きっと結婚できません!と大きくつっぱねるともう、うちには来ないで、とか言われるのだろう。こんな太い客をみすみす逃すこともできない……八方ふさがりだ。
思わず同情の眼差しで桐生社長を見る。その瞬間ばちっと目あ合った。
ドキン、と心臓が跳ねた。
こんな瞬間なのに、私は桐生社長の目の睫毛が長いことに感心したりしている。何考えてるの、と自分を叱咤すると桐生社長が口を開いた。
「実は……今日、ここに河原真珠さんに来てもらったのは理由があります」
「ええ。そうよね。本来だったら一対一で逢うものね。誰か間違えてダブルブッキングしたのかと思ったのよ。私は雅敏さんに早く逢えてうれしいけど」
桐生社長は顔を引き締めた。
「ダブルブッキングじゃないんです。こうなるように私が仕向けました。何故なら…私は、この河原真珠の一人娘である河原文香さんと結婚するからです」
何を言い出すの、と大声を出そうとするがあまりの事に声も出ない。私は桐生社長を凝視した。桐生社長は私にウィンクをしてみせた。
話を合わせろってこと……?!
もう、何がなんだかわからない!
私はあわあわしそうになる口を何とか閉じた。
「なんですって!」
ひめか嬢が顔を引きつらせる。
「私よりもそんな子がいいって言うの?」
桐生社長はにこやかに微笑んだ。
「ひめか嬢には私ごときではお相手は勤まりません。その点、河原さんは同じ穴のムジナというか、同じ業界なのでお互いをよく分かり合えるんです。これ以上ない結婚相手だと思っています」
ひめか嬢は、きつい眼差しで桐生社長を睨んでいた。
桐生社長は淡々とそれを眺めている。
これっていわゆる修羅場ってやつなのでは……恋愛経験のない私にはよくわからないけれども。
ひめか嬢は、もっと怒りを爆発させるかと思ったがそうではなかった。険しかった表情が徐々に静かなものになっていく。
「…わかったわ。今まで私になびかなかったのはその人がいるからなのね」
わがままお嬢様だけど、泣き崩れるとかしないんだな、と私は思った。彼女ならではの知性や気品がそうさせないんだろう。わがままだが、彼女はやはり歴然としたお嬢様なのだ。
「今日はもう買い物をする気がないから品物は持って帰ってちょうだい」
それから、とひめか嬢は低い声で言った。
「私に恥をかかせたことを忘れないようにね」
そう言って、彼女がやって来たドアから出て行ってしまった。私は待ってください、とソファから立ち上がったが、彼女が出て行く方が早かった。
目の前で閉じられたドアを見つめ、呆然と立ち尽くす。
「やれやれ。困ったお嬢さんだ」
なんて事はない、とでも言いたそうな軽い声で桐生社長は言った。
「あな…」
あなたが、私を結婚相手だなんて言うから商談がダメになったじゃないですか、と言いたいのに怒りのせいでうまく言葉にならない。
なんてことだろう。たしかに400 万するあの三連のネックレスが簡単には売れないだろうとは思っていた。でも一旦はピンクパールの品々を買うと言ってくれたのに。
うまくいきかけたのが目前でダメになり私はへなへなとソファに座り込んだ。
せっかく水巻さんが作ってくれたチャンスが消えた。財閥令嬢とつながりを持ち、なんとかうちの店をたたまなくてすむようにならないか、という切実な希望が絶たれてしまった。
思わず大きなため息が出る。
「そんなにピンクパールを売りたかったのか?」
桐生社長が私の顔を覗き込んだ。
私は桐生社長に対してもやもやしていたけれど、もうそれをぶつける気もなくなってしまった。
「ええ……うちみたいな小さな真珠店にはまたとないチャンスだったので」
淡々と言葉にした。
「そうか……いきなり結婚話なんてして悪かったな。どうしてもひめか嬢に俺のことを諦めてほしかった。あの流れで君は適任だと思ったんだ」
「適任って……あなたなら結婚相手のフリをしてくれる女性なんてたくさんいるんじゃないですか?」
いくら隣にいたからって私にするなんて強引すぎる。
「いや。結婚相手のフリをさせるなら君じゃないとダメだった。俺に寄ってくる女性は宝石狂いみたいな女性ばっかりだ。ひめか嬢が金を渡せばすぐに結婚相手のフリをしていましたと白状するだろう。それに比べて君は固そうだ。宝石を並べられても目の色が変ったりしないだろう」
そんな事を考えていたのか、と少し意外だった。確かに私は宝石のきらきらした世界よりも真珠のようなあっさりとした美を好む。単純に真珠に囲まれて育ったからかもしれないが。
「でも、いいんですか。ジュエリーブラッドにとってもひめか嬢はいいお客様だったんでしょう。さっきの調子じゃもう顧客になってもらえないんじゃないですか」
