ふっと意識が戻ったとき、私は椅子に腰かけ、うつむいていた。
自分の瞳の色と同じ鮮やかなエメラルドグリーンのドレスが目に入る。そして、頬にはゆるいカーブを描いた赤茶の髪が落ちかかっていた。
身じろぎした瞬間、自分が後ろ手に縛られているのがわかる。
(えっ、私、どうして……?)
今置かれている状況がわからず、戸惑った。
なにか薬でも嗅がされたのか、鼻の奥に甘ったるい匂いが残っており、頭がズキズキと痛む。
少し視線を上げると、磨き上げられた黒いブーツが見えた。その上には長い脚を包む濃紺のトラウザーズ。どちらもシンプルながら高級感ただようデザインで、細かい刺繍の入ったマントがその方の高貴な身分を思わせた。
(まさか……)
そのシルエットに思い当たる人がいた。でも、確定させたくなくて、私は目を伏せたままでいた。
それなのに、相手が声をかけてくる。
「目が覚めたのか、エリステラ」
艶のある低い声にはやはり聞き覚えがあった。違うと思いたかったのに。
私は覚悟を決めて、視線を上げた。
その先には輝く紫の双眸があり、ひどく整った顔が私を見下ろしていた。
「っ……、ネルスト殿下……」
予想通りとはいえ、こんな状態で会いたくなかった人だ。
慌てるでもなく私の前にたたずんでいるということは、今の状況は彼が引き起こしたものなのだろう。
胸の奥がズキリと痛んだ。
私が眉をひそめたのに気づいたはずなのに、ネルスト様は形のよい唇の端を上げ、微笑む。その顔は美しいけれど、出会った頃のように作り物めいていた。
私を見ているようで見ていない瞳。
考えが読めない表情。
彼は長い指で私の顎を持ち上げた。そして、身をかがめ、顔を覗き込んでくる。
「エリステラ、私の妃になれ」
「えっ……?」
予期しなかった命令に私は戸惑い、目を瞬いた。
王太子の婚約者である私にそんなことを言ってくる人がいるなんて思いもよらなかったのだ。しかも、よりによって、前王の息子であるネルスト殿下の口からそんな言葉が出るとは信じられない。
私の反応が気に入らなかったのか、ネルスト殿下は目を眇める。
「……さもなくば、死になさい」
優しくさえある口調とともに、ギラリと光る短剣が喉元に突きつけられた――。
***
(今日は帰ってなにを作ろうかなぁ)
王立学校の授業が終わって帰る準備をしながら、私、エリステラ・クロイツはぼんやり考えていた。
そこへクラスメイトのアメリア伯爵令嬢が声をかけてくる。
「エリステラ様、この間いただいたクッキー、とてもおいしかったわ! あんなサクサクとした口当たりのいいクッキーは初めて。どちらでお買い求めになったの?」
「お口に合ってよかったわ。あれはうちのシェフが作ったものなの」
「まぁ! さすがクロイツ侯爵家。腕のいいシェフをお抱えなのですね。うらやましいわ」
「そうね……」
私はうなずきながら、言葉を濁した。
実はうちで供されるスイーツはほとんど私が作っている。
なぜならこの世界にはあまりにお菓子の種類が少ないからだ。
(前世並みでなくていいから、もうちょっとお菓子がほしいな……)
侯爵家専属のシェフが作る料理はとてもおいしいのに、デザートにフルーツの甘露煮とパサパサしたビスケットしか出てこないと知ったときは衝撃的だった。
(なんでよ!? お貴族様といったらアフターヌーンティーじゃない? せめてホットチョコレートぐらいあってもよくない?)
