しーくれっと・しぇあ

 『妖精姫』と呼ばれる女の子がいた。

 まるで妖精と見紛うほどの人離れした可愛らしい容姿と、その名に相応しい気品ある優しさに満ちた振る舞い。慈しみ溢れるその姿には、誰もが目を奪われる。

 彼女の名は白鷺梨友。高校三年生の、私立霜月学園の生徒副会長。

 『王子様』と呼ばれる男の子がいた。

 まるで絵本や文学作品に出てくるような王子様そのもので、老若男女に好かれる綺麗な顔立ち。何事も完璧にこなし、他者への気配りも欠かさないその姿には、誰もが尊敬の眼差しを向ける。

 彼の名は朔間柊斗。高校三年生の、私立霜月学園の生徒会会長。


「梨友ちゃーんっ、おはよう!」

「おはようございます」


 学園の教室で、一人の女子生徒が椅子に座って読書を嗜んでいた。
 彼女はクラスメイトに話しかけられると、ふわりと笑って挨拶を返す。

 艶やかな黒い長髪がよく映える、白皙のような肌。愛くるしいくりっとした目元と、それを縁取る豊かな睫毛。
 瑞々しい唇から発せられる、飴玉を転がすような心地よい声音。

 その姿はまるで──妖精のよう。


「今日も可愛いねぇ」

「ありがとうございます。……もしかして、水瀬さんメイク変えました? とってもお似合いです」

「え、分かるの!? すごーいっ!」


 女子生徒──梨友は水瀬と呼んだ少女に頭を撫でられる。

 梨友は誰にでも愛される子だ。優しさは言わずもがな、この世の可愛さを詰め込んだような幼い顔立ちと貞淑な振る舞い。
 それこそ、彼女が『妖精姫』と呼ばれる由縁。

 教室にいる生徒が一様に梨友へ視線を向ける最中、突然として廊下から黄色い悲鳴が上がる。

 梨友から、扉を開けて梨友のクラスへ足を踏み入れた少年へと視線が移ろう。


「朔間くん、おはようございます」

「おはよう、白鷺さん。気分はどうだい?」

「とても良いです。お気遣いありがとうございます」


 少年──朔間柊斗は、梨友へ甘い微笑みを返す。
 二人が目線を交わした途端、周囲のざわめきは色恋沙汰を持て囃す内緒話にすり替わる。

 綺麗という言葉で表すのが不敬と思えるほど整った顔立ち。洗練された所作と気品溢れる立ち居振る舞い。

 その姿はまるで──王子様のよう。

 柊斗は誰も彼もを惹きつける魅力を持つ子だ。大手企業の御曹司という生い立ちを持ち、統率力に富んだ手腕で生徒を導く。その瞳に灯る誠意と光はこの世の者とは思えぬほど輝かしい。

 それこそ、彼が『王子様』と呼ばれる由縁。

 二人は学園のツートップとして、また『姫』と『王子』という肩書きを持つ者達として、常に噂の的である。

 それは主に、恋仲なのではないか──という推測の下、であるが。
 肩書きを持つに相応しい人柄と容姿を併せ持ち、また仲良さげな様子を見て、二人の仲に割って入るなどと愚行を犯す者はいない。

 本当に付き合っているのならば……空想でしかない夢物語を真実として唱えることができると、寧ろ期待しているのである。


「そうだ。決裁資料が滞っていてね。今日の放課後、生徒会室まで来てくれないか?」

「喜んで」


 二人は微笑みを返し合う。間近で見ていた少女──水瀬天音は、にまにまと悪戯っ子のように笑った。


 その日の放課後、霜月学園生徒会室に、二人の生徒が静かに資料に向き合っていた。
 決裁を押印する音、ペンを走らせる摩擦音──一言の会話もなく、ただ静かに時間が流れていく。

