ある朝、とうとうアネットは吠えた。
 この世の理不尽というものに、ほとほと絶望しきったからである。

「民法第752条! 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならないっ!」

 それは、この世界には存在しない法律の一節で、この世界にその言語を解する者がいない以上、誰にも聞き咎められることはなかった。
 もっとも、仮に、事情を知る誰かに聞かれていたとして、幼子らしい『ふーふはどうきょち〜』という舌足らずな言葉を、正しく結びつけることはなかったかもしれないけれど。

 ☆

 さて、とある女の話をしよう。
 彼女は、日本の首都・東京の、少々複雑な家庭に生まれた。具体的には、経済的には不自由ないが家族仲は壊滅的に悪い――悲しいことにさほど珍しくもない様相の家庭に。

『早く、居心地の悪い家を出て、自立したい』――彼女は、切実にそう願っていた。

 幸運なことに、勉学は制限されなかったし、その努力を活かす環境は与えられていた。
 ゆえに、彼女は一心に勉学に励んだ。
 やっとのことで某難関国家試験に合格し、ようやく道が開けるのだと前途洋々たる将来に思いを馳せていたところ――彼女の『道』はぷつりと途切れた。

「うにゃあ~っ!」

 次に目を覚ましたときには、ふくふくとしたまるい頬の、愛らしくも無力な生き物に、姿を変えられていたもので。

(え? 何これ? 生まれ変わり? ……私、死んだの!?)

 じたばたと手足を動かしたつもりが、赤子の狭い視界に入るのは、むちむちと肉のついた握りこぶしのみ。
 下半身に至っては、上手く脚を持ち上げることもできず、首も据わらない彼女には、頭を起こして覗き込むことすらできない。
 よって、不快感を訴えるには泣き声によるしかないのだが、それもぴしゃりと遮られた。

「ああ、もう、うるさいわね! アネットさまっ、ちょっとは静かにできないのっ!」

 ヒステリックな金切り声を浴びせかけられ、彼女はキュッと口を閉ざした。
 バタバタと足音を立てて自分に駆け寄ってくる人物はどうやらご機嫌ななめらしいと察したからである。

(赤ちゃんの泣き声が苦手な人もいるだろうしね。育児ノイローゼなのかもしれない)

 本物の赤子なら、周りに構わず自分の感情のままに泣くことしかできなかったかもしれないが、こちとら、人生二周目の二十代女性である。
 誰にだって『今は声をかけないでほしいな』という瞬間くらいあるだろう。理解ある赤子としてその都合を優先しますよ、と余裕の涼しい顔を見せたのだけれど。

「はあ、早く死なないかしら。こんな子、陛下にとってもお目障りでしょうに」
「うにゃっ!?」

 突如飛び出した一線を越えた一言に、彼女はまだ上手く開かない目を見開いた。
 赤子には言葉が通じないと思っているのかもしれないが、さすがに許されていい発言ではない。

(はぁっ!? やんのか、この(アマ)! ……って、『陛下』ですって?)

 ただ、一つだけ良かったことがあるとするなら――。

「『死にぞこないの王妃』ともども、処分してしまえばよろしいのに」

 暴言を吐いた女は、世話役の侍女にすぎなくて。
 彼女の実母や実父は別にいて、彼らは国王夫妻というやんごとなき地位にあり――つまり、アネットはこの国の第一王女というやつらしい、と分かったことだ。