私は甘いものが大好きだ。
特にチョコレートを愛している。
それなのに、転生したこの世界には大好きなお菓子がない。それがわかったときのショックは、自分が悪役令嬢に転生していると気づいたとき以上だった。
(あのときは三日も寝込んでしまったなぁ)
これは由々しき問題だと思った私は自分で作ることにしたのだ。
幸い、食材は見慣れたものだったし、侯爵家の力で砂糖のように貴重なものも簡単に手に入る。
侯爵令嬢が厨房に立つなんてと反対されたけれど、お父様にプリンを食べさせて、いかに私が特別なお菓子を作れるかをプレゼンして権利を勝ち取った。プレゼンは前世から得意だったからね。
そんな回想をしていた私に、アメリアは首をかしげて言ってきた。
「そういえば、不思議なの。風邪気味だったのに、あのクッキーを食べたら、嘘のように治ってしまって」
「そ、それはたまたまじゃないかしら?」
私は笑ってごまかそうとする。
(本当は回復効果が付いているからなんだけどね)
でも、納得してくれなかったアメリアはさらに言い募ろうとした。
「そうかしら? 前にも――」
彼女がなにか言いかけたとき、横からイディアル・ルアノ第一王子が話しかけてきた。
「エリステラ、ちょっといいか?」
「はい、なんでしょう?」
タイミングよく現れた彼は私の婚約者だ。とは言っても、形式的な関係なので、甘い表情一つない。
イディアル気づくと、アメリアは会釈してそっと離れていった。
彼の登場を喜ぶことはめったにないけれど、今回だけは助かった。
私がイディアルのほうを向いたら、彼はそっけない口調で告げてくる。
「悪いが、今度の舞踏会のパートナーはできない。オルレイン伯爵令嬢をエスコートすることになったんだ」
口で言うほど悪いと思っていない表情だ。
「承知しました」
こんなところで言わなくてもいいのにと思いつつ、私は素直にうなずいた。
授業が終わっても教室にはちらほらと生徒が残っている。
周囲から好奇心や憐れみに満ちた視線を感じた。
慣れたものだけど、やっぱり気分はよくない。
私たちの婚約は、有力貴族である父クロイツ侯爵の後ろ盾を得るために王室が結んだ政略的なものだ。イディアルはそれが気に入らないようで、今までも公式行事以外で私をエスコートすることはなかった。だから、今回もたぶんそう言われるだろうなと予期していたから驚きはない。
(はいはい、わかってるわ。あなたが最後まで私に興味がないことぐらい。このまま穏やかに婚約解消してくれたらいいのに)
いつものように怒りもしないであっさりしている私を見て、イディアルは不満げに髪を掻き上げた。
金髪が彼の指から滑り落ちて、窓からの日差しを反射してきらめく。
自分の見目がいいことを意識しているようなしぐさに、私は白けていたが、周りの女子からは歓声があがった。素敵、かっこいいと。
たしかに顔は抜群にいい。私には響かないけど。
周囲の称賛に気をよくしたようなイディアルは真っ青な瞳を私に向けて、つぶやいた。
「つまらないな」
わざとらしく彫の深い顔をしかめた彼は、煽って私の反応を引き出したかったようだ。
(その手には乗りませんよ。私はぜったいに悪役令嬢にはならないわ!)
なにを言われようと、イディアルにくってかかったり、彼のパートナーに嫉妬して嫌がらせをしたりなんてしないと心に決めている。だって、そんなことをしたら、婚約破棄どころか国外追放されたうえに殺されてしまうことを知っているから。
(そんなことより、私はチョコが食べたいの! 絶対にカカオを見つけて、チョコレートを作るんだから!)
私の前世はゲーム会社の営業職だ。
あるとき出張から帰ったら、同棲している恋人の浮気現場に出くわし、ショックで家から飛び出したところ、トラックに撥ねられた。
そのままブラックアウトして、気がついたら恋愛ゲーム『あなたの瞳に囚われて』の悪役令嬢に転生していた。
(なんでよりによって悪役令嬢なのよ……)
十歳で前世を思い出したときには自分の悲惨な未来を憂いて絶望したものだ。
このゲームは自社商品だったし、自分もはまってやり込んでいたから、内容は熟知している。
なんなら裏設定までばっちりだ。
だから、攻略対象者であるイディアルがまもなく転入してくる聖女に心を奪われるのも知っているし、聖女であるヒロインがどの相手を選んでも私は断罪される流れになるのも知っていた。
(そんなの冗談じゃないわ)
でも、まだゲーム開始の何年も前だったし、『もう恋はしない! 私はお菓子作りに生きていく!』と誓った。
それ以来、私はイディアルと適度な距離を取り、ほかの攻略対象者にも近づかず、清く正しく生きてきたのだ。断罪される理由を作らないように。
今回も私は早々に退散することにした。
「イディアル様、わざわざお知らせいだたき、ありがとうございます。それでは失礼いたします」
私は優雅に礼をして、引き留められる前にさっさと教室を出た。
廊下に出るとすぐに、イディアルのことなんか忘れて、私の頭の中はこれから作るお菓子のことでいっぱいになる。
(今日はなにを作ろうかな? クッキー、シフォンケーキ、プリン……そうだ、シュークリームなんていいかもしれない)
スイーツを思い浮かべると、楽しい気分になってきて、足取りが弾む。
私は大好きなお菓子があれば幸せなのだ。
「クスッ」
私をちらりと見て、通りすがりの上級生が笑った。いつのまにか鼻歌が漏れていたようだ。
(ネ、ネルスト様……! 聞かれた!?)
