私は昔から片耳だけ音が聞こえない。それは何をするにも不便で、自分の暮らしのハンデだとずっと思っていた。

『片耳聞こえるならよくね?』

『聞こえてないの片耳だけなのに、なんでそんなに無視するの?』

誰にも言っていなかった。もう片耳も聞こえずらくて、いつもモヤがかかるように聞こえるんだよって。言えない。そんな自分が憎い。

人通りが多い日曜日の交差点で、私は大きな画面に映る話題になっているアイドルグループ。「FLOWERS」の広告をぼんやりと眺めていた。左耳から入ってくる歌に、私は無性に泣きたくなる。

「SORAちゃんほんとに可愛いよね〜!歌ほんと上手!」

「あ〜……FLOWERSのライブ行ってみたい!」

私と同じ画面を見る女子高生の声とすれ違う。その度に羨ましいという思いが募っていく。

生きてても音楽は心から楽しめない。人との会話もテンポが早くて聞こえずらい。聞こえなかった時は何度も聞き返して相手を困らせる。スポーツも楽しくない。後ろから人が来てても、隣からパス!という声が来てても反応できない。

楽しくないんだ。もっと人の声が聞きたい。音楽が聞きたい。自分のことを受け入れてくれる人が欲しい……。

俯きながらひたすら自分の家に向かって歩いている時だった。聞こえるはずの左耳がキーンっ、という耳鳴りと同時に一瞬だけ聞こえなくなった。

「危ない!!」

そんな声は聞こえるはずがなく、薄いライトに気がついて振り返った時には、目の前にトラックが突っ込んできていた。

「……あ」

思わず小さな震えた声が漏れて絶望に暮れる。

全く音が聞こえない。怖い。これで終わりになる……。

体に来るはずの強い痛みを覚悟した瞬間、腕を思いっきり引っ張られて誰かの胸へ飛び込んだ。同時に聞こえなくなっていたはずの左耳からは、先程と同じように音が流れ始める。安心と同時に混乱が渦巻いた。

え、何……何が起こった……?この人……誰?

私を暖かく抱きしめている男の人。勢いよく体を上げると男の人は息切れしながら髪の毛を片手でぐしゃぐしゃとかき混ぜていた。

「あー、ほんと危なかった。いきなり引っ張ってごめん!」

パシンっと豪快な音を鳴らして手を手を 合わせて謝ってくる。私が不用心だったのが悪いのに。
あ。この人の声、すごいはっきりと聞こえる。

目がきらりと輝いて、勢いよくその場で頭を下げた。

「うわっ……どうした!?」

「ありがとう……ございます。本当に……」

「いや全然大丈夫だけどさ、クラクション聞こえなかったの?」

よいしょっ、と軽く立ち上がった彼が、座り込んだままの私に手を差し伸べた。腰が抜けて立ち上がれない私は、ゆっくりとその手を掴む。ひんやりとした手は私の手を強く握って引っ張ってくれた。

クラクション……鳴ってたんだ。あの時は全く聞こえなくて……。

「え、と……はい。私片耳だけしか音が聞こえないんです」

「そうなの?じゃああの時は聞こえてなかったってこと?」

「はい。いつもは聞こえてるんですけど、あの時は……一瞬だけ音が聞こえなくなって……」

ぐっと唇を噛み締めて、手をぎゅうっと握りしめる。

申し訳ない、ただその思いが強くなる。一瞬だけ聞こえなくなった、とかそんなの嘘みたいだ。今まで出会ってきた人たちは、間違いなく嘘だって笑う。

「……そっか。今は聞こえてる?話すのちょっと早い?」

「っえ、全然大丈夫です。なぜか貴方の声はよく通って聞こえやすくて……」

「まじ!?声でかいからかな。まぁ、とりあえず無事でよかった!」

にぱっと花が咲くように笑う彼の笑顔がすごく眩しく見える。笑ったら少し顔が幼く見える。

「……うわ、なんで泣いてんの!?今、俺なんかした!?」

なんか、すっごく安心した。助けられたことも、私が聞こえているかを気にしてくれたことも、私が聞こえなかったことを理解してくれたことも……。

ぼろぼろと涙がこぼれて止まらない。家にいつもいない母親からも難聴について理解がない。片耳だけ聞こえてるからって、手をさしのべられたことがない。

「違う、違うんです。なんか、よく分からないけど、安心したら……。ありがとうございます……」

「んー、よく分からないけど、何かあったの?」

「特別嫌なこととかじゃないけど、色々……」

「そっか。じゃあさ、今から時間あるなら赤の他人の俺に不満とか、辛かったこととかぶちまけてみない?」

突然彼がそんなことを言うもんだから、わたしはすっとんきょうな声で「え?」と口にしてしまう。

「これから会うこと無いだろうし、だったら嫌なこと全部俺にぶつけていいよ」

にかっと花が咲くように笑う。まるで向日葵のようだ、と思い込むくらいに笑顔が眩しい。

みんなに色々言われてきたこととか、そんなの……初対面の人に言ってもいいの?

「すごい不快になる話かもしれない……んですけど」

ああ、卑屈。いいって言ってくれてるし、見ず知らずの私に良くしてくれてるのに、自分が暗すぎて辛い。

俯いて自分の募ってきた思いを考えていた時、彼は私の手を両手で握る。

「だったら尚更話していいから!慰めとか出来ないけど不満全部ぶちまけろ!そしたら楽になるから!」

助けて貰った瞬間から絶えない笑顔と、聞こえやすい大きなハッキリとした声。脳内に強く彼の印象が響いて埋め尽くされた。

他人にこんな話を聞いてもらうなんて、すごく不安だけど……、この人に話して少しだけでいいから気持ちを晴らしたい。

「ありがとうございます……。卑屈な話でつまらないと思いますが、よかったら少し話させてください……」

「うん!他人に公言とかしないから。気にせず、思ったこと全部言って。そこの公園で少し話そっか!」

身長が高くて顔は少し幼げ、明るくて人当たりが良くて、声がよく通る。初対面の私にも優しくしてくれる。

不思議だ。

私の前を歩く彼の背中をじっと見つめる。同い年くらいに見えるのに優しくて、私とは全然違う。

するとパッと彼が振り返った。

「歩くのはやい?大丈夫?」

「大丈夫……です」

「はやかったらすぐ言ってな!」

先程と変わらない笑顔を向けられて、目の前に流れ星が降るようにキラキラとする。

誰かとまともに話したのは……いつだったかな……。

空いていた心の隙間に当てはめるように、じんわりと胸が温もりを持つ。

彼の背中は大きくて、キラキラしてる。その時の私の目には、彼の背中に大きな羽が生えて見えていた。