「どうしたっ! 王妃は捕らえてこなかったのかっ!」
「公爵閣下、それが……」
王宮の謁見の間で騒ぐ男と、それに対してごにょごにょと歯切れ悪く説明する騎士たちを見て、アネットはこの騒動の『真相』を悟った。
あの男は、カレンの父公爵が亡くなった後に勢力を伸ばした対立する公爵家の当主だ。彼が『カレン妃を王妃に据えておくメリットはなくなった。国王陛下は離婚して我が娘を王妃にした方がいい』と何度も上申していたという話は、ピエールたちからも聞いている。
今回の急な騒ぎも、王妃が離宮に男たちを出入りさせているという噂を聞いた公爵が『王妃が不貞したことにして廃位させよう』とでも企んだのだろう。
その手に乗るかと睨みつけると、公爵も、アネットの正体を知らされたらしく、嫌な笑みを浮かべた。
「これはこれは、アネット様。迷子にでもなられましたかな? この謁見の間は、国の要人のみが立ち入りを許される場所なのですよ?」
「要人? この国の王妃が産んだ唯一の子である私よりも、重要な者がいるのかしら? ここには、あなたのような公爵ふぜいでも、出入りできるようだけれど」
「なにっ!」
自慢ではないが、アネットは舌戦では負けなしだ。
反射的に言い返してやると、公爵は怒りのあまりか、顔を赤黒く染めていた。とうとうその感情を抑えることもできなくなったらしく、口汚く罵ってくる。
「王妃といえども、不貞をするような女だろうっ! その子の血統も知れたものではないわっ!」
「私もそのことでまいりましたの。――誰が、お母さまが不貞するようなクソアバズレだっていう、事実無根の中傷をしやがった?」
そう、アネットがわざわざこの場に乗り込んだのは『弁解』のためではない。
母の暗殺を企む犯人を突き止める『捜査』としてであり、その犯人に罪を償わせるためにふさわしい罰を『執行』するためであった。
「公爵は、ものごとの前後や因果の把握が苦手でいらっしゃるの? お母さまは、ここで王妃として遇されていたときに、私を授かった。その後に、ある者に毒を盛られて、追いやられたの。そして、その身を守るためにバルバストル伯に護衛を任せた。私の血統に疑いを差し挟む余地もなければ、お母さまには責められる落ち度など何もない」
暗殺未遂当時、母に毒を盛った実行犯のメイドは、速やかに処刑されたと聞いた。
だが、誰がどう考えたって、一介のメイドが王妃の暗殺を自分の考えで目論むはずがない。重罪の上に、それを犯したって、メイドに得るものなんてないのだから。
王妃を暗殺して最も利益を得る関係にあったのは、この公爵だ。だが、公爵まで捜査の手は伸びなかった。――あのとき逃したせいで、今もこんなふうに、余計な悪事を企んでいる。
「むしろ……責めるべきは、お母さまに毒を盛った『ある者』でしょう。その者は、お母さまや私のことを目障りに思っているようだけれど。そういえば……たった今、私のことが気に食わないと態度で示した方がいらっしゃったわね?」
あえてそこで言葉を切り、公爵をじっと見つめると、謁見の間にいる者の視線は、公爵に一身に引きつけられた。
皆の注目を十分に集めてから、アネットはわざと可愛らしく微笑んだ。『無邪気な子どもが真実を見抜いた』と言わんばかりの意味深な間をおいて。
「もしかして……いえ、まさかね?」
――ねえ、あなたがやったんでしょう?