恥ずかしくて、かあっと顔が熱くなる。
その繊細な美しい顔に笑みを浮かべていたのはネルスト・ガルダス公爵殿下だった。
少し癖のある黒い前髪の奥にはきらめくアメジストのような瞳があって、色気のあるまなざしにうっかり見惚れてしまう。
先王の息子である彼は隠れ攻略対象者で、ゲームの中で一番の推しだった。
複雑な立場で闇落ちしかけるネルストをヒロインが救うとシークレットエンディングが始まり、どこか斜に構えたような彼が一転、甘く溺愛してくるのだ。
思い出すだけで、キャーッと叫びたくなるくらい素敵で、お気に入りのストーリーだった。
三次元のネルスト様はそれはそれは麗しくて、笑っていてもどこか影のある表情に心を奪われそうになる。
(でも、近寄ってはだめよ。危険だわ)
攻略対象者のそばにはきっと断罪の未来がある。
前世の推しにリアルで会えるなんて夢のようだけど、油断したらいけない。
私はぺこりとお辞儀をして、そそくさと通り過ぎた。
侯爵家の馬車が停めてある場所へ着くと、馭者が待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢さま。まっすぐお屋敷へ戻られますか?」
「うん。今日はあなたも好きなシュークリームを作ろうと思って」
私の言葉に彼はゴクリと唾を呑み込んだ。
「シュークリーム!」
彼の目が輝き、期待のまなざしで見つめられる。
いつも作ったお菓子皆に分けていたから、今日ももらえないかと思ったようだ。
もちろん、おすそ分けするつもりだ。
だって、私は意地悪な悪役令嬢じゃないからね。
「できたら、あなたにもあげるわね」
「ありがとうございます! お嬢さまの作るお菓子はとびきりおいしいうえに、なんだか疲労まで取れる気がするんですよね」
「それはよかったわ」
喜ぶ馭者に私は心の中でつぶやいた。
(疲れが取れるはずよ。回復効果がついてるんだもの)
でも、それは誰にも明かせない。
「それでは、早く帰りましょう」
ウキウキした様子の馭者に急かされて馬車に乗ると、私は初めてシフォンケーキを焼いたときのことを思い出した。
オーブンからシフォンケーキを取り出して、焼き具合を確かめようとしたら、うっすら文字が浮いているのに気づいた。
それはこう読めた。『シフォンケーキ:回復(ちょびっと)、浄化(かなり)』と。
(どういうこと?)
どうやら私には鑑定のスキルがあるらしく、そのうえ、私の作ったお菓子には、回復や浄化、解毒の効果が付くことがわかった。
(すごい! さすがゲームの世界! 私のスキル、最高じゃない?)
馭者の食べたのは回復の効果が付いたものだったのだろう。
でも、私はそのことを誰にも家族にすら言っていない。
目立たず、静かに暮らすのが私の望みだからだ。
その代わり、いろんなお菓子を作って、効果を確かめた。
お菓子の種類は関係なく、ランダムに効果が付くようだ。
一つのお菓子に、『回復(超)』『浄化(超)』『解毒(超)』が付いたものなどもあった。
そこで、日持ちする飴をいっぱい作って、いろんな効果が付いたものを小瓶に入れて持ち歩くことにした。
(これ一つで非常事態でもなんとかなりそう)
強力なアイテムを手に入れて、明るい未来が見えてきた気がする。
私はカラフルな飴の入った小瓶を眺め、にんまりした。
このスキルが予想もしない運命に私を叩き落とすとも知らずに――
自分の瞳の色と同じ鮮やかなエメラルドグリーンのドレスが目に入る。そして、頬にはゆるいカーブを描いた赤茶の髪が落ちかかっていた。
身じろぎした瞬間、自分が後ろ手に縛られているのがわかる。
(えっ、私、どうして……?)