 梨友は顔を上げ、生徒会長席に座る柊斗を見る。真剣な眼差しをした彼の顔をそっと眺める。

 夕日に照らされ、紅葉色に輝く横顔は、まるで本物の王子様のように美しく、妖艶だった。
 梨友はくすりと笑うと、再び資料へ目を落とす。

 ──すると、背後にある扉がノックされた。

 梨友はぴくり、とペンを走らせる手を止め、扉の方を振り返る。


「……どなたですか」

「野間だ」


 短い返答に、梨友は眉根を寄せた。野間とは学園の教員であり、梨友や柊斗もよく知る人物。
 梨友は立ち上がり、扉の方へと歩みを進める。その様子を柊斗が神妙な面持ちで見据える。

 梨友はレバーに手をかけ、静かに扉を開く。

 扉の向こう側にいたのはスーツを纏った若年の男性だった。人の良さげな、まるで作り物のような笑顔を貼り付け、そこに佇んでいる。

 梨友はちらりと男性の腹部に目を向ける。背中に隠された手元──そして、顔へと目線を滑らせる。


「……どうぞ」


 梨友が笑みを浮かべ手招きすると、男性は一歩、生徒会室へ足を踏み入れる。
 徐に男性の腕が伸び──そして、手に持っていた鋭利なナイフが、梨友の瞳に映った。


「おらぁっ!」


 突き出されたナイフが空を切り裂く。梨友は軽々と交わした一撃をいなすように、男性の手首を掴み、そして室内へ引っ張り込んだ。

 ──パタン、と閉じられた扉の先に残った沈黙とは裏腹に、生徒会室に響き渡るのは。


「ぐはっ」

「はいはーい、大人しくしてください、ねっ!」


 からんっ、とナイフが床に転がると同時に、梨友はナイフを蹴り飛ばし、間合いへ引き込んだ男性の鳩尾へ膝蹴りを喰らわせる。

 体を痙攣させた男性が力無く床に伸びたのと同時に、室内に木霊した僅かな悲鳴は消え去った。

 一瞬にも満たない、非日常の1ページを切り取ったような光景。
 梨友が男性──教員を騙った不審者を下したのを、柊斗は見慣れたような目で悪態をついた。


「んだよ、またか」

「学園のセキュリティどうなってるのよ。今年に入って3回目よ?」

「知らね。それより梨友、俺の代わりに書類片付けて」

「自分でして。私はこいつの後処理があるんだから」


 『妖精姫』と『王子様』。その肩書きにまるで似つかわしくない言動は、ここに生徒がいない事が幸いとしか言いようがない。

 ──否、いないからこそ、そのレッテルを脱ぎ捨てたのだ。

 梨友は呆れ果てたような目で柊斗を一瞥し、スマホを取り出して電話をかける。


「あー、お父さん? 清掃の人お願い。男性一人よ。生徒会室だから気をつけてね。うん、ありがと」


 明瞭簡潔な報告を終えると、室内の棚から麻縄を取り出し、気絶している男の手足を縛る。
 その間、柊斗はだらしなく机に突っ伏し、大きく欠伸をした。


「なー、梨友。これやっといて」

「それは柊斗の仕事でしょ。私の分は終わったよ」

「尚更いいじゃねぇか。俺は寝る」

「ふざけてる……?」


 拳を握り締めた梨友は、づかづかと柊斗に詰め寄り、そして拳骨を喰らわせる。


「私は柊斗のお世話係じゃないのよ。自分でしなさい生徒会長!」

「はぁ? 俺は眠いんだよ。寝させろ」

「資料が残ってるって言ったのは柊斗でしょうが」

「梨友に任せた。あとは頼む」