皆、元々そう思っていた。
だから、今回は、王女直々に『お前が犯人だろう』と示してやったのだ。『王女殿下のお言葉をきっかけに調べてみました』という言い訳が立てば、捜査も進むだろうと思って。
今回もうまくごまかされてしまって、トカゲの尻尾切りをされるかもしれない。それでも『公爵が疑われた』という履歴を残しておくことは大事だ。
彼の中に『今後騒ぎを起こせば自分が疑われるかもしれない』という疑念が湧けば、事を起こしづらくなって、アネットと母は平穏に暮らせるわけで。
(欲しいのは平穏な暮らし。それを守る宣戦布告のために、私はわざわざ、ここに来たんだから)
これで目的も果たしたし帰ろうか、と思ったその時、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。
「――我の許しもなく、離宮のバルバストル伯を雇い入れたのは、お前か?」
その声はアネットが初めて耳にするもので、しかし、瞬時に誰のものかが分かった。
彼が座す謁見の間の奥の椅子の煌びやかさなど見なくても、その威圧感で『この場でもっとも上の人間だ』ということを理解したから。
初めて見る『父』はアネットと同じ色の銀髪しかり、身につけるものも含めて寒色で揃えているが、纏う空気はそれよりずっと冷たくて、不機嫌そうに眇められた瞳から氷点下の視線を差し向けてきていた。
「こ、国王陛下。ご機嫌麗しく……」
「御託はいい。お前か、と聞いている」
不機嫌な声色に、彼がこの展開を喜んでいないことを悟った。
(そうだった。国王陛下は、元々、結婚相手だったお母さまのことが気に入らなくて。それで、犯人が明らかな毒殺未遂のときにも、公爵の罪を追及しなくて……)
つまり――今回の騒動で、公爵家が罰されることも、国王は望んでいないのではないか。
むしろ、王妃の不貞の噂を利用したのも、公爵の思惑ではなく、国王の思惑だったのかもしれない――。
「王妃が、バルバストル伯を望んだのではないか?」
アネットの考えを裏付けるように、何度も執拗に疑いを向けてくる国王に、アネットはとっさに言い返した。
「違います! お母さまは関係ありません! 私が選んだんです! 陛下がちっとも頼りにならないから」
「ほう」
「はっ!」
何が何でも母を有罪にしたいのかと思って、反発する気持ちを堪えられなかったのだ。
母のことを庇いたくて、真実は違うと弁解したくて、思わず本音がこぼれ出た。
その不用意な不敬な本音こそが、国王がアネットから引き出したかったものかもしれないのに。
「ほら、聞きましたか! 幼子が、自然にこのような不敬な考えなど持つはずがない! 王妃が吹き込んだのです! 王妃が、娘の名前で、好みの男に粉をかけ、呼び込んだのです! それにもし、これが王女自身の考えだとしたら、末恐ろしい悪女め! 王女の王位継承権も剥奪した上で、生涯幽閉するのが妥当――」
公爵なんて、さっきまであんなに追い詰められていたくせに。
国王が味方について勝ち馬に乗ったと思ったのか、公爵まで嬉々として好き勝手なことをほざいている。
「違う……っ!」
理路整然と反論したいのに、その反論のせいでさらに悪い方に転ぶかもしれないと思うと、声が出てこない。
息を詰めたアネットを見て、国王は不快そうに眉間に皺を寄せた。
「お前は……」
「――申し訳ございません! 陛下、どうか、アネットだけはお許しくださいませ!」
その時だった。
駆け込んできた靴音と、アネットを庇うように抱きしめてくる温かさを知ったのは。
「おかあさま……?」
綺麗で優しくてその代わり頼りない母が、アネットが守ってやらねばならないと思っていた母が、国王の視線を遮るように前に躍り出て、アネットの身体を引き寄せ包み込んだ。
「まだ、幼い子の言うことです! この子は、自分がしたことの意味も分かっておりません。ただ、母のことを案じて、心を砕いてくれただけです!」
――ああ、これは悪手だ。