今置かれている状況がわからず、戸惑った。
なにか薬でも嗅がされたのか、鼻の奥に甘ったるい匂いが残っており、頭がズキズキと痛む。
少し視線を上げると、磨き上げられた黒いブーツが見えた。その上には長い脚を包む濃紺のトラウザーズ。どちらもシンプルながら高級感ただようデザインで、細かい刺繍の入ったマントがその方の高貴な身分を思わせた。
(まさか……)
そのシルエットに思い当たる人がいた。でも、確定させたくなくて、私は目を伏せたままでいた。
それなのに、相手が声をかけてくる。
「目が覚めたのか、エリステラ」
艶のある低い声にはやはり聞き覚えがあった。違うと思いたかったのに。
私は覚悟を決めて、視線を上げた。
その先には輝く紫の双眸があり、ひどく整った顔が私を見下ろしていた。
「っ……、ネルスト殿下……」
予想通りとはいえ、こんな状態で会いたくなかった人だ。
慌てるでもなく私の前にたたずんでいるということは、今の状況は彼が引き起こしたものなのだろう。
胸の奥がズキリと痛んだ。
私が眉をひそめたのに気づいたはずなのに、ネルスト様は形のよい唇の端を上げ、微笑む。その顔は美しいけれど、出会った頃のように作り物めいていた。
私を見ているようで見ていない瞳。
考えが読めない表情。
彼は長い指で私の顎を持ち上げた。そして、身をかがめ、顔を覗き込んでくる。
「エリステラ、私の妃になれ」
「えっ……?」
予期しなかった命令に私は戸惑い、目を瞬いた。
王太子の婚約者である私にそんなことを言ってくる人がいるなんて思いもよらなかったのだ。しかも、よりによって、前王の息子であるネルスト殿下の口からそんな言葉が出るとは信じられない。
私の反応が気に入らなかったのか、ネルスト殿下は目を眇める。
「……さもなくば、死になさい」
優しくさえある口調とともに、ギラリと光る短剣が喉元に突きつけられた――。
***
(今日は帰ってなにを作ろうかなぁ)
王立学校の授業が終わって帰る準備をしながら、私、エリステラ・クロイツはぼんやり考えていた。
そこへクラスメイトのアメリア伯爵令嬢が声をかけてくる。
「エリステラ様、この間いただいたクッキー、とてもおいしかったわ! あんなサクサクとした口当たりのいいクッキーは初めて。どちらでお買い求めになったの?」
「お口に合ってよかったわ。あれはうちのシェフが作ったものなの」
「まぁ! さすがクロイツ侯爵家。腕のいいシェフをお抱えなのですね。うらやましいわ」
「そうね……」
私はうなずきながら、言葉を濁した。
実はうちで供されるスイーツはほとんど私が作っている。
なぜならこの世界にはあまりにお菓子の種類が少ないからだ。
(前世並みでなくていいから、もうちょっとお菓子がほしいな……)
侯爵家専属のシェフが作る料理はとてもおいしいのに、デザートにフルーツの甘露煮とパサパサしたビスケットしか出てこないと知ったときは衝撃的だった。
(なんでよ!? お貴族様といったらアフターヌーンティーじゃない? せめてホットチョコレートぐらいあってもよくない?)