「……こんっのバカ御曹司がぁ!」


 再び轟いた拳骨。二度目は流石に痛かったのか、脳天を抑えながら柊斗は梨友をきっと睨む。


「いいじゃねーか。俺は生徒会長。梨友は副会長。上の人間には従うのが摂理だ」

「適材適所って言葉を知らないのバカ御曹司」

「知ってる。そこまで馬鹿じゃない」

「ならしなさい」

「無理。眠い。寝る。おやすみ」

「……あのねぇ」


 瞼を閉じて睡眠の体勢に入る柊斗を、梨友は軽蔑したような目で見下ろす。
 一息、深呼吸をした後、梨友は拳を握り締めた。


「私は柊斗のSP! お世話係でも、部下でもないの!」

「いっ!」


 三度、雷撃が柊斗を襲う。悶えるように呻く柊斗を見て、梨友はふんっと鼻を鳴らした。

 霜月学園の『妖精姫』と『王子様』。

 夢想の存在をそのまま体現したような二人は、生徒達に慕われ、憧憬の眼差しを向けられ、尊敬の対象として祭り上げられていた。

 けれど彼らの正体は、皆が持つ印象とはまるでかけ離れていたのである。

 ──『妖精姫』は『超絶武力系SP』であり。
 ──『王子様』は『無気力御曹司』だった。

 これは、秘密を共有する二人の、少し歪な学園生活を描いた物語だ。


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 拳骨が下されて十分後、梨友の生家──白鷺家お抱えの『清掃班』が到着し、依然気絶したままの男性を回収して行った。

 ひらひらと手を振り見送った梨友は、資料を枕にして寝ぼけ面をした柊斗へ向き直る。


「まったく、もう少しセキュリティを強化してよね」

「……」

「生徒会室だけ防音にするとか……私に全部処理させよう、なんて思惑じゃないでしょうね」

「……」

「他の生徒に危険が及んだらどうする……って、柊斗聞いてる?」


 梨友は訝しんで柊斗に近づく。柊斗から聞こえてくるのは穏やかな寝息。
 四度目の制裁が柊斗を襲ったのは、その三秒後のことであった。


「……で? どこが終わってないのよ」

「全部」

「……真面目に仕事してるなって珍しく感心してたのに、裏切ったわね」

「だるい」

「仕方ないなぁ……期日明日までだし」


 梨友は呆れ果て、柊斗が残した書類を持って元の席へ戻り、ペンを手に取った。

 白鷺梨友──妖精姫の名を冠した、柊斗を警護する敏腕SP。可憐な容姿を逆手に取り、人畜無害な人間を演じながら秘密裏に柊斗を守ることを使命とする少女。

 生家である白鷺家は、代々やんごとなき御仁の身辺警護を生業としていた。幼少期より親交のあった親同士の決定によって、高校2年生よりSPを務めている。


「じゃあ任せた。おやすみ」

「はいはい……」


 朔間柊斗──王子様の名を冠した、無気力御曹司。国内外に強い影響力を誇る朔間ホールディングスの正当な後継者であり、その奇特な生い立ち故に危害を加えんとする者は多数。

 されど本人は気にも留めておらず、何より優先すべきは『どのようにしてサボるか』である。命の危険など二の次だ。

 柊斗が昼寝を始める中、梨友は一人机に向かって書類に目を通し、決裁を押印していく。
 その手捌きはさながら、熟練の事務職員とも言うべきか……一つ一つ内容を吟味しつつ、迅速に判断を下していく。

