「これは契約だ、と捉えてもらいたい」

 ——それが、顔合わせの際に私が言われた言葉だった。



 若き侯爵エルンスト・イェフ・デ・ラウテル閣下。見目麗しく、背が高く、地位も権力も財力もお持ちでいらっしゃる彼は女嫌いとして有名で——そして現在、とんでもない醜聞で時の人となっている。

 平民とおぼしき身重の女性が彼の屋敷を訪れ、数ヶ月の後に身一つで追い出されたのだと。赤子を置いて。

 悪質な噂だ、と切って捨てるには目撃証言が多すぎた。数多くの人間が、貴族街を堂々と歩く身重の女性を目撃している。その女性がラウテル家の屋敷に入っていく姿も、身一つで貴族街から立ち去る姿まで。私の耳にまで届いているのだから、社交界はこの噂で持ちきりなのだろう。

 ラウテル閣下のご両親は亡くなられている。お姉様がいらっしゃったそうだが病弱で、公の場に姿を現すこともないまま若くして亡くなられたそうだ。他にご兄弟もいらっしゃらず、現在ラウテル家におわすのは閣下おひとりなのだ。——使用人の『お相手』が易々と屋敷の門をくぐれるわけがない。滞在を許されることも、赤子が取り上げられることも。

 つまりは、閣下の私生児ということだろう。身元不明の女性に産ませて、その上生後間もなく母親から取り上げた私生児。——女嫌いなのに私生児とはこれいかに。そう思わないでもないけれど、まあ、なんだか色々と、想像の難しい何かしらがあるのだろう……私はため息をかみ殺し、そっと閣下に視線を向けた。

「閣下、たいへん心苦しいのですが、その、私としても決断をするためにですね、その契約、について具体的にお聞かせいただけるとありがたく思うのですが……」

「それは全くその通りだ、フェール伯爵令嬢」

 閣下は重々しく頷き、まるで職務説明のように硬い口調で語り始める。

「まず、当家はあなたを正しく私の妻として迎えたいと考えている。だが、あなたにはどう過ごしていただいても構わない。女主人として采配してくれるなら補佐を付けるし、煩わしければ何もしなくても構わない。必要な場には私の妻として同席していただきたいが、少し顔を貸していただければ後は私がどうとでもしよう。当然私の妻には予算が付く。どう使っていただいても結構だ」

 そして、と少し口ごもって、閣下は覚悟を決めたように私を見据える。

「あなたには、ある赤子の母になってもらいたい」

 ああ……っ本人の口から存在が語られてしまった……! 本当にいるんだ、私生児……私はなんとか笑顔に見えるよう口角を上げながら、目を細めた。

「その赤子を後継ぎにするつもりはない。面倒をみる必要もない。あなたにはただ、『母親』という立場に立っていただきたいのだ」

「後継ぎになさらない?」

「その通りだ。あくまで後継ぎは正式な夫婦——あなたと私の間に、将来的に、追々、いつか授かることがあれば、その子こそが後継ぎであるべきだ、と考えている。現在当家で抱えている赤子はあなたの立場を脅かす存在ではない。女児であるため、嫁に出すなり、その……子の資質に合わせ、より良い道を示してやれれば、と思っている」

 予想外なことに、閣下は本当に私を『妻として迎える』おつもりでいらっしゃるらしい。赤子を不当に扱ったり虐げたりするおつもりなら人として疑うし夫婦になれる気もしないけれど、『より良い道』とおっしゃるなら、まあ……いや、本当に女性を追い出したのかと考えると心情的にちょっと厳しいものがあるけれど、私は噂以外事情を何も知らないのだし……最大限好意的に想像して……侯爵が平民の女性を妻に迎えることはできないのだから、話し合って双方納得の上別れたのかもしれないとか、女性の今後の生活のため閣下が赤子を引き取ったのかもしれないとか…………そもそも知らぬ存ぜぬで母子共に切り捨てるような人よりはまあ、まあ……! なんとか……!

