王城の「鏡の間」。
 五百の蜜蝋キャンドルがシャンデリアで揺らめき、最高級の香油と、貴族たちの欲望が入り混じった甘ったるい匂いが充満している。
 先ほどまで優雅に流れていた宮廷楽団の調べは唐突に止み、張り詰めた沈黙がホールを支配していた。
「レティシア・フォン・シルフィード! 貴様のような性悪女との婚約は、今この時をもって破棄する!」
 その怒号は、鋭い刃物のように空気を切り裂いた。
 声の主は、この国の第二王子、アランド・ド・グランベル。
 金糸の刺繍が施された純白の礼服に身を包む彼は、まるで物語の主人公気取りで胸を張り、私の隣に立つ小柄な令嬢の肩を抱き寄せている。
「……アランド様ぁ。わたくし、怖いですぅ」
「ああ、可哀想なミナ。僕が守ってあげるからね」
 男爵令嬢ミナは、ピンクブロンドの髪を揺らし、上目遣いで震えてみせた。だが、私の目をごまかすことはできない。彼女がアランド王子の胸元に顔を埋める一瞬、私に向けて唇の端を吊り上げ、冷ややかな嘲笑を浮かべたのを。
 周囲を取り囲む貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
 扇子で口元を隠しながら交わされるヒソヒソ話。
「やはり噂は本当だったのね」
「魔力を持たぬ無能な公爵令嬢が、嫉妬に狂ってミナ様を……」
「野蛮な女だこと」
 侮蔑、嘲笑、そして「ああ、またか」という無関心な同情。
 そんな視線の集中砲火を浴びながら、私、レティシアはガタガタと小刻みに震えていた。
 顔は蝋人形のように青ざめ、呼吸は荒い。額には脂汗が滲み、今にもその場に崩れ落ちそうだ。
 誰がどう見ても、突然の断罪に怯え、絶望の淵に立たされた「か弱い公爵令嬢」の姿だっただろう。
(……やばい。マジでやばい)
 私はドレスのレースが引き千切れそうになるほど拳を握りしめ、奥歯が砕けんばかりに噛み締めていた。
 恐怖で震えているのではない。
 あまりの理不尽さと、こみ上げる殺意によって暴れ出しそうになる**「筋肉」**を、全身全霊で抑制(ホールド)しているのだ。
 このグランベル王国は、「魔力至上主義」の国だ。
 魔力こそが貴さの証明であり、魔法を使えない者は貴族であっても蔑まれる。
 私は、シルフィード公爵家に生まれながら、魔力が枯渇している「無能」として扱われてきた。
 だが、誰も知らない真実がある。
 私には、前世の記憶があるのだ。
 ここではないどこか。魔法よりも肉体が、詠唱よりも拳速が物を言う、修羅のファンタジー世界。
 私はそこで「戦場の赤き悪魔」「素手でエンシェントドラゴンを引き裂く女」と恐れられた、伝説の狂戦士(ベルセルク)だった。
 武器は持たない主義だった。
 なぜなら、どんなオリハルコンの剣よりも、鍛え上げられた私の拳の方が硬くて強かったからだ。
 そんな戦いに明け暮れた前世の反動か、今世の私の願いはただ一つ。
『か弱く、可愛らしいお嬢様として平穏に暮らすこと』。
 血なまぐさい戦場はもうたくさんだ。私はふわふわのドレスを着て、お茶会で「あら、素敵ですわね」と微笑むだけの人生を送りたかった。
 そのために、私は血の滲むような努力をしている。
 転生した瞬間から桁違いだった身体能力(ステータス)を隠すため、なけなしの魔力を全て消費して、常時発動する超高等術式『多重身体封印魔法(マッスル・バインド)』を自分にかけているのだ。
 これがないと、朝の紅茶を飲もうとしただけでカップが粉末になり、ドアを開けようとすれば壁ごと引き抜き、くしゃみをすれば屋根が吹き飛ぶからだ。
 私は今、必死に「か弱い令嬢」を演じている。
 演じているはずなのに、目の前の王子は私の導火線に火をつけようと必死だった。
「おい、黙っていないで何か言ったらどうだ! 一昨日、愛しいミナを階段から突き落とした罪、認めるのだろうな!?」
 アランド王子が一歩踏み出し、私を糾弾する。
 濡れ衣だ。完全なる冤罪である。
 確かにその現場にはいた。ミナが自分で足をもつれさせ、落ちそうになったところを私が助けようとしたのだ。だが、彼女は私の手を振り払い、自ら転がっていった。
 そもそもだ。
 もし私が、前世の感覚で彼女を「突き落とし」たらどうなるか。
 彼女は階段の下で転ぶ程度では済まない。物理法則を無視した運動エネルギーによって、音速を超え、王城の壁を三枚ほど貫通し、隣国の国境地帯に着弾してクレーターを作っているはずだ。
 彼女が五体満足でそこに立ち、あざとい嘘泣きができていること自体が、私の無実の証明である。
