へ向かう。


このまま呼吸を整えて、仕事の私に戻らなければいけない。


扉に手をかけた瞬間、背中に声が落ちる。


「相根」


私は反射的に足を止めた。


「次、同じ進行でいい。お前がやれ」


決定事項を告げるだけの声。


優しくも温かくもない。


ただの事実として、短く置かれる。


私は頷いた。


「承知しました」


社長は「うん」すら言わない。


でも、その無関心みたいな終わり方が、私には不思議と刺さらなかった。


私は会議室を出て、廊下の角まで歩いたところで、ようやく息を吐いた。


肩の力が抜ける。


手のひらが、さっきより震えていない。


——冷たい人だ。


本当に、冷たい。


口も悪いし、言葉も刺さる。


それなのに、“次も君がやれ”という決定は、私の中でなぜか“拒絶”じゃなく“何か別の音”として残っている。


あの人は、私の企画にダメを出した。


容赦のない言い方で切った。


でも、切り終わったあと、私を放り投げなかった。


次、同じ進行で。


お前がやれ。

その言葉を思い出すたび、胸の奥で何かが微かに揺れる。


怖さだけの色じゃない。


悔しさとも違う。


名前のないその揺れが、私の中でほんの少しだけ、ぬくもりの形をしていた。


それに気づくのが、少しだけ怖かった。


私はもう一度、深く息を吸って、フロアへ戻った。


仕事は続く。


次の会議も、次の資料も、次のレビューも。


来週、また社長に見せる企画を作り直さなければならない。


冷たい声。


口の悪い言葉。


鋭い目。



——それでも。


私は来週の予定を思い浮かべた瞬間、体のどこかが“拒むより先に、確かめたい”と思っているのを感じた。


その感情に、まだ名前はつけられない。


でも、私はその名前のない感情を、今は少しだけ、手放したくなかった。