そんなふうに説明したら、カレンが主犯ということにされてしまう。カレンを追い込みたい国王に、言い訳を与えてしまう。
こんなの、母のためにならないし、母が排除されればアネットの身の危険もある。早く止めさせなければならない。
「大丈夫よ。アネットのことは、お母さまが守るわ」
「……っ、ごめんなさい」
「あなたは何も悪くないわ。お母さまのためにやってくれたんでしょう?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
それなのに――その気持ちが嬉しくて、アネットには止めることができなかった。
『杏音、あんたがいるから、お母さんはお父さんと別れられないの』
そのとき『私』は言ったのに。
そんなの気にしないで。自分のために無理して一緒にいる親を見るよりは、別れていい人でも見つけてくれた方がいいって何度も言ったのに。
『どうして!? ここまで誰が金出して育ててあげたと思ってんの!? これから高い給料もらうんでしょ!? 学校卒業して、自分の仕事の目処が立ったら、あたしはもう用済みってこと!?』
そんなことは思いたくなかった。親を嫌いになりたくなかった。だから、距離を置きたかったの。
学校を卒業したら、一人で暮らしたいと伝えた。たったそれだけだったのに、鬼女のような顔をしたそのひとに追いかけられて、ここで捕まったら一生あの息が詰まる家から逃れられないような気がして。
慌てて家を飛び出して、信号も確認しなかった交差点で、ブレーキ音が近くに聞こえて、そのまま――。
「子どもが思いやってくれたらね、親って、それだけで嬉しいのよ。それと同時に、気を遣わせて申し訳ないと思うの。だから、あなたは気にしなくていい。お母さまがあなたの分まで気にするんだから」
たった二十年ちょっとしか生きていないのに、母はきちんと母だった。
可愛げのない娘は、弱い母を守ってやらなければならないと、内心で母のことを見下していたのに。その娘のことまでも包み込もうとするくらいに、強い女だった。
『杏音』がそんな愛をもらったのは、これが初めてだったから。
アネットは今生の母の胸に縋りついて、甘えて泣きつくことしかできなかった。まるで普通の幼子みたいに。
「陛下。どうか、正しいご判断を」
「久しいな、カレン。もう、身体はいいのか?」
だから、泣くのに夢中だったアネットはうっかり聞き漏らし、気づくのが遅れたのだ。
母に声をかける国王が、まるで思春期の少年のようにそわそわと落ち着きのない様子だったことに。
「ええ。アネットのおかげですわ」
「そうか……」
国王は口をつぐみ、次に口を開いたときには、厳しい命令を下した。
「――我が騎士よ、公爵を捕らえよ。公爵による王妃の暗殺未遂の証拠は、我が腹心のパトリス・バルバストルに預けてある」
「なっ!?」
国王の一言ともに、謁見の間の端に立つ騎士団が陣を展開して、公爵を取り囲んだ。
「……えっ? どういうこと!?」
アネットが目を白黒させているうちに、公爵はあっけなく部屋から連れ出され、この場は静かになったわけだけれども。
意外な展開に驚いて声を上げたアネットに、国王は呆れたような視線を送った。
「まったく、幼子が思いつきに任せて余計なことをしてくれたな。こちらは五年もかけて、今度こそ逃れられないように証拠を集めていたというのに」
「え? ……えぇっ!? 嘘でしょ!?」
「本当だ」
公爵を五年前に罰しなかったのは、関与した者を根絶やしにする機会をうかがっていたからで。
国王が王妃を追い出し、公爵の肩を持つような話をしたのは、公爵にぼろを出させるためで。
王妃の護衛として人も送り込んでいた――という話を聞いて、そんな調子のいいことを言うなと周りを見てみても、この場に残った者の様子を見る限り、どうやら嘘でもなさそうだ。
クズロリコンだと思われていた国王は、なんとも執念深い怖い男だったらしい。
ただ、一つだけ、アネットにとって意外で、かつアネットの行いが良い方向に進んだと言えることがあるとしたら――。