 ぐぬ……と現状の咀嚼に難儀する私の向かいで、閣下は重々しく言葉を続ける。

「あなたのお父上にも話したが、当家がこの婚姻で提示できる利点はふたつ。まず、フェール家への援助。それから、あなたの兄上の後ろ盾となることだ」

 ——そう。それこそが私がこの席に着いた理由。そして、当主同士で決めて当然のところを、閣下から私が了承するのであればと言って席を設けてくださったのだ。

 我が家は『伯爵家』とは名ばかりの没落貴族だ。何代も前に領地を手放し、更にその後にはタウンハウスも手放した。貴族街の集合住宅に居を構え、細々と……細々と暮らしている、没落貴族。

 お父様は王宮に勤め、日々頑張ってくださっているのだ。ただちょっと出世に遠く、その、暮らしがなかなか上向かないだけで。誓って詐欺に引っかかったり、怪しい投資話に乗って財産を溶かしたりもしていない! 借金もこしらえていない、誠実な父で……本当にちょっと、代々没落し続けているだけで。

 そんな中、奇跡のように、兄はとても優秀だった。うちに生まれたのがもったいないと両親が泣くくらいに。兄ならば出世できるかもしれない。フェール家を立て直せるかもしれない。そんな希望が芽生えたが……悲しいことに、現実は厳しかった。我が家は、微塵も持ち合わせていないのだ。コネと金を。

 世知辛い……! 結局優秀でも、コネと金がなければ便利に扱き使われるだけなのだ……! 成果を奪われて……! 私はぎゅっと目をつぶり、荒くなりかけた息を整え考える。今、そのコネと金が手の届くところまで降りてきている。醜聞と赤子を引っさげて。

 ……元々、嫁ぐあてはない。ちょっと先立つものが足りなくて、交流の場にさえろくに行けていないのだから。せめて家に金を引っ張ってこれるような、貴族との縁を欲している商家でも探して欲しいとお父様に頼もうか、と考えていたところなのだ。それならこれはまたとない、良いお話だ。閣下は私を正当に遇してくださるとおっしゃるし、それに何より、兄を見出し、惜しいと思ってくださったからこそ私に白羽の矢が立ったのだから。私は腹を決めて、閣下を真っ直ぐ見つめた。

「……その旨一筆書いていただいてもよろしいでしょうか」

「勿論だ。あなたが納得のいく契約書を作成しよう」


§


 それから話はとんとん拍子に進んだ。すぐさま婚約が結ばれ、三ヶ月後には私の両親と兄の立ち会いの元、教会で誓いを立て、婚姻書に署名した。私はセシリア・デ・フェール改めセシリア・デ・ラウテルとなり、ラウテル家に居を移した。

 ラウテル家に温かく迎え入れられ、見たことがないほど立派な私室をいただいた。なんと、私の実家よりも今の私室の方が広い。

 尚、寝室は別だった。「追々、まずは生活に慣れ、交流を深めてから」とは閣下改め旦那様の弁だ。猶予に私が安堵したのも確かだけれど、もしかしたら……旦那様の『女嫌い』は真実なのかもしれない。ではなぜ私生児が、とも思うのだけれど——私は、存在を無視するなんてあまりに寒々しいじゃないかと思い、今まさにその私生児を訪ねるべく使用人に案内されている。

「奥様、本当にお会いになられるのですか?」

「ええ、勿論です。この部屋ですね?」

「はい。こちらにお嬢様がいらっしゃいます……」

 そう言って、使用人はためらいがちに扉を開いた。母となる覚悟は持てていない。愛し慈しんでやれる自信すらない。それでも、家族になったのだから。緊張しながら扉を通り、そして——

「あーう、うぁーった」

 よちよちとおぼつかなく歩き、きょとんとこちらを見つめる赤子の姿に、胸を貫かれた。

「ワアー!! まあ、かわいいですねえ!! お名前はなんというのかしら???」

「アルベルティナ様です、奥様」

「アルベルティナ様とおっしゃるのぉ!」

 思わず高い声を出し、膝をつき、両腕を広げてからはたと気付く。これでは他人行儀なのでは? 法的に私が母なのでは? かわいがり、愛し、慈しむべき状況なのでは???