「で、殿下……それは誤解です。わたくしは、そのようなことは……」
 震える声で、私は精一杯の反論を試みた。
 あくまで淑女らしく。涙を浮かべ、情に訴える作戦だ。
「言い訳無用! 目撃者もいるのだぞ!」
「そ、そうですわレティシア様。わたくし、怖くて……」
 ミナが勝ち誇った目を向ける。目撃者など、どうせ買収されたメイドだろう。
 ああ、腹が立つ。
 腹の底からマグマのような怒りが湧き上がる。
 ――ギチチチチッ。
 背中のコルセットから、不穏な音が聞こえた。
 まずい。感情の高ぶりによって魔力制御が乱れ、筋肉が膨張を始めている。
 このままでは、最高級シルクのドレスが弾け飛び、鍛え上げられた広背筋が露わになってしまう(物理的な意味で)。社交界での社会的死だ。
「ふん、図星か。この悪女め。これ以上、王家の顔に泥を塗るな」
 アランド王子は私の沈黙を肯定と受け取ったらしい。
 彼はサディスティックな笑みを浮かべ、あろうことか私の腕を掴もうと手を伸ばしてきた。
「衛兵! この女を地下牢へ連行しろ! その前に、私が直々にその腐った性根を叩き直してやる!」
 王子の手が、私の二の腕に触れようとした。
 その瞬間。
 ――ブチッ。
 脳内で、明確に何かが切れる音がした。
 あ、封印魔法の最終安全装置(リミッター)が。
 防衛本能が、理性を凌駕した。
 戦場での染み付いた癖だ。「殺意を持って触れてくる敵性体」に対して、私の肉体は思考するよりも早く、迎撃態勢を取ってしまう。
 それは、千の戦場を生き抜いた「戦士」としての悲しき性(さが)だった。
 私は反射的に、「触らないで」とばかりにその手を払いのけた。
 あくまで、か弱い令嬢のしなやかな動作で。
 蚊を追うように。ふわりと、軽く、空気を撫でるように。
 しかし。
 その「ふわり」には、かつて魔王城の正門を粉砕したのと同等の、純粋かつ暴力的な運動エネルギーが乗っていた。
 ドッッッッゴォォォォォォォォォォン!!!!
 瞬間、世界がバグった。
 雷が落ちたような、いや、巨大隕石が直撃したような破滅的な轟音が、閉鎖空間であるホール内を暴れ回った。
 貴族たちの悲鳴すら上がらなかった。あまりの音圧に鼓膜が麻痺し、脳が情報を処理しきれずにフリーズしたからだ。
 私の手は、王子の頬を紙一重ですり抜け――。
 その延長線上、十メートル先にあった王城の壁に向かって振り抜かれていた。
 時間が止まる。
 しん、と不気味な静寂が降りる。
 パラパラと、高い天井から白い砂埃が雪のように舞い落ちてくる。
 王子の顔の横、わずか数センチの空間を「見えない何か」が通過した余波。
 それだけで、彼の毎朝二時間かけてセットしている巻き毛の金髪が、爆風を受けたように真上に逆立っていた。スーパーで売っているパイナップルのようだ。
 彼の顔は凍りつき、口は半開きのまま痙攣している。
 そして、全員の視線が、その「背後」に集中する。
 そこには、美しい夜の星空が広がっていた。
「…………は?」
 誰かの間の抜けた声が響く。
 王城の壁。
 それは、建国以来四百年の歴史を誇り、幾多の戦争を耐え抜いた厚さ一メートルはある花崗岩の外壁だ。古代魔法による『絶対防御』の結界が付与され、攻城兵器の一撃すら跳ね返す鉄壁の守り。
 それが。
 私の腕のひと振り――ただの「裏拳」が生んだ衝撃波(カマイタチ)によって、扇状に綺麗さっぱり消滅していた。
 壁があったはずの場所には、ぽっかりと巨大な穴が空き、そこから心地よい夜風が吹き込んでくる。
 会場の隅にあった観葉植物が、風に揺れてざわざわと音を立てた。
 崩れた瓦礫すら残っていない。あまりの威力に、石材が砂状に粉砕されたのだ。
 アランド王子は、白目を剥いて腰を抜かしていた。
 彼の股間あたりがほんのりと温かくなり、濃いシミが広がっていくのが見えた。私は淑女として見なかったことにする慈悲を持ち合わせていたが、内心では(あーあ、やっちゃった)と頭を抱えていた。
 隣のミナに至っては、泡を吹いて気絶している。もはや嘲笑の影もない。
(……終わった)
 私は血の気が引くのを感じた。
 か弱い令嬢プラン、完全崩壊。
 これでは婚約破棄どころの話ではない。国家反逆罪か、器物損壊罪か。
 いや、もっと最悪なのは「バレること」だ。この力がバレれば、私は間違いなく軍部に拘束され、人間兵器として最前線に送られる。魔王軍と素手で殴り合う日々への逆戻りだ。
 嫌だ。もう戦うのは嫌だ。
 私はふわふわのドレスを着て、可愛いケーキを食べて、のんびり昼寝をする生活がしたいのだ!