「だが、おかげで早く片がついた。カレンは、今日から王妃宮に住むといい」
「へ、陛下? ですが、わたくしは、頼る家もなく、もう子を産むこともできず……」
玉座を降りて近づいてきた国王は、うろたえている母を抱き上げると、別人のように甘く囁く。
「そんなことで私の愛は変わらない。君は私だけに頼ればいいし、それに――世継ぎなら既にいるではないか」
その一瞬だけ、国王は――父は、鋭い目をして、アネットを見た。
「次期女王よ、早く育つことだな。余が愛する妃と二人きりで過ごせるように」
その眼差しには、試練のような、期待のようなものが込められていた。
「公爵閣下、それが……」
王宮の謁見の間で騒ぐ男と、それに対してごにょごにょと歯切れ悪く説明する騎士たちを見て、アネットはこの騒動の『真相』を悟った。
あの男は、カレンの父公爵が亡くなった後に勢力を伸ばした対立する公爵家の当主だ。彼が『カレン妃を王妃に据えておくメリットはなくなった。国王陛下は離婚して我が娘を王妃にした方がいい』と何度も上申していたという話は、ピエールたちからも聞いている。
今回の急な騒ぎも、王妃が離宮に男たちを出入りさせているという噂を聞いた公爵が『王妃が不貞したことにして廃位させよう』とでも企んだのだろう。
その手に乗るかと睨みつけると、公爵も、アネットの正体を知らされたらしく、嫌な笑みを浮かべた。
「これはこれは、アネット様。迷子にでもなられましたかな? この謁見の間は、国の要人のみが立ち入りを許される場所なのですよ?」
「要人? この国の王妃が産んだ唯一の子である私よりも、重要な者がいるのかしら? ここには、あなたのような公爵ふぜいでも、出入りできるようだけれど」
「なにっ!」
自慢ではないが、アネットは舌戦では負けなしだ。
反射的に言い返してやると、公爵は怒りのあまりか、顔を赤黒く染めていた。とうとうその感情を抑えることもできなくなったらしく、口汚く罵ってくる。
「王妃といえども、不貞をするような女だろうっ! その子の血統も知れたものではないわっ!」
「私もそのことでまいりましたの。――誰が、お母さまが不貞するようなクソアバズレだっていう、事実無根の中傷をしやがった?」
そう、アネットがわざわざこの場に乗り込んだのは『弁解』のためではない。
母の暗殺を企む犯人を突き止める『捜査』としてであり、その犯人に罪を償わせるためにふさわしい罰を『執行』するためであった。
「公爵は、ものごとの前後や因果の把握が苦手でいらっしゃるの? お母さまは、ここで王妃として遇されていたときに、私を授かった。その後に、ある者に毒を盛られて、追いやられたの。そして、その身を守るためにバルバストル伯に護衛を任せた。私の血統に疑いを差し挟む余地もなければ、お母さまには責められる落ち度など何もない」
暗殺未遂当時、母に毒を盛った実行犯のメイドは、速やかに処刑されたと聞いた。
だが、誰がどう考えたって、一介のメイドが王妃の暗殺を自分の考えで目論むはずがない。重罪の上に、それを犯したって、メイドに得るものなんてないのだから。
王妃を暗殺して最も利益を得る関係にあったのは、この公爵だ。だが、公爵まで捜査の手は伸びなかった。――あのとき逃したせいで、今もこんなふうに、余計な悪事を企んでいる。
「むしろ……責めるべきは、お母さまに毒を盛った『ある者』でしょう。その者は、お母さまや私のことを目障りに思っているようだけれど。そういえば……たった今、私のことが気に食わないと態度で示した方がいらっしゃったわね?」
あえてそこで言葉を切り、公爵をじっと見つめると、謁見の間にいる者の視線は、公爵に一身に引きつけられた。
皆の注目を十分に集めてから、アネットはわざと可愛らしく微笑んだ。『無邪気な子どもが真実を見抜いた』と言わんばかりの意味深な間をおいて。
「もしかして……いえ、まさかね?」
――ねえ、あなたがやったんでしょう?