「ティナちゃん、ティナちゃんおいで〜! 新しいお母様ですよ〜!」

 アルベルティナはよくわからないだろうに、よちよちと歩き私の胸にどっと突撃してくる。ぎゅっと抱きしめればやわやわのぬくぬくで、ミルクのような甘い香りがした。

 こんなかわいらしい子を手放さなければならなかったなんて、産みの親はどんなに辛く苦しかっただろう。こんなにかわいらしい子を……! 私は心の中で旦那様の評価を一段下げた。まだ何も知らないこの子を、母として慈しんでやれるのは今ここに私しかいない。せめて愛情いっぱいこの子を育てようと、私は今、心に誓った。

 ——思えば私は、昔からちいさきものが好きだった。集合住宅でネズミ捕りのために飼われている猫もだいすきだった。仕方のないこととはいえ、その猫が捕らえるネズミですらかわいくて、ちょっと苦しかったのだ。子猫が生まれたときなんかは、貢ぎ物をたずさえ親猫にお伺いを立て、子猫を見せていただいては心躍らせた。私はかわいいものにめっぽう弱かったのだ。

「ほっぺぷゆっぷゆ……とろける手触り……もうっティナちゃんのほっぺは何でできてるんですか〜! ギモーヴかなぁ〜っ!?」

 アルベルティナの頬をもちもち揉んでいると、いやいやしてアルベルティナが私の膝から立ち去った。あっかわいいが! 癒しの手触りが! アアッでも後ろ姿もかわいい! よちよち歩く姿尊い!! 私は完全にアルベルティナに魅了され、毎日足繁くアルベルティナの元に通い始めた。



「奥様、そのようなことはなさらずとも……」

「おしめも替えられず何が母でしょう!」

 使用人が止めるのを聞かず、私はアルベルティナのおしめを替える。私が構いたいので。

 美しいデイドレスは一日で脱ぎ捨てた。飾りだの紐だの、アルベルティナにとって危険極まりない。私は柔らかい生地の簡素なワンピースを身にまとい、日々アルベルティナと戯れている。

 構わないのだ。夜にはきちんとフォーマルドレスに着替えるのだから。……会食などの予定がない限り、旦那様は私と夕食を共にしている。それも契約の一部だ。交流をはかろうという意思を感じる。会話は弾まないのだけれど。

 昼間はアルベルティナの安全が一番! と深く頷き、私はアルベルティナのむき出しのお腹に頬ずりする。

「ぽんぽこおぽんぽんかわいい〜!」

 むゆむゆのぽこぽこ〜! 私はぽこぽこお腹に口をつけ、ぷうと息を吹き出した。ブブブ! と鳴る音と波打つ振動に、アルベルティナがキャッキャとはしゃいだ笑い声をあげる。かわいい、ずっとこうしていたい。でもだめよお腹はしまわないと。「いたいしたら大変だものねえ」と言いながら、タイツを手に取る。はいはいで逃げようとするアルベルティナを捕まえタイツをはかせたら、アルベルティナは立ち上がってよちよちと逃げはじめた。はあ本当にかわい。手を洗ってこよう。

 洗面所の鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。——アルベルティナはいつか大きくなるだろう。そのとき私はどう思うのだろうか。目を閉じ想像してみれば……アッぜんぜんかわいい! 自分の背丈を超えても永遠にかわいい!! 旦那様にドレスの相談をしなくちゃ! アルベルティナの!!

 大きくなって、たくさんお話できる日が楽しみ。一緒にお茶をする日が楽しみ。……ああ、でもどうしよう。お母様から習ってはいるけれど、私の作法は侯爵家にとって未熟なものだろう。

 アルベルティナにとって尊敬できる母でありたい……! 私は強くそう思い、天井を見上げる。然るべき歳になれば、アルベルティナは侯爵家の令嬢としてふさわしい教育を受け始めるだろう。もしそのときになっても、私が何も知らないままだったら。

 作法も、家の采配も、ラウテル家の歴史さえ知らない『お母様』よりも、アルベルティナに教えてあげられる母になりたい!! 幸い、侯爵夫人として学ぶこと、補佐を付けていただくことに関しても一筆いただいている。契約の範囲なのだ。私は決意を胸に、早速夕食の席で旦那様に願い出ることにした。