私は甘いものが大好きだ。
特にチョコレートを愛している。
それなのに、転生したこの世界には大好きなお菓子がない。それがわかったときのショックは、自分が悪役令嬢に転生していると気づいたとき以上だった。
(あのときは三日も寝込んでしまったなぁ)
これは由々しき問題だと思った私は自分で作ることにしたのだ。
幸い、食材は見慣れたものだったし、侯爵家の力で砂糖のように貴重なものも簡単に手に入る。
侯爵令嬢が厨房に立つなんてと反対されたけれど、お父様にプリンを食べさせて、いかに私が特別なお菓子を作れるかをプレゼンして権利を勝ち取った。プレゼンは前世から得意だったからね。
そんな回想をしていた私に、アメリアは首をかしげて言ってきた。
「そういえば、不思議なの。風邪気味だったのに、あのクッキーを食べたら、嘘のように治ってしまって」
「そ、それはたまたまじゃないかしら?」
私は笑ってごまかそうとする。
(本当は回復効果が付いているからなんだけどね)
でも、納得してくれなかったアメリアはさらに言い募ろうとした。
「そうかしら? 前にも――」
彼女がなにか言いかけたとき、横からイディアル・ルアノ第一王子が話しかけてきた。
「エリステラ、ちょっといいか?」
「はい、なんでしょう?」
タイミングよく現れた彼は私の婚約者だ。とは言っても、形式的な関係なので、甘い表情一つない。
イディアル気づくと、アメリアは会釈してそっと離れていった。
彼の登場を喜ぶことはめったにないけれど、今回だけは助かった。
私がイディアルのほうを向いたら、彼はそっけない口調で告げてくる。
「悪いが、今度の舞踏会のパートナーはできない。オルレイン伯爵令嬢をエスコートすることになったんだ」
口で言うほど悪いと思っていない表情だ。
「承知しました」
こんなところで言わなくてもいいのにと思いつつ、私は素直にうなずいた。
授業が終わっても教室にはちらほらと生徒が残っている。
周囲から好奇心や憐れみに満ちた視線を感じた。
慣れたものだけど、やっぱり気分はよくない。
私たちの婚約は、有力貴族である父クロイツ侯爵の後ろ盾を得るために王室が結んだ政略的なものだ。イディアルはそれが気に入らないようで、今までも公式行事以外で私をエスコートすることはなかった。だから、今回もたぶんそう言われるだろうなと予期していたから驚きはない。
(はいはい、わかってるわ。あなたが最後まで私に興味がないことぐらい。このまま穏やかに婚約解消してくれたらいいのに)
いつものように怒りもしないであっさりしている私を見て、イディアルは不満げに髪を掻き上げた。
金髪が彼の指から滑り落ちて、窓からの日差しを反射してきらめく。
自分の見目がいいことを意識しているようなしぐさに、私は白けていたが、周りの女子からは歓声があがった。素敵、かっこいいと。
たしかに顔は抜群にいい。私には響かないけど。
周囲の称賛に気をよくしたようなイディアルは真っ青な瞳を私に向けて、つぶやいた。
「つまらないな」
わざとらしく彫の深い顔をしかめた彼は、煽って私の反応を引き出したかったようだ。
(その手には乗りませんよ。私はぜったいに悪役令嬢にはならないわ!)
なにを言われようと、イディアルにくってかかったり、彼のパートナーに嫉妬して嫌がらせをしたりなんてしないと心に決めている。だって、そんなことをしたら、婚約破棄どころか国外追放されたうえに殺されてしまうことを知っているから。
(そんなことより、私はチョコが食べたいの! 絶対にカカオを見つけて、チョコレートを作るんだから!)
私の前世はゲーム会社の営業職だ。
あるとき出張から帰ったら、同棲している恋人の浮気現場に出くわし、ショックで家から飛び出したところ、トラックに撥ねられた。
そのままブラックアウトして、気がついたら恋愛ゲーム『あなたの瞳に囚われて』の悪役令嬢に転生していた。
(なんでよりによって悪役令嬢なのよ……)
十歳で前世を思い出したときには自分の悲惨な未来を憂いて絶望したものだ。
このゲームは自社商品だったし、自分もはまってやり込んでいたから、内容は熟知している。
なんなら裏設定までばっちりだ。
だから、攻略対象者であるイディアルがまもなく転入してくる聖女に心を奪われるのも知っているし、聖女であるヒロインがどの相手を選んでも私は断罪される流れになるのも知っていた。
(そんなの冗談じゃないわ)
でも、まだゲーム開始の何年も前だったし、『もう恋はしない! 私はお菓子作りに生きていく!』と誓った。
それ以来、私はイディアルと適度な距離を取り、ほかの攻略対象者にも近づかず、清く正しく生きてきたのだ。断罪される理由を作らないように。
今回も私は早々に退散することにした。
「イディアル様、わざわざお知らせいだたき、ありがとうございます。それでは失礼いたします」
私は優雅に礼をして、引き留められる前にさっさと教室を出た。
廊下に出るとすぐに、イディアルのことなんか忘れて、私の頭の中はこれから作るお菓子のことでいっぱいになる。
(今日はなにを作ろうかな? クッキー、シフォンケーキ、プリン……そうだ、シュークリームなんていいかもしれない)
スイーツを思い浮かべると、楽しい気分になってきて、足取りが弾む。
私は大好きなお菓子があれば幸せなのだ。
「クスッ」
私をちらりと見て、通りすがりの上級生が笑った。いつのまにか鼻歌が漏れていたようだ。
(ネ、ネルスト様……! 聞かれた!?)