 日が暮れる頃、梨友はようやく柊斗が担当している分の書類を全て捌ききった。


「だっはー……終わった」


 書類の山を積み重ね、指定の保管場所へし舞い込んだ梨友は、無事爆睡している柊斗の脳天に怒りのチョップをお見舞いする。


「いっ……なんだ、梨友か」

「なんだじゃないでしょう。日が暮れたわ。迎え呼ぶから待ってなさい」

「……ん」


 寝ぼけ眼をした柊斗は気だるそうに相槌を打つ。耐性のない人間が見れば卒倒しそうなほど色気溢れる様だったが、梨友は気にも留めずに電話をかけ始める。


「白鷺です。生徒会の仕事が終わって……はい、校門の方にお願いします」


 柊斗の生家──朔間家お抱えの運転手への連絡を終えると、一向に動く気配のない柊斗を横目に、自分の荷物をまとめ、帰り支度を終わらせる。


「ほら、帰る準備して」

「んー……」

「寝るな。起きなさい」


 柊斗の身体を揺すってみるが、寝言のような囁き声を漏らすだけだ。梨友が幾度目かの手刀を振りかざし、脳天へと下ろされる……直前。


「……誰か来る」


 さらり、と僅かに触れた髪の毛の感覚。こそばゆい手をさっと戻し、梨友は生徒会室の扉へ目を向けた。

 鍛えられた梨友の鼓膜を震わせるのは、こちらへ迫ってくる足音。小走りなのか慌ただしい音へ警戒を顕にする。

 足音は生徒会室の前でピタリと止まった。そして、レバーがそっと降ろされ、僅かに軋ませながら扉が開かれる。


「やっほー! お疲れ様ぁ!」


 脳天気な声とともにひょっこりと顔を出したのは、今朝梨友の頭を撫でて可愛がっていた、クラスメイトの水瀬天音だった。大人っぽく綺麗な顔立ちに似合わない、子どもらしい声色に、空気が一瞬弛緩する。