「旦那様、私は侯爵家に嫁いだ者として、責任を担いたく存じます」

「そ、そうか。こちらとしてもありがたいことだ。家庭教師を手配し、補佐を付けよう」

「ありがとうございます」

「……あなたはどうして、そこまで献身的に」

 粛々と礼を述べる私に、旦那様が戸惑いを見せる。どうしても何も、アルベルティナがもうものすっごくかわいいのだから。

「当然のことではございませんか?」

「いや、だが」

 旦那様は口ごもり、視線を揺らめかせ……そして目を細めて微笑みを浮かべる。

「——あなたはとても、得難い人だ」

 初めて目にした旦那様の柔らかな笑みに、思わず胸が高鳴った。



 なぜ、と。私こそ思う。夕食の後私室に戻り、窓の外を眺める。なぜ旦那様は私に誠実であろうとしてくださるのか。なぜアルベルティナの生母を愛人として囲わず、使用人として留めることもせず追い出したのか。なぜ、アルベルティナに対して距離があるのか。——疎んじているわけではないと、アルベルティナを見れば一目でわかる。清潔で、健康で、かわいらしい服を着ていて。部屋には厚みのある柔らかなラグが敷き詰められている。音の鳴る玩具や、ぬいぐるみもたくさん与えられている。専属の使用人を複数抱え、健やかに育つよう慈しまれているのだ。……なのに、なぜか旦那様の態度だけがどこかよそよそしく、まるで気後れしているかのよう。

 ——アルベルティナはいつか自分の出自を知るだろう。そのとき旦那様はどうなさるのだろうか。私は、アルベルティナを庇えるようになりたい。アルベルティナが軽んじられたとき、侯爵夫人として堂々と『アルベルティナは私の娘だ、文句がおありか』と言ってやれるようになりたいのだ。それから、本当の母親についても探りたい。どう動くのが母子の幸せにつながるかはまだわからないけれど、せめて、居場所と意思を知れるように。

 ……まだ旦那様にすべてをぶつけることができない。きちんと答えていただけるほどの信頼関係を築けたとは思えないし、正直、納得のいかない返答が返ってくることを恐れている。でも、あの子が小さいうちに必ず。

 身分の高い殿方は赤子の世話などしない、と言われればその通りだけれど、どうか触れ合ってやってはいただけないだろうか。父親なのだから。

 もしかしたら、思いも寄らない事情がおありなのだろうか。旦那様の微笑みを思い出し、煌めく星空を見上げる。——私に誠実であろうとしてくださる旦那様の態度と、柔らかな笑みに希望を探して。


§


 早々に教育が始まった。旦那様がすぐに手を回してくださったのだ。アルベルティナと触れ合える時間が減ったのは残念なことだけれど、自分のためにも、アルベルティナのためにも必要なことだ。『おかあさま、すごい!』と瞳を輝かせるアルベルティナ(少し未来の姿)を想像すれば、いくらでも頑張れる気がした。

 空いた時間は勿論アルベルティナの部屋を訪ねる。癒しのひとときだ。伸ばした膝にアルベルティナを座らせ足を動かす。ちいさくて軽いアルベルティナはぽんぽんと上下に弾む。喜んでキャッキャと笑うアルベルティナがあまりにかわいくて、後ろから抱きしめて後頭部に顔をうずめた。ハア香ばしい……くせになる……疲れが癒える……

 しみじみと後頭部の匂いを嗅いでいると、アルベルティナが突然のけ反り、私の顔に向かって手を伸ばしてきた。

「どうしたのかしら?」

 アルベルティナは、面白いものを見つけた! と言わんばかりにぐいぐい私の顔を触ってくる。すごい、すごい容赦がない。

「ティナちゃん、それはお母様の鼻で、わあだめよ、鼻の穴はだめっ」

 ぐいぐい指を入れようとしてくる。無法……っ! 急ぎ手で鼻を隠せば、アルベルティナは次に私の目に興味を示す。私は伸びてきたかわゆい指に慌てて瞼を閉じた。

「おめめもだめなのよ、それは取っちゃだめなのアアッぐいぐいくるっ」

 閉じた瞼をこじ開けようとする手を捕まえる。ちいちゃくて、ぷくぷくしていて、指の付け根の関節部分が凹んでいる。かわいすぎる。

「そんないたずらなおてては食べてしまいますよ〜!」

「あきゃーぁ、きゃ!」

「てってくちゃーい、かわい〜!」

 はむっと手の甲に唇を押し当てれば、アルベルティナが楽しそうに笑う。なんでもかんでも触って口に入れる手が絶妙にくちゃくて、そんなところまで可愛くて仕方ない。全部かわいい。かわいくてちいさい。……ハッ!