 逃げよう。今すぐに。
 この国を出て、私のことを誰も知らない辺境へ行こう。そこで名前を変えて、今度こそひっそりと暮らすのだ。
 そう決意して、スカートの裾をきゅっと握りしめた時だった。
「――素晴らしい」
 静まり返った広間に、場違いなほど熱っぽい、うっとりとした声が響いた。
 ゾクリとして視線を向ける。
 声の主は、会場の警備責任者として壁際に控えていた男――近衛騎士団長、ジークフリート・フォン・アイゼンガルドだった。
 「氷の貴公子」「歩く要塞」と名高く、その冷徹さと無敗の剣技で知られる彼。
 普段は氷のように無表情な彼が、なぜか頬を薔薇色に染め、瞳を少年のようにキラキラと輝かせて私を見ていた。
 カツン、カツン。
 彼はゆっくりと、だが確かな足取りで私に歩み寄ってくる。
 周囲の貴族たちが「おお、さすが騎士団長! あの怪力女を成敗してくれるのか!」と期待の眼差しを向ける中、彼は私の目の前で――優雅に跪いた。
 まるで、女神に愛を乞う信徒のように。
「あのような無駄のない、美しい破壊……初めて見ました」
「……は、はい?」
「魔法という不確定な力に頼らぬ、純粋な肉体の躍動。筋肉の収縮から放たれる運動エネルギーの極致。これぞ、私が追い求めていた究極の芸術だ」
「えっと、あの、団長様?」
「レティシア嬢。いや、我が女神よ。あの拳になら、砕かれても本望だ……!」
 ジークフリート様が、恍惚の表情で私の手を取ろうとする。その手は震えていた。恐怖ではない、歓喜で。
「その強さ、ぜひ我が騎士団で――いや、私の個人の寝室で詳しく語り合いたい。あなたの上腕二頭筋の美しさについて、一晩中」
 あ、この人、変態だ。
 前世の勘が警鐘をジャンジャン鳴らしている。
 目の前の美形からは、あの愚かなアランド王子よりも数倍厄介な、生粋の戦闘狂(バトルジャンキー)にして、強さに対して歪んだフェティシズムを持つ変人の匂いがする。
 そういえば、社交界の噂で聞いたことがあった。ジークフリート騎士団長は、数多の令嬢からの求婚を全て断っていると。「私より弱い人間に興味はありません」と言って。
 まさか、そのストライクゾーンが「城壁を粉砕する女」だったとは、誰が予想できただろうか。
 ジークフリート様の瞳孔が開いている。
 それは、獲物を見つけた猛獣……いや、推しを見つけた限界オタクのそれだった。
「結婚してください。そして、毎日私をその拳で殴ってくれないか。防御魔法なしで耐え切ってみせる」
「謹んでお断りしますわ!!」
(ここにいたら、貞操か平穏のどちらかが死ぬ!!)
 私は瞬時に判断を下した。
 もはや、なりふり構っている場合ではない。
「う、うわぁぁぁん! アランド様に振られて悲しいですわー!! わたくし、傷心旅行に出ますっ!!」
 私は広間中に響くような棒読みで絶叫した。
 そして、涙を拭うフリをして顔を隠し、衝撃で開いた「壁の穴」に向かって身を翻す。
 バリンッ!
 邪魔なハイヒールの踵を自ら踏み砕き、前傾姿勢をとる。
「逃がさない! 待ってくれ、マイ・マッスル・エンジェル!」
「変な名前で呼ばないでくださいませッ!!」
 背後でジークフリート様が抜剣し、恐ろしい速度で追いかけてくる気配がした。
 だが、遅い。
 私はすでに、太腿の筋肉の封印を解いていた。
 ダンッ!!
 私が踏み込んだ床の大理石が、蜘蛛の巣状に粉砕され、衝撃でシャンデリアが落下した。
 爆発的な加速。
 音の壁を突き破り、私は夜空へと飛び出した。
「ははは! 空だと!? 素晴らしい、舞空術(フライ)も使わず跳躍だけで! 愛しているぞー!!」
 背後から変態の愛の告白が聞こえた気がするが、風切り音のせいにして無視した。
 眼下で王城が豆粒のように小さくなっていく。
 冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。
 こうして、私、レティシアの「華麗なる大逆転(物理)」は幕を開けた。
 目指すは遥か彼方の辺境。
 今度こそ筋肉を隠し、誰にもバレないように、静かで慎ましいスローライフを送ってみせる!
(……でもその前に、このヒラヒラのドレスじゃ走りにくいから、どっかの山賊から服を強奪しなきゃ!)
 月明かりの中、元・公爵令嬢にして現役最強の狂戦士は、流星のように夜空を駆けていった。
 彼女を追って、王国最強の騎士団長が(愛の力で)国中を追いかけ回すことになる未来を知るのは、まだ少し先の話である。

(了)