恥ずかしくて、かあっと顔が熱くなる。
その繊細な美しい顔に笑みを浮かべていたのはネルスト・ガルダス公爵殿下だった。
少し癖のある黒い前髪の奥にはきらめくアメジストのような瞳があって、色気のあるまなざしにうっかり見惚れてしまう。
先王の息子である彼は隠れ攻略対象者で、ゲームの中で一番の推しだった。
複雑な立場で闇落ちしかけるネルストをヒロインが救うとシークレットエンディングが始まり、どこか斜に構えたような彼が一転、甘く溺愛してくるのだ。
思い出すだけで、キャーッと叫びたくなるくらい素敵で、お気に入りのストーリーだった。
三次元のネルスト様はそれはそれは麗しくて、笑っていてもどこか影のある表情に心を奪われそうになる。
(でも、近寄ってはだめよ。危険だわ)
攻略対象者のそばにはきっと断罪の未来がある。
前世の推しにリアルで会えるなんて夢のようだけど、油断したらいけない。
私はぺこりとお辞儀をして、そそくさと通り過ぎた。
侯爵家の馬車が停めてある場所へ着くと、馭者が待っていた。
「おかえりなさいませ、お嬢さま。まっすぐお屋敷へ戻られますか?」
「うん。今日はあなたも好きなシュークリームを作ろうと思って」
私の言葉に彼はゴクリと唾を呑み込んだ。
「シュークリーム!」
彼の目が輝き、期待のまなざしで見つめられる。
いつも作ったお菓子皆に分けていたから、今日ももらえないかと思ったようだ。
もちろん、おすそ分けするつもりだ。
だって、私は意地悪な悪役令嬢じゃないからね。
「できたら、あなたにもあげるわね」
「ありがとうございます! お嬢さまの作るお菓子はとびきりおいしいうえに、なんだか疲労まで取れる気がするんですよね」
「それはよかったわ」
喜ぶ馭者に私は心の中でつぶやいた。
(疲れが取れるはずよ。回復効果がついてるんだもの)
でも、それは誰にも明かせない。
「それでは、早く帰りましょう」
ウキウキした様子の馭者に急かされて馬車に乗ると、私は初めてシフォンケーキを焼いたときのことを思い出した。
オーブンからシフォンケーキを取り出して、焼き具合を確かめようとしたら、うっすら文字が浮いているのに気づいた。
それはこう読めた。『シフォンケーキ:回復(ちょびっと)、浄化(かなり)』と。
(どういうこと?)
どうやら私には鑑定のスキルがあるらしく、そのうえ、私の作ったお菓子には、回復や浄化、解毒の効果が付くことがわかった。
(すごい! さすがゲームの世界! 私のスキル、最高じゃない?)
馭者の食べたのは回復の効果が付いたものだったのだろう。
でも、私はそのことを誰にも家族にすら言っていない。
目立たず、静かに暮らすのが私の望みだからだ。
その代わり、いろんなお菓子を作って、効果を確かめた。
お菓子の種類は関係なく、ランダムに効果が付くようだ。
一つのお菓子に、『回復(超)』『浄化(超)』『解毒(超)』が付いたものなどもあった。
そこで、日持ちする飴をいっぱい作って、いろんな効果が付いたものを小瓶に入れて持ち歩くことにした。
(これ一つで非常事態でもなんとかなりそう)
強力なアイテムを手に入れて、明るい未来が見えてきた気がする。
私はカラフルな飴の入った小瓶を眺め、にんまりした。
このスキルが予想もしない運命に私を叩き落とすとも知らずに――