「かわちい! かわちいちゃんですねえ!!」

 私はアルベルティナを『かわちい』と呼びながら、次のお勉強が始まるまでの時間、存分にアルベルティナと戯れた。



 アルベルティナはちいさな体で、日々たくさんのことを吸収している。目いっぱい生きているのだ。だから当然、いつも機嫌よく過ごしているわけではなくて。

「ヤヤ!」

「あらあら、ややしたの?」

「ヤアー! ヤ!! ふあ、ふぇあぁ〜!!」

 本日のアルベルティナは、すべてがお気に召さないらしい。でもくしゅくしゅ泣き顔もかわいい〜! 暴れると意外と力つよい〜!! びちびちと跳ねるように暴れる体を抱きしめる。力強くて花丸っ!! 抱きしめた感じ、特に熱はないようだ。病気でないならいいのだけれど。

「ややしたねえ、よしよし」

「お、奥様、私どもにお任せを……」

「ええ……っそんな……! もう少しだけ……!」

 泣こうが暴れようが、殴られても蹴られても頭突きをされてもアルベルティナがかわいい。アッ痛い髪の毛を引っ張られるのが痛い! かわいい!!

 この世のすべてが気に入らないモードのアルベルティナは、私の腕から飛び出し大泣きしながら部屋中を走り回る。それからまた私の膝に帰ってきては暴れ、また泣きながら部屋を走り回った。何度かそれを繰り返すと、私の近くにうずくまってスンスンと鼻を鳴らし、寝息を立て始める。

「……眠かったのかしら?」

 そっと呟けば、使用人がブランケットをアルベルティナに掛けながら「どうでございましょうねえ……」とささやく。産みの親ならわかってあげられるのだろうか、という考えが頭をよぎったが、いやそんなわけがないか、と思い直した。アルベルティナは何を考えているのかよくわからなくて、時に理不尽に思えて、それからとびっきりかわいい。

「きっと何か、一生懸命考えているのよねえ」

 そっと撫でた背中が温かい。どうか健やかであれ、と願うばかりで——それは、この部屋にいるもの全員の願いだった。


§


 ラウテル家に嫁いで半年が経った。アルベルティナは少しずつ言葉を話すようになっている。歩くのだってずいぶんと上手くなった。

 庭に出て散歩することもある。その様子を、旦那様が遠くから伺っていることにも気付いている。——そろそろ、一度話をしてみようか。

「どーっじょ!」

「まあ、お母様にくれるの? ありがとう」

 アルベルティナが私にぬいぐるみを差し出す。受け取ってやれば、アルベルティナはきゅっと口を引き結び、ちいさくてぷくぷくのおててをこちらに差し出した。返してほしいみたい。

「ンッ」

「はいどうぞ〜」

 ぬいぐるみを返してやれば、アルベルティナが満足そうに「あぃぁちょッ!」と言う。

「もう一度お母様にどうぞしてくれるかしら」

「どーじょっ」

「ンン〜! かわちい〜!!」

 手を差し出せば、アルベルティナは何の疑いも持たずにぬいぐるみを渡してくれる。そしてまた手を出して、『返して』をするのだ。何これかわいい。かわちすぎる。私はずっと、どうぞと返してを繰り返した。



 ——その日の夕食。

「契約関係だというのに、あなたは温かくアルベルティナを受け入れ、侯爵夫人という立場にも真摯に向き合ってくれた」

 私が切り出す前に、旦那様が真剣なまなざしで私を見つめ、そう、口を切った。

「食事の後場所を移し、あの子の出自と産みの親について、話をさせてもらえないだろうか」

「……勿論のことでございます」

 私の返答に頷き返し、旦那様は黙って食事を再開した。しんと静まり返った食堂が緊迫した空気に包まれる。私はなんとか夕食を飲み込み、食後に給された紅茶のカップを空にした。

 旦那様に連れられ足を踏み入れたのは、旦那様の私室に繋がる私的な居間。初めて訪れたその部屋は重厚感ただよう、旦那様の人となりを示すかのような部屋だった。

 促され、ソファーに腰を下ろす。向かいに腰掛けた旦那様は、ためらい、口を開きかけてはやめ……一度きつく瞼を閉じて、私に真っ直ぐ顔を向けた。

「——アルベルティナの母親は、私の姉だ」

「え……っえっ」

 覚悟していたのと全く別方向から飛んできた言葉に、呆気にとられた。あっお姉様、あの、あれ? 病弱でずいぶんと前にお亡くなりに、えっ?

