取引先のエリート社員は憧れの小説作家だった

橘さんの部屋に二人で向かった。

空気が重かった。

駅の近くで一緒にいた女の人は誰なんだろう。

部屋に入ってリビングに行ったら、橘さんはバルコニーに行った。

私はゆっくりと橘さんの後について行った。

橘さんは椅子に座って夜景を見ていた。

なんの話をされるのだろう。

もし橘さんに突き放されたら、私は仕事をちゃんとこなせるのだろうか。

何もかも失ってしまうの?

手を伸ばした夢も。

暫く沈黙が続いた。

「……ごめん」

橘さんから出た言葉が意外だった。

でも、それはどういう意味かわからない。

「何の事でしょうか……」

「俺はあの日、美鈴を放置してしまった。嫉妬して」

嫉妬…だったんだ。

「自分で蒔いた種なんで、橘さんは気にしないでください」

「何でお前は強がるんだよ。確かに小説については厳しくすると言った。でも、美鈴は自分から線を引いている」

「それは……今の関係を壊したくなかったからで……。橘さんの足を引っ張りたくないんです」

私達は両想いだけど恋人ではない。

私は橘さんを縛れない。

「で、あれからどうしてるんだ?書いてるのか?何か」

「何も書いてません。小説も読んでません。」

「気持ちはどうだ?すっきりしたか?」

「いえ……空っぽになっちゃいました」

小説を手放した私は、ただ毎日を漂っていた。

特に目標もなく。

「これからどうしたい?」

わからない。何もわからない。

涙が溢れてきた。

「泣くくらいなら素直になれよ」

「素直って何ですか?」

「今のお前を曝け出せよ」

「え?」

「今日、駅前にいただろ。視線を感じて見たら美鈴だった。」

……まさか見られていたなんて。

「あれは会社に新しく来た子で、歓迎会の帰りに一緒になっただけだ」

「そうだったんですね」

「安心した?」

「言いたくないです」

嫉妬してる自分なんて見せたくない。

「もうさ、そうやって我慢しないで全部言えよ。」

橘さんに引っ張られて抱きしめられた。

「美鈴の気持ち俺に全部ぶつけて。何も余計な事考えないで」

橘さんの優しい声に胸の奥が震えて、涙が止まらなくなる。

「橘さんが他の人と一緒にいるの見て、凄く嫌でした。誰にも渡したくないです。橘さんに触れていいのは私だけです。小説を書けるようになりたいです」

次々と溢れてくる本音。

「そうか……安心した」

「私……みっともないです」

「みっともなくない。俺を好きなら当然出る感情だろ」

そういう気持ちを剥き出しにする人間にはなりたくなかった。

でも、それが本心。

「じゃあ俺を縛ればいい。俺がどこにも行けなくなるくらい。美鈴が安心するように」

「わかりました。もう我慢するのはやめます」

橘さんの香りの中、私は素直になってみようと思った。


──なぜだろう……


何で私は縛られてるんだろう……

私の手はネクタイで縛られている。

俺を縛れと橘さんは言ったはず。

「どういう事なんでしょうこれは……」

「美鈴が素直になると言ったから、素直になれるように」

意味がわからない……

「もう何も隠すな。恥じらうな。美鈴の全てを俺に曝け出せ」

「何をするんですか?」

橘さんは何かを考えていた。

「よし……お前は夫に飼われてる人妻だ。マッチングアプリで出会った大学生と恋に落ちる。」

また設定を出してきた。

「また書かせるんですか!?」

「俺は言ってるだけ。書くかは美鈴次第」

また勝手に物語が頭の中に広がる。

自分が作った設定だと上手く書けないのに。

「本当の気持ちは言わない、認めない、でも体は正直。まるで美鈴そっくりな女」

橘さんの唇が身体に触れるたびに声を漏らしてしまう。

「男は言うよ『認めろ』って。『俺しかもう反応しないくせに』って。」

「橘さんに似たキャラですね…その大学生…」

「俺と美鈴の別の物語だから」

私と橘さんの物語……

二人で紡ぐ物語……?

そう考えるのが正しいかはわからない。

ただ、人妻は大学生に、泣きながら愛の言葉を溢した──

◇ ◇ ◇

橘さんが寝静まったあと、バッグに入れてた三浦さんからもらった小説を出した。

何が書かれているのか気になっていた。

そこに書いてあったのは

高校生の男の子と歳上の女の人の切ない恋物語だった。

びっくりしたのが、そういうシーンがあった事だった。

繊細な表現で、主人公の気持ちが溢れてくる。

私は結末に涙した。

「……ふーん。いい話だね」

「わっ!」

いつの間にか橘さんも見ていた。

「いつ渡されたの?」

「今日偶然会った時です」

そのあと最後のページの隅に何か小さく文字が書いてあった。

"嫌な気持ちにさせてごめん"

私と次会った時に渡そうと、ずっとこれを持っていたのかな……。

「やっぱり三浦さんは凄いですね。こんな素敵な話が書けるなんて」

「俺は?」

「翠川先生は私の中でナンバーワンですよ」

もう小説を書くのをやめようかと思ったけど、また書いてみようと思えた。