虐げられ令嬢は恋を知る~今さら執着されても遅いですよ元婚約者様~

 ネルはこの日、普段通り仕事をこなしていた。

「最近、あの子の雰囲気変わったと思わない?」
「あ~、なんか、ようやく例の婚約者から解放されたらしいわよ?」

 耳に入るのは私とオーウェンの噂話。噂話になるほど、酷い婚約者だったとも言えるけど。

 それに加えて、オーウェンとの婚約が白紙になったからヴィクトル団長を狙っているとか、実はもう婚約しているだとか、根も葉もない噂も立っている。

 周りの声など気にしないが、ヴィクトルに迷惑が掛かることはしたくない。とはいえ、噂話なんて当事者が否定したところで無駄な事。

「……どうしたものか」
「悩み事かい?」
「司書長」

 声をかけてきたのはバーノンだった。ネルはバーノンに悩みを打ち明け、どうするべきか助言を託した。

「うん。別に放っておけばいいんじゃない?」

 返ってきたのは突き放すような言葉。

「ああ、適当に言っている訳じゃないよ。人の噂も七十五日と言うだろう?自然と下火になるよ」
「そう、ですかね……」
「それに、ヴィクトル団長(かれ)も器のでかい男だ。これくらいのことでどうこう言うような奴じゃない。君もそう思うだろ?」

 バーノンに諭され、ハッとした。

 私が気にするほどあの人は弱くない。「噂なんて気にするな」そう耳打ちされたような気がした。

「そうですね。ありがとうございす」

 ネルはバーノンに礼を言うと、仕事に戻ろうと背を向けた。

「ああ、丁度いい。これを騎士団長へ届けてくれるかい?」
「はい」

 バーノンから書類の入った茶封筒を託されたネルは、足早になる気持ちを必死に落ち着かせてヴィクトルの元へ向かった。

 仕事が終われば会えると言うのに、こんなにも会いたいと思うなんて随分と欲張りで我儘になってしまった。そう自嘲しながら、回廊を歩いていると「もし」と声をかけられた。

 足を止めて見れば、一人の行商人がいた。頭からローブを深く被っているので顔は分からないが、声質で男性という事は分かる。

「貴方様はネル・オルドリッジ嬢でしょうか?」
「はい?そうですけど……」

 何で名前を?と問いかけようとしたが「ああ、良かった」と辛うじて見えていた口元が不気味に吊り上がったのが分かった。

 咄嗟に逃げようとしたが、背後から口を塞がれてしまった。

(ヴィクトル様……)

 消え行く意識の中で愛する人の名を呟いた。


 ***


「ネル。帰るぞ」

 執務を終えたヴィクトルは、いつものように司書室を訪れていた。

「あれ?団長様?ネルは一緒なんじゃ……?」
「は?今日は一度も顔を見ていないが?」
「え!?」

 使いを頼んでそのまま姿が見えなかったので、バーノンはてっきりヴィクトルと一緒にいるものだと思っていたが、それが間違いだったと今になって知り、二人は顔を見合せた。

「一体どういう事だ!?ネルは何処にいる!」
「い、いえ、私にも分かりません!貴方の元へ行くように使いに出したのですが、それから姿を見ておりません」
「なに?」

 ヴィクトルとバーノンは慌ててネルの姿を探した。

 司書室でも見た者はおらず、城の中をくまなく探すが見当たらない。

「一体どこに……」

 焦るヴィクトルが頭を抱えながら呟いていると、バーノンが血相を変えてやって来るのが見えた。その手には、茶封筒が握りしめられている。

「これは、私がネルに頼んで届けてもらう予定だった書類です!」
「それはどこに?」
「中庭の回廊の茂みに落ちてました。あまり考えたくありませんが、何者かに……」

 最後まで言い切る前に、ヴィクトルが動いた。

「馬を用意しろ!ランドルフにも連絡を頼む!」
「待ってください!何処にいるかご存知なんですか!?」
「そんなもの連れ去った相手に口を割らせればいい」

 そういうヴィクトルの表情は恐ろしいほど殺気立っている。バーノンも息を飲むほどで、下手に口を出せば命を取られそうな威圧感だった。

「……無事に連れ戻してください」
「当たり前だ」

 バーノンは慌ただしく去っていくヴィクトルの後ろ姿を黙って見つめていた。

 ネルを連れ去ったのは十中八九オーウェンだ。だが、オーウェンに人攫いをするという度胸はない。

 ──となれば、今回の黒幕は父親である男爵。

 今回の事で、男爵は一線を越えてしまった。怒らせていけない人を怒らせた。そんな彼らを待つのは……

「馬鹿は死んでも治らない…か」

 呆れるように呟きながら天を仰いだ。