医師が病室を出たあと、
しばらく誰も言葉を発せなかった。
最初に口を開いたのは、
夏奈だった。
夏奈
「……命に、」
「別状がないだけでも……」
「本当に、よかったよね。」
それは、
自分に言い聞かせるような声だった。
千歌は、
目を伏せたまま、小さく頷く。
千歌
「……うん。」
「それだけは、本当に……」
「良かったと……思う。」
「だけど……こんなの理央君が……」
遥陽は、
壁を見つめながら呟く。
遥陽
「……戻る可能性がある、」
「って言ってたよな?」
晃は、
その言葉に反応して、
ゆっくりと顔を上げる。
晃
「……でも、」
「“いつ”とは言わなかった。」
それが、現実だった。
俺は……
一言も発さず、
ただ拳を握りしめていた。
理央
「ごめん……ちょっと、」
「外の空気を吸ってくる。」
俺はみんなに言い残し、
病室を出た。
*理央*
病院の廊下は、
思ったよりも冷たかった。
壁に背中を預けると、
その冷たさが服越しに伝わってきて、
今自分が現実の中にいることを、
嫌というほど実感させられる。
琴音は、生きてる。
ちゃんと、ここにいる。
それだけで、
本当は十分なはずだった。
それなのに……
”……理央君”
頭の中で、
その呼び方が何度も繰り返される。
付き合う前、
少し距離があった頃の呼び方。
丁寧で、優しくて、
でも……今は、胸を抉る呼び方。
呼び捨てにしただけで、
驚いた顔をされた。
“初めてだね”って、
無邪気に言われた。
あの瞬間、
分かってしまった。
——今の琴音にとって、
——俺は”彼氏”じゃない。
それを、
無理に否定することはできなかった。
思い出してほしくて……
焦って……
”恋人だったんだ”って言えばよかったのか?
その想像をしただけで、
胸が苦しくなる。
混乱する琴音の顔が、
簡単に浮かんでしまったから。
——それは、
——俺の安心のためだ。
琴音の為じゃない。
拳をぎゅっと握りしめる。
好きだから……
守りたいから……
傍にいたいから……
だからこそ、
選ばなきゃいけない。
「一時的に……だ。」
声に出して、
自分に言い聞かせる。
——ずっとじゃない。
——逃げるわけでもない。
今はただ、琴音の時間に合わせるだけ。
彼女の記憶が、
止まっている場所まで、俺が戻る。
友達として。
“理央君”として。
それは、口には出せても
簡単なことじゃない。
手を伸ばせば、
触れられる距離にいるのに。
名前を呼びたいのに。
抱きしめたいのに。
それらを全部、
我慢するって決めることだから。
……馬鹿だな……俺。
小さく笑ってみる。
でも、笑えてなんかいなかった。
──もし、
このまま思い出さなかったら?
──もし、
もう一度好きになってもらえなかったら?
そんな不安が、
何度も頭をよぎる。
それでも。
──それでも、いい。
琴音が、
“自分の意思”で俺を見てくれるなら。
記憶じゃなくて。
過去じゃなくて。
……もう一度でも、何度でもいい……
好きになってもらえるなら。
俺は、ゆっくりと立ち上がる。
検査室の方角を見る。
あの扉の向こうに、
今の琴音がいる。
記憶を失って、
それでも、笑う琴音が。
俺は、急がない。
一時的に、
恋人じゃなくなる。
それは、
終わりじゃない。
始めるための、距離だ。
胸の奥で静かに誓った。
「……待つよ、琴音」
思い出しても。
思い出さなくても。
それでも、好きでいることだけは、
やめないと。
理央 side 終わり