皆、元々そう思っていた。
だから、今回は、王女直々に『お前が犯人だろう』と示してやったのだ。『王女殿下のお言葉をきっかけに調べてみました』という言い訳が立てば、捜査も進むだろうと思って。
今回もうまくごまかされてしまって、トカゲの尻尾切りをされるかもしれない。それでも『公爵が疑われた』という履歴を残しておくことは大事だ。
彼の中に『今後騒ぎを起こせば自分が疑われるかもしれない』という疑念が湧けば、事を起こしづらくなって、アネットと母は平穏に暮らせるわけで。
(欲しいのは平穏な暮らし。それを守る宣戦布告のために、私はわざわざ、ここに来たんだから)
これで目的も果たしたし帰ろうか、と思ったその時、地獄の底から響くような低い声が聞こえた。
「――我の許しもなく、離宮のバルバストル伯を雇い入れたのは、お前か?」
その声はアネットが初めて耳にするもので、しかし、瞬時に誰のものかが分かった。
彼が座す謁見の間の奥の椅子の煌びやかさなど見なくても、その威圧感で『この場でもっとも上の人間だ』ということを理解したから。
初めて見る『父』はアネットと同じ色の銀髪しかり、身につけるものも含めて寒色で揃えているが、纏う空気はそれよりずっと冷たくて、不機嫌そうに眇められた瞳から氷点下の視線を差し向けてきていた。
「こ、国王陛下。ご機嫌麗しく……」
「御託はいい。お前か、と聞いている」
不機嫌な声色に、彼がこの展開を喜んでいないことを悟った。
(そうだった。国王陛下は、元々、結婚相手だったお母さまのことが気に入らなくて。それで、犯人が明らかな毒殺未遂のときにも、公爵の罪を追及しなくて……)
つまり――今回の騒動で、公爵家が罰されることも、国王は望んでいないのではないか。
むしろ、王妃の不貞の噂を利用したのも、公爵の思惑ではなく、国王の思惑だったのかもしれない――。
「王妃が、バルバストル伯を望んだのではないか?」
アネットの考えを裏付けるように、何度も執拗に疑いを向けてくる国王に、アネットはとっさに言い返した。
「違います! お母さまは関係ありません! 私が選んだんです! 陛下がちっとも頼りにならないから」
「ほう」
「はっ!」
何が何でも母を有罪にしたいのかと思って、反発する気持ちを堪えられなかったのだ。
母のことを庇いたくて、真実は違うと弁解したくて、思わず本音がこぼれ出た。
その不用意な不敬な本音こそが、国王がアネットから引き出したかったものかもしれないのに。
「ほら、聞きましたか! 幼子が、自然にこのような不敬な考えなど持つはずがない! 王妃が吹き込んだのです! 王妃が、娘の名前で、好みの男に粉をかけ、呼び込んだのです! それにもし、これが王女自身の考えだとしたら、末恐ろしい悪女め! 王女の王位継承権も剥奪した上で、生涯幽閉するのが妥当――」
公爵なんて、さっきまであんなに追い詰められていたくせに。
国王が味方について勝ち馬に乗ったと思ったのか、公爵まで嬉々として好き勝手なことをほざいている。
「違う……っ!」
理路整然と反論したいのに、その反論のせいでさらに悪い方に転ぶかもしれないと思うと、声が出てこない。
息を詰めたアネットを見て、国王は不快そうに眉間に皺を寄せた。
「お前は……」
「――申し訳ございません! 陛下、どうか、アネットだけはお許しくださいませ!」
その時だった。
駆け込んできた靴音と、アネットを庇うように抱きしめてくる温かさを知ったのは。
「おかあさま……?」
綺麗で優しくてその代わり頼りない母が、アネットが守ってやらねばならないと思っていた母が、国王の視線を遮るように前に躍り出て、アネットの身体を引き寄せ包み込んだ。
「まだ、幼い子の言うことです! この子は、自分がしたことの意味も分かっておりません。ただ、母のことを案じて、心を砕いてくれただけです!」
――ああ、これは悪手だ。
そんなふうに説明したら、カレンが主犯ということにされてしまう。カレンを追い込みたい国王に、言い訳を与えてしまう。
こんなの、母のためにならないし、母が排除されればアネットの身の危険もある。早く止めさせなければならない。
「大丈夫よ。アネットのことは、お母さまが守るわ」
「……っ、ごめんなさい」