「ご……存命で、いらっしゃる……?」

 驚くあまり言葉に詰まると、旦那様は「まずそこから話をさせてほしい」と重々しい吐息を吐いて語り始める。

「私の姉は、貴族社会に馴染めない人だった。良く言えば好奇心旺盛で……幼い頃はより顕著で、川や池があれば飛び込み、生き物を見れば捕まえ、食べられそうに見えるものは口に入れ……衝動的に行動に移す幼児だったそうだ」

 好……奇心旺盛〜!! 旦那様の苦悩が移った気がして、私は思わず額に手をあてた。旦那様はとつとつと言葉を続ける。

「とても外に出せず、病弱と偽ったのが始まりらしい。私も姉にはよく振り回された。木に登るどころか、木を切り倒す人だったんだ」

「えっなん……っな、なぜ木を」

「秘密基地が作りたかったそうだ」

 建材から……!? 秘密基地を……!?

「暖炉にどんぐりを大量にいれ、爆ぜさせたこともあった。洗面台いっぱいに蛙の卵をためたことも、カマキリの卵を持ち込み部屋で孵したことも。どうやってか、屋敷を抜け出し下町に紛れることもざらだった。本をよく読み、興味が引かれたものを片端から試そうとするような人でもあった。罠を仕掛けて鳥を捕らえたこともある。それどころか、避暑地の森で猪を狩ってきたことも」

 は……破天荒……! 旦那様の『女嫌い』の発端が分かった気がする。女嫌いというか、思わず身構えてしまうのでは……? 警戒することが身に染み付いているのでは……? ごくり、と私はたまらず喉を鳴らした。

「両親は頭を痛めて、滾々と姉を諌めていた。姉も本人なりに侯爵家に生まれた自覚と責任を感じていたのだろう。悩み、努力しようとしたこともあったがどうしても馴染めず、終いには全員が匙を投げた。どうにもならんから、家から出そうと」

 死んだと偽り、自由に生きろと送り出したのだ、野生の生き物を野に帰すように。——それも、ひとつの愛の形だったのだろう、と私はこめかみを揉んだ。聞いているだけで頭が痛くなってくる。

「——そんな姉が、十六年ぶりに訪ねてきた。大きな腹を抱えて。『自分には育てられないと分かっていたのに身ごもってしまった。流そうと思ったがどうしてもできなかった。どうかここで引き取ってほしい』と、あの姉が床に額を擦り付けて」

 旦那様はそこまで言うと、両手で顔を覆って下を向き、苦悶の声を漏らす。

「姉に赤子が育てられるわけがない。定住地すら持っていないのだぞ……! 早々に死なせてしまうと分かっていて見捨て追い返すなど……!」

 旦那様おかわいそう……私は不当に下げていた旦那様の評価を正した。『なぜ』が氷解していく。旦那様の印象と言動が一致する。……平民の女性を追い出したのではない。姉に、いきなり赤子を託されたのだ。

 おっしゃってくだされば、と思わず言いたくなるけれど、容易に明かせることではないだろう。私がアルベルティナを愛さなければ、ラウテル家の秘密を外に漏らさぬと信頼できなければ、明かすことなんてとてもできない。

 旦那様は黙って、家族のために泥を被ったのだ。その程度の瑕疵では揺るがぬと矢面に立ち、アルベルティナを後継ぎから外しながら法的に守るために結婚までして。

「あなたの存在にたいへん救われた。条件で選び、当家のために利用したというのに、何と詫び何と礼を言えばよいものか……」

「いいえ旦那様。私は納得してここに参りました。私も、旦那様の御威光を利用するために結婚したのです」

 条件は同じ。お互い納得ずくのこと、と私は旦那様に語りかけた。

 なんて身勝手な、と旦那様の姉君を罵りたい気持ちは当然湧いている。突然押しかける前に手紙を出すなど、他にやりようがあっただろうとも。けれど、苦悶する旦那様にぶつけることはできない。旦那様のせいではないし、きっと、旦那様はそれを聞きたくないだろうから。唯一の姉を人から悪しざまに言われるのはお辛いのだろう、と、批難の言葉を受ける覚悟を決めて身構えた様子の旦那様を見れば推察できる。……私だって、父を嘲笑われたら嫌だもの。

