──琴音・退院前日
俺が理央を呼び出した理由。
夕方のハンバーガー店は、
夏休み中の学生と仕事帰りの
大人が混ざり合い、
ざわざわとした音に満ちていた。
油の匂いと、揚げたポテトの塩気。
食欲のそそる匂いだ。
窓際の席で俺は一人、
紙コップを握りしめていた。
中身はほとんど減っていない。
少し遅れて、理央が店に入ってくる。
理央と目が合い、軽く手を挙げた。
「急に呼び出して悪い。」
俺は、先に理央を急に呼び出した事を
謝罪する。
「いや……察しはついてた」
「から大丈夫。」
理央は向かいに座り、
トレーを置く。
俺らの間に、
言葉よりも先に重たい沈黙が落ちた。
俺が、先に口を開く。
「……俺、身を引く。」
その一言は、
油の弾く音にかき消されそう
なくらい静かだった。
理央は驚かなかった。
ただ……視線を落とし、
俺の次の言葉を待っているようだった。
だから、続きを話した。
「琴音が記憶を失った今、」
「俺が“幼なじみ”として」
「傍にいるのは簡単だ。」
「安心できる存在として、距離も近い。」
紙コップをぎゅっと自然に力が
入り握る。
「でも、それはズルい。」
「琴音は理央との関係を」
「知らないままなのに、」
「俺だけが“知ってる側”で、」
「琴音を奪おうと行動を続けるのは……」
一瞬、唇を噛む。
「それに……」
晃は顔を上げ、まっすぐ理央を見た。
「琴音が本当に思い出すべきなのは」
「理央、お前との時間だ。」
晃の話しを聞いて、
俺の胸が、どくりと鳴る。
晃
「俺が前に出れば出るほど、」
「琴音は混乱すると思う。」
「だから俺は、一歩引く。」
「幼なじみとして必要な」
「時はいるけど、それ以上はしない。」
「ただ……好きな気持ちは嘘つきたくない。」
晃のその言葉は逃げではなかった。
守るための後退だった。
「晃……ありがとう。」
「琴音の事好きな気持ちは、」
「消さなくていいと思う。」
「俺も……痛いほどその気持ちわかるから。」
俺らは、短く視線を交わした。
友情でも、恋敵でもある、複雑な沈黙。
その沈黙が、晃の決断を確かなものにしていた。
──琴音・退院当日
”戻る場所”と”戻らない何か”
朝の病室は、いつもより静かだった。
カーテン越しに差し込む光が、
白いシーツの上にやわらかく広がっている。
目を覚ました私は、
しばらく天井を見つめたまま、
何も考えずに呼吸を整えていた。
今日が退院の日だと、頭ではわかっている。
それなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
家に帰れる。
だけど……本当に
“元の場所”に戻れるのかな。
そんな曖昧な不安が、
まだ言葉にならないまま残っていた。
琴音の花火
「起きてる?」
病室のドアが静かに開き、
お母さんが顔を覗かせる。
手には、退院手続きの書類と、
小さな紙袋持っていた。
琴音
「うん、起きてるよ。」
私はそう答えて、
ベッドからゆっくりと身体を起こした。
頭を打った後の鈍い違和感は、
もうほとんどない。
それが逆に、“何かを失った実感”を
遠ざけてしまうようで、少し怖かった。
着替えを済ませ、荷物をまとめる。
病室は、数日前まで自分が過ごしていた
場所なのに、どこか他人の
部屋のように感じられた。
琴音の母
「迎え、みんな来てくれるって。」
お母さんのその一言に、
琴音は小さく頷く。
琴音
「嬉しい!」
「特に何も連絡無かったから」
「今日は来てくれないかと思ってた。」
誰が来るのかは、
もう聞かなくてもわかっていた。
名前も、関係も、ちゃんと覚えている。
それなのに、心だけが追いついていない。
ほどなくして、ノックの音が病室に響く。
千歌
「失礼します。」
最初に顔を出したのは千歌だった。
その後ろに夏奈ちゃん、遥陽君、晃。
少し遅れて、理央君の姿が見える。
夏奈
「退院おめでとう!」
夏奈の明るい声に、病室の空気が一気に動く。
琴音
「ありがとう!」
「みんな来てくれて嬉しい!」
琴音は微笑む。
その笑顔は自然で、明るい。
俺の胸が熱くなるのが分かった。
この笑顔をもう一度……
俺だけに向けてくれる日は来るのだろうか……。
千歌
「体調はどう?」
琴音
「うん、もう全然大丈夫。」
「ちょっと寝すぎたくらい。」
遥陽
「琴音ちゃんらしいや(笑)。」
冗談めかして言う琴音に、みんなが笑う。
晃はその様子を、
少し離れたところから静かに見ていた。
晃
「無理すんなよ。」
晃が言うと、琴音は頷く。
琴音
「うん、晃は相変わらず心配性だね。」
幼なじみらしい、自然なやり取り。
その一言に、
俺の胸がわずかに締めつけられる。
俺は一歩前に出る。
以前なら、迷わず隣に立っていた距離。
今は、ほんの半歩分だけ間を空けて。
理央
「退院おめでとう、琴音ちゃん。」
その呼び方に、琴音は一瞬だけ目を瞬かせた。
けれど、すぐに微笑む。
琴音
「ありがとう、理央君!」
その“君”という呼び方。
その距離……
それが今の2人の正解なのだと、
俺は自分に無理やり言い聞かせる。
琴音の母
「看護師の迎えの時間まで、」
「もう少しだけここにいようか。」
琴音のお母さんが言うと、
みんな頷いた。
病室に、穏やかな時間が流れる。
他愛のない話。
退院したら何を食べたいか、
という話。
琴音
「お母さんのご飯が一番かな!」
琴音が言うと、
琴音のお母さんが少し照れたように笑った。
その光景を見ながら、俺は思う。
守るべき日常は、ちゃんとここにある。
だからこそ、今は踏み込まない。
やがて、看護師が迎えに来る。
看護師
「それじゃ、行きましょうか。」
私は、最後に病室を振り返った。
短い間だったはずなのに、
ここで何か大きな転機があった気がしてならない。
琴音
「看護師さん、先生。」
「……お世話になりました。」
静かに頭を下げ、歩き出す。
エレベーターの中。
並んで立つみんなの中で、
俺は一番端にいた。
それでも琴音の視界の端に、
なぜか自然と入ってくる。
病院の自動ドアが開き、外の空気が流れ込む。
夏の匂い。
蝉の声。
琴音
「……暑っ!」
琴音がそう言って笑う。
その瞬間、理央は思った。
ここからまた、始まる。
でもそれは、以前と同じ形じゃない。
退院は“終わり”じゃない。
記憶が戻らないままの、
新しい日常の始まりだった。
そして私はまだ知らない。
この日から自分の中に芽生える違和感が、
やがて大きな想いへと変わっていくことを。