「あなたは何も悪くないわ。お母さまのためにやってくれたんでしょう?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
それなのに――その気持ちが嬉しくて、アネットには止めることができなかった。
『杏音、あんたがいるから、お母さんはお父さんと別れられないの』
そのとき『私』は言ったのに。
そんなの気にしないで。自分のために無理して一緒にいる親を見るよりは、別れていい人でも見つけてくれた方がいいって何度も言ったのに。
『どうして!? ここまで誰が金出して育ててあげたと思ってんの!? これから高い給料もらうんでしょ!? 学校卒業して、自分の仕事の目処が立ったら、あたしはもう用済みってこと!?』
そんなことは思いたくなかった。親を嫌いになりたくなかった。だから、距離を置きたかったの。
学校を卒業したら、一人で暮らしたいと伝えた。たったそれだけだったのに、鬼女のような顔をしたそのひとに追いかけられて、ここで捕まったら一生あの息が詰まる家から逃れられないような気がして。
慌てて家を飛び出して、信号も確認しなかった交差点で、ブレーキ音が近くに聞こえて、そのまま――。
「子どもが思いやってくれたらね、親って、それだけで嬉しいのよ。それと同時に、気を遣わせて申し訳ないと思うの。だから、あなたは気にしなくていい。お母さまがあなたの分まで気にするんだから」
たった二十年ちょっとしか生きていないのに、母はきちんと母だった。
可愛げのない娘は、弱い母を守ってやらなければならないと、内心で母のことを見下していたのに。その娘のことまでも包み込もうとするくらいに、強い女だった。
『杏音』がそんな愛をもらったのは、これが初めてだったから。
アネットは今生の母の胸に縋りついて、甘えて泣きつくことしかできなかった。まるで普通の幼子みたいに。
「陛下。どうか、正しいご判断を」
「久しいな、カレン。もう、身体はいいのか?」
だから、泣くのに夢中だったアネットはうっかり聞き漏らし、気づくのが遅れたのだ。
母に声をかける国王が、まるで思春期の少年のようにそわそわと落ち着きのない様子だったことに。
「ええ。アネットのおかげですわ」
「そうか……」
国王は口をつぐみ、次に口を開いたときには、厳しい命令を下した。
「――我が騎士よ、公爵を捕らえよ。公爵による王妃の暗殺未遂の証拠は、我が腹心のパトリス・バルバストルに預けてある」
「なっ!?」
国王の一言ともに、謁見の間の端に立つ騎士団が陣を展開して、公爵を取り囲んだ。
「……えっ? どういうこと!?」
アネットが目を白黒させているうちに、公爵はあっけなく部屋から連れ出され、この場は静かになったわけだけれども。
意外な展開に驚いて声を上げたアネットに、国王は呆れたような視線を送った。
「まったく、幼子が思いつきに任せて余計なことをしてくれたな。こちらは五年もかけて、今度こそ逃れられないように証拠を集めていたというのに」
「え? ……えぇっ!? 嘘でしょ!?」
「本当だ」
公爵を五年前に罰しなかったのは、関与した者を根絶やしにする機会をうかがっていたからで。
国王が王妃を追い出し、公爵の肩を持つような話をしたのは、公爵にぼろを出させるためで。
王妃の護衛として人も送り込んでいた――という話を聞いて、そんな調子のいいことを言うなと周りを見てみても、この場に残った者の様子を見る限り、どうやら嘘でもなさそうだ。
クズロリコンだと思われていた国王は、なんとも執念深い怖い男だったらしい。
ただ、一つだけ、アネットにとって意外で、かつアネットの行いが良い方向に進んだと言えることがあるとしたら――。
「だが、おかげで早く片がついた。カレンは、今日から王妃宮に住むといい」
「へ、陛下? ですが、わたくしは、頼る家もなく、もう子を産むこともできず……」
玉座を降りて近づいてきた国王は、うろたえている母を抱き上げると、別人のように甘く囁く。
「そんなことで私の愛は変わらない。君は私だけに頼ればいいし、それに――世継ぎなら既にいるではないか」
その一瞬だけ、国王は――父は、鋭い目をして、アネットを見た。
「次期女王よ、早く育つことだな。余が愛する妃と二人きりで過ごせるように」
その眼差しには、試練のような、期待のようなものが込められていた。