「……アルベルティナに会わせてくださったのですから、旦那様の姉君のことも、そしることなどできませんね」

 私がそう告げると、旦那様は詰めていた息を吐いて、緊張がほぐれたように柔らかく眉を下げた。

 空気が和らぎ、「今更だが」と旦那様が手ずから紅茶を淹れてくださる。喉を潤し、そろって大きなため息を吐いた。

「……旦那様の姉君は、もうここにいらっしゃらないのでしょうか?」

「いや、十年を目処に必ず顔を出すよう伝えている。アルベルティナが貴族として生きていくと決め、その上で『会いたくない』と言うなら会わせるつもりはないのだが……もし万が一姉に似たら、と思うと……」

 完全に断絶することもできず……と再び旦那様が項垂れる。ああ……アルベルティナが庭木を切り倒し始めたらどうしよう……旦那様が顔合わせの際に『より良い道を』とおっしゃった意味がわかった。アルベルティナの幸せのためなら、実の母の元に送り出してやるのも愛の形だろう。——でも出来れば貴族社会に適合してくれないかなあ……と、胸の内でそう願わずにいられないけれど。猪は……ちょっと……

「……顔を合わせるたびに大泣きされて、どう接すれば良いかと悩んでいるうちにあなたがアルベルティナを愛してくれたのだ。条件を飲んでくれた人があなたで、本当によかった」

「アルベルティナはきっと、誰からも愛されたと思いますよ」

 私じゃなくてもきっと。けれど、旦那様に今までの自分の行いを認められることが、とても嬉しい。

 突然姪を託されて、育てるために環境を整えて。どこか距離があるように感じるのは当然だった。だって『父親の立場』に立った、叔父だったのだから。ああ、旦那様は心からアルベルティナを大切に守ろうとしてくださっていたのだ。——それならきっと、私たちは皆でうまくやっていけるはず。

「旦那様もぜひ、一度私と共に会ってやってはいただけませんか?」

「ああ。明日、必ず」

 交わした約束が温かく、不安はどこかにとけていった。


§


「ティナちゃん、今日は旦那様がいらっしゃいましたよ〜!」

 私がいつものように両腕を広げれば、アルベルティナは私の胸に飛び込んでくる。私に抱きついた後で旦那様の存在に気付いたのだろう。きょときょとと目をうろつかせ、アルベルティナは私の腹に顔をうずめる。隠れているつもりかしら。

「……やはり恐れられているのだろうか」

「顔を合わせるうちに、きっと慣れていくに違いありません。ねえ〜、ちいちいたん」

「ちいち……それはアルベルティナを呼んでいるのか? なぜ……?」

「不思議なことに、呼び名が自然と変化していってしまうのです」

「そういう……ものなのだろうか」

「ええ、きっと!」

 いませんよと主張するように丸まって動かないアルベルティナと、途方に暮れたように眉を下げる旦那様がかわいらしくて、思わず声をあげて笑ってしまう。旦那様は目を瞬いて、目元を緩めた。

「あなたはそんなふうに笑うのだな」

 そう言って微笑む旦那様こそ、笑った途端に優しいお人柄が顔に出る。アルベルティナにそのお顔を見せてあげればよろしいのに。

「私はもうすっかり母としてアルベルティナを慈しむつもりでおりますが、旦那様も、共に親になってはくださいませんか?」

『父親の立場』ではなく、と目を細め旦那様を見上げれば、旦那様はいっそう笑みを深めて温かなまなざしで私を見つめ返す。

「願ってもない申し出だ。半年間申し訳なかった。どうか、私も家族にいれて欲しい」

 まずは名で呼び合うことから始めようか、と、微笑みを交わし合う。「よろしく、セシリア」と落とされた声に確かな未来を感じ取り、心が安らぐ。これから絆を紡ぎ、本当に家族となっていくのだ、と思えば心が弾む。

 ふたり見つめ合い、アルベルティナのちいさな背中にそっと手を重ねた。