君の事好きになっても良いですか?



廊下の奥から、
ベッドの音が近づいてくる。

規則的な車輪の音が、
張り詰めた病室の空気を切り
裂くように響いた。

遥陽
「……戻って来た。」

遥陽が小さく呟いた。

扉が開き、看護師に付き添われた
琴音が戻ってくる。
検査を終えたばかりで、
少し疲れた様子だったが、
意識ははっきりしている。

琴音の母
「おかえり、琴音。」

琴音のお母さんが、
すぐに立ち上がって声をかける。

琴音
「うん……ただいま。」

琴音はそう答えて、
ゆっくりと看護師によって
ベッドごと琴音は病室戻された。
その動作ひとつひとつが、
まだ身体が完全ではないことを物語っている。

みんなは、自然と一歩ずつ近づいた。
けれど、誰も触れない。
触れてしまったら、何かが壊れてしまいそうで。

琴音は、視線を巡らせて、
さっきと同じように、
ひとりひとりの顔を確認する。

琴音
「……検査、ちょっと怖かったけど」
「でも、ちゃんと説明してくれたよ。」

少し無理をしたような笑顔だった。

夏奈
「結果はどうだったの……?」

夏奈が、慎重に尋ねる。
そんな夏奈の表情が切なさを
物語っていた。

琴音
「うーん……詳しい話は、」
「あとでお母さんと一緒に、って」
「言われちゃった。」

夏奈
「そっか……。」

会話は続いているのに、
どこかぎこちない。

琴音は、そんな空気に気づいたのか、
不思議そうに首を傾げた。

琴音
「……ねえ」
「なんで、みんなそんな顔してるの?」

その言葉に、
誰もすぐには答えられなかった。

俺は、一歩だけ前に出る。
けれど、距離は詰めない。

理央
「……検査、頑張ったね。」


その声は、驚くほど落ち着いていた。

琴音は、少し目を丸くしてから、
柔らかく微笑む。

琴音
「ありがとう、理央君。」

その呼び方が、また病室に落ちる。

理央は、一瞬だけ息を詰め、
それから、ゆっくりと言葉を選んだ。

理央
「……琴音ちゃん。」

はっきりと、そう呼んだ。

呼び捨てではない。
恋人だった頃の、近すぎる距離でもない。

付き合う前の呼び名。

琴音は、一瞬きょとんとした顔をして、
それから小さく笑った。

琴音
「うん!」
「その方が、しっくりくるかも!」

悪気のない、その一言。

夏奈は、思わず視線を逸らす。
千歌は、胸の前で手を組み、ぎゅっと握りしめる。
遥陽は、口を開きかけて、やめた。

晃だけが、静かに言った。


「検査、長かったな。」
「疲れてないか?」

琴音
「ちょっとだけ、」
「疲れたかな……。」

琴音は、そう答えてから、
安心したように晃を見る。

琴音
「晃がいると、やっぱり落ち着く。」

幼なじみとしての距離感……
そこには、なにも違和感がない。

晃は、小さく頷くだけで、
それ以上は踏み込まなかった。

琴音は、改めてみんなを見渡す。

琴音
「ねえ……」
「私、何か忘れてるのかな?」

その言葉に、空気が止まる。

琴音
「名前も、関係も……」
「全部合ってるはずなのに……」
「なんか、ズレてる感じがして……」

俺の胸が、強く締めつけられた。
苦しい……琴音に触れたい……
言いたい……俺の彼女だって。

理央
「……無理に、思い出さなくていいよ。」


琴音は、驚いたように俺を見る。
目を丸くしながら不思議そうな
表情で。

琴音
「え?」

理央
「今は……」
「今の琴音ちゃんのペースでいい。」

その言葉は、
“思い出してほしい”という願いを、
すべて飲み込んだ声だった。

琴音は、少し考えるようにしてから、
小さく頷く。

琴音
「……うん、分かった。」

それ以上、深くは聞いてこなかった。

その優しさが、
逆にみんなの胸を締めつける。

千歌
「また、明日来るね。」

千歌が、柔らかく声をかける。

琴音
「千歌ちゃんありがとう。」

琴音は、自然に微笑んでいた。

その笑顔は、確かに“琴音”だった。
でも……
俺だけが知っている笑顔とは、
ほんの少しだけ、違っていた。

俺は、最後にもう一度だけ、
心の中で誓う。

急がない……
記憶が戻らなくても、責めない……。
でも……ここにちゃんと俺がいる

“琴音ちゃん”と呼ぶ、その距離から。

病室には、
静かで、壊れやすい時間が流れていた。

――失われたのは記憶だけじゃない。
けれど、
失われたからこそ、
もう一度、築き直す場所が生まれた。