 同時に、天音が現れたのを瞬時に悟った二人は、即座に表の顔を繕う。


「水瀬さん、お疲れさまです」

「お疲れ様、水瀬さん」


 剣を滲ませていた梨友は柔和な笑みを浮かべ、机に突っ伏していた柊斗は何事も無かったかのように姿勢を正す。

 あまりにも手馴れた切り替えに、天音は気づく素振りすらない。


「ごめんねー。書類、私も手伝えたら良かったんだけど……」

「決裁書類は僕たちの領分だから気にしなくていいよ」

「水瀬さんは議事録のまとめをしていたんですよね」

「そうそう。出来たやつ棚にしまっとくねー。書記としてちゃんと仕事したよん!」

「助かるよ」


 和やかな会話をしつつ抱えている紙束を室内の棚へ置くと、天音の目線は即座に梨友へ向いた。
 その瞳は、まるでダイヤモンドのような至宝の輝きを秘めていて。

 天音は小走りで梨友へ駆け寄り、そして──両手を広げ、愛情いっぱいのハグをした。


「はぁ〜っ! ほんっとうに可愛すぎりゅ……!」


 すりすりと頬を擦り合わせる少女達。その様を見ている柊斗は、見慣れた光景とでも言いたげに微笑む。


「み、水瀬さん……」

「あっ、ごめんごめん。今日はまだ可愛い成分足りてなくてさ〜」

「私なんかで供給できるんでしょうか……」

「何言ってるの。梨友ちゃんの可愛さは世界……ううん、宇宙一! こんなに可愛い子会ったことないもん〜!」

「それは……嬉しいです。ありがとうございます」

「きゃー! 照れる梨友ちゃんもかっわいいー!」


 一度離したはずの手が、再び梨友へと重なる。愛情に満ち溢れすぎた抱擁を為す術なく受け入れる梨友の顔は少し引き攣っていた。

 とはいえ、自分の容姿を褒められるのは悪い気はしないので、流されるままになっている。

 水瀬天音──生徒会書記。二人のクラスメイトで、社交的であり、二人に負けず劣らず容姿端麗であり、そして何より、『可愛い』が大好きな少女。

 優良な人間性と裏表のない性格、世渡り上手な器用さ。生徒会メンバーのムードメーカー的存在だ。


「あっ、そういえば椎野くん、明日は生徒会室来れそうだって」

「慧は……今日は塾だったね」

「うん。明日は用事ないからって今日言ってたよ」

「そう。今は会計の仕事も一段落してるし、無理はしないで欲しいんだけどね」

「そうだよねぇ……」


 梨友を抱きしめたまま、視線だけ柊斗に注ぐという器用なコミュニケーション。そして梨友への力はまるで弱まらない。

 そろそろ窒息しそうな梨友は、やんわりと天音の腕から逃げ、人知れず一息ついた。


「あやっ、ごめんね梨友ちゃん……」

「全然平気ですよ。それより、そろそろ帰らないといけないですね」

「そうだね。校門まで一緒に行かない?」

「……はい。ご一緒します。朔間くんはどうされますか?」


 にこっと天音に笑いかけたかと思えば、柊斗の方を振り返り、一転して凄みのある剣幕を投げかけた。


「……僕も一緒に行くよ」


 『早く支度をしろ』と目だけで訴えかけられた柊斗は、渋々荷物をまとめ、鞄を持つ。

 生徒会室の鍵を掛け、職員室へ鍵を返却すると、三人は揃って昇降口をくぐり抜けた。

 春先の暖かい風が頬を撫ぜ、茜色の斜陽が校門を照らしている。何気のない日常の中に在る綺麗な景色に、天音は「眩しい〜」と呑気に呟く。

 校門を通り抜けた矢先、天音が再び口を開いた。


「私はこっちだけど……二人は?」

「僕は迎えが来ているからそこまで歩くよ」

「私はあっちです」


 二人は天音とは逆方向を指さす。息のあった仕草に天音は目をぱちくりしつつ、悪戯好きな子どものようにニマニマと笑う。


「おっけ。じゃあ私はここでね。ばいばい!」

「はい。また明日」

「お疲れ様」


 歩き出しながら手を振る天音に、揃って手を振り返す柊斗と梨友。天音の姿が見えなくなると、やれ安心したように腕を下ろした。


「……水瀬さんが来てくれて助かったわ」

「何で?」

「じゃないと柊斗の帰り支度、私がする羽目になってたでしょ?」

「……」

「沈黙は肯定と一緒だからね。車の所まで行くよ」

「ん」


 柊斗が天音とは反対側へ歩きだし、少し遅れて梨友も後を追う。決して横には並ばないのが梨友のやり方だ。

 背後を取るのは自分。正面から危険が及んでも対応できるように、程々の距離を保ちながら、迎えの車がある目的地へ向かう。

 学校から少し離れた場所にある、車道の脇に停められている高級車。閑散とした路地に置いておくには違和感が募るそれが見えると、梨友は柊斗を追い抜かして車へ駆け寄り、運転手の顔を見た。


「……お疲れ様です。白鷺です」

「おう。お疲れさん。……坊ちゃんは?」

「いつも通り後ろに……」


 見慣れた運転手の顔に安堵した梨友が振り返ると──一瞬キラリと輝いた斜陽が視界を掠めた。


「(──ナイフ、もしくは鋭利な凶器)」


 梨友は瞬時に地面を蹴り、柊斗の方へ跳び上がる。口元を布で覆われ、ガタイの良い男性二人に羽交い締めにされた柊斗……首元に突きつけられたナイフ。

 声も出せず、藻掻く事もしない柊斗に嘆息した梨友は、一切の躊躇いなく、そして異次元の速度で、ナイフを持つ屈強な手へ手刀を振り下ろした。


「っで!」


 乾いた音と共に落下するナイフを背後へ蹴り、そのまま路地の壁を伝って宙返りした勢いで、男性の脳天に踵を喰らわせる。

 鈍い音と同時にノックダウンした一人目の敵をものともせず、次いで柊斗を人質のように腕一本で拘束した二人目の敵に向かって、梨友は正面を向いた。


「お兄さん、その手を離してもらえませんか?」


 愛らしい顔立ちから放たれる艷麗な微笑に、男性は一瞬身動ぎする。
 しかし、梨友が反応するよりも前に、柊斗を盾に取る腕へ再び力が込められた。


「そいつは無理な話だ、愛らしいお嬢さん」

「嫌ですか? 離して欲しいだけなんですが……」

「オレは一般人には手を出さない主義でね。悪いことは言わない。見なかったことにするんだな」

「……私のこと一般人だと思っていらっしゃるんですね」

「最初は普通の生徒だと思ってたが……まあ、違うよなぁ!」


 もう片方の腕を臀部に回したかと思えば、男性の手にはナイフが握られていた。
 それを認識するよりも前に、梨友の眼前に犀利な切っ先が迫る。

 ──受けきれない。目は潰されては戦えない。

 刹那の間に逡巡した梨友は最小限の動きで攻撃を横に躱し、体勢を崩した男性の脇腹へ、拳をぶち込んだ。


「ゔっ」

「離してもらいますねー」


 倒れ込む男性から柊斗を奪い取り、トドメと言わんばかりに首筋へ柔らかく手刀を下す。

 終ぞ物言わぬ屍……と言って差し支えなくなった二人を下目に、梨友は柊斗に肩を貸す。


「柊斗、怪我は?」

「ん、無い」

「良かった。普通にびっくりした……また奇襲なんて、つくづく柊斗も大変よね」

「別に……」

「とりあえず車に乗って。こいつらは後で雇い主吐かせるから」


 最後に吐き捨てるように、横たわる男性へ蹴りを一発お見舞いした梨友は、眠たそうに瞼を瞬かせる柊斗の身体を支えながら、車へ運び込む。

 『清掃班』への連絡を済ませ、しっかり移送されたのを見届けた後、梨友は柊斗の隣の席へ乗り込んだ。


「お待たせしました。お願いします」

「はいよ。ったく、白鷺の嬢ちゃんはよくやるねぇ……」


 運転手は感心したように頭を掻き、エンジンをかけた。

 梨友は隣でこくん、こくんと船を漕ぐ柊斗を見ながら、密かに胸を撫で下ろす。

 梨友は知っている。柊斗が本当は『誘拐されてもいい』と思っていることを。
 例えその身に危険が迫ろうが、梨友が守りきれずに任務を失敗しようが、柊斗自身は関心が薄く、問題とすら思っていないことを。

 だからこそ自分は守らねばならない。自分の存在意義すら投げ出すような、危ういバカ御曹司のことを。


「……梨友」

「ん? 何、どうかしたの」


 とろんとした眠たげな双眸が、確かな意志を持って梨友へ向けられる。
 柊斗は欠伸を咬み殺すように口元を揺らし、言の葉を紡ぐ。


「梨友は、どうして俺のSPをしてる」

「どうしてって……それが私の仕事だから」

「……猫を被っても?」

「まあね。相手を欺くには、私の人柄を誤解してもらうのが手っ取り早いの。純真無垢なお姫様……なんてぴったりの役でしょ?」

「……そうか」


 柊斗は知っている。梨友が本当に『柊斗のことを考えてくれる』、唯一の人間であることを。
 重い期待を一身に背負い、優秀であることを強制され、完璧を演じていた柊斗の裏の顔を知っても、疑問すら抱かず受け入れた強い人間だと。

 その容姿と手腕があれば、選択肢などいくらでもあっただろうに。

 だからこそ自分は守らねばならない。綿飴を焦がすような、甘くもほろ苦い、梨友と共にいられるこの時間を。


「……っていうかもう寝るの?」

「寝る」

「はいはい……私が着いて行けるの家の前までだからね。それまではゆっくりしてて」

「ん……さんきゅ」


 柊斗は瞼を閉じる。やたらとのしかかる眠気が、今だけはは心地が良かった。

 意識を飛ばした柊斗の頬が、そっと梨友の肩に乗った。

 優しい重みと温もりが梨友を包み込む。中性的で綺麗な顔立ちに似つかわしい──否、理想的すぎる生い立ちを持つ青年。

 すやすやと静かな寝息を立てる柊斗の耳元で、梨友は静かに囁いた。


「……頼むから、生徒会の仕事だけはしてよね……」


 ──いい雰囲気じゃねぇか、と一人満足げに頷いていた運転手が、微かに聞こえたその言葉を聞いて吹き出したのは、また別のお話。