疑問に思っていたことを口にした。ジュエリーブラッドはうちと比べたら大手だけれど、みすみす高額な宝石を買ってくれそうな客を逃がすほど余裕があるのだろうか。
「仕方ないさ。結婚話だけじゃなく宝石をプレゼントしろなんて横暴だろう。うっかり結婚なんてしたらうちの商品を湯水のように扱うだろうな。商品と自分のつけるアクセサリーの線引きくらいできないと婚姻関係は結べない。今日みたいにはっきりさせるタイミングを待っていたんだ」
「そうですか……」
力なく私は言った。話の流れはわかったけれど、私は明らかに巻き込まれている。そのタイミングとかを先延ばしにしてくれていたら、私はピンクパールを買ってもらえたかもしれないのに。
結局気持ちがそこに行くので、私は桐生社長と話すのを切り上げることにした。このまま一緒にいても堂々めぐりだ。
「あの。私、帰ります。連れもいるので」
ぼんやり桐生社長の顔を見ると、美麗な顔がうっすら困っていた。
「お詫びをさせてもらえないか」
おわび?私はきょとんとした。
「いきなり結婚相手のフリなんてさせて悪かったと思ってる。俺の持って行き方がうまかったら君はピンクパールをひめか嬢に売ることができただろう。でも俺が台無しにしたわけだ。それに君だって恋人くらいいるだろう。二重に不快な想いをさせた詫びがしたいんだ」
「恋人なんていませんけど……」
思わず本音がもれてしまった。私はこういう余計なことを言ってしまうところがある。
「そうなのか?」
桐生社長の顔がぱっと明るくなった。
「それならよかった。堂々と食事に誘えるな。明後日、河原真珠に迎えに行く。時間は十九時にしよう」
「え、あの」
てきぱきと日時を指定される。ちょっと待って。私が社長と食事?急すぎて頭が追いつかない。
「ま、まだ行くとは言ってません」
慌ててそれだけ伝えるので精一杯だ。
「ふうん。今日の君を見て、河原真珠さんは売り上げが思うようになってないんじゃないかと推測できた。それに比べてジュエリーブラッドは新規店をさらに増やす方向で勢いに乗っている。どうだ。そういう店の経営者と喋るのは君にとっても勉強になると思うんだが」
私はしばらく考えた。確かに今、店をうまく経営するコツみたいなものを知るチャンスがあったらすぐに手をのばしたいのが本音だ。
でも桐生社長の強引な持って行き方にまんまと乗ってしまうのもシャクな気もする。
「少し考えさせてください」
桐生社長の目を見て言った。桐生社長はふうん、とでも言いたそうな顔をした。
「わかった。名刺交換したから連絡先はわかるな。俺が連絡するかもしれないし、君からしてくれてもいい。俺としては文香さんと話すのを楽しみにしている。そう覚えていておいてくれ」
そう言って私よりも先にこの屋敷のリビングから出て行ってしまった。
お詫びで、経営の勉強ができて、先方は私と喋るのを楽しみにしている。
なんだか釈然としない。すごいイケメンだとは思うし、どういう人なんだろうという謎を感じる。
私は連れの千尋君を待たせていることを思い出し、慌てて部屋から出て行った
翌日の夜。
「えっ、ジュエリーブラッドの社長に誘われたの?」
夜の9時。私は自分の部屋で莉子に電話している。
昨日のひめか嬢との商談、そして桐生社長のことを打ち明けた。
「そうなの。お詫びするって言ってる」
莉子はへえ、と興味深そうに呟いた。
「そんな大手の社長とお近づきになれるんでしょ、いいじゃない会えば」
莉子だったらそうするだろうな、と私は思った。男性とデートするのも私の様に屈託がないのでフットワークが軽い。
それに、単に男性と会うのに気後れしているだけではないのだ。
「ただの食事会で終わればいいけど。いきなりその場で『この人と結婚することになってます』なんて言う人よ。なんかとんでもない事言い出しそうで、怖いっていうのが本音よ」
「確かに。初対面の相手にいきなり、だもんね。文香が引く気もわかるわ」
そうでしょ、と持っていたマグカップのコーヒーを啜った。
「でも、単にお詫びしたい、っていう気持ちからなんだからそんなに警戒しなくてもいんじゃない、とも思うわ。っていうか、私だったらやっぱり好奇心が勝つかな。大手宝石店社長とお話なんてなかなかできないじゃない。私が文香だったらやっぱり行くわ」
私が警戒しすぎか。それもあるだろう。
「うーん…じゃあ、社長と会うとして、どんな恰好したらいいの?私、男性と二人きりで食事したこと、父以外にいないもの」
そうね、と莉子はちょっと考えてくれた。
「一緒に買い物に行った時、ラベンダー色のワンピースを買ったじゃない?試着して可愛かったの覚えてる。あれにしたら」
思わず同情の眼差しで桐生社長を見る。その瞬間ばちっと目あ合った。
ドキン、と心臓が跳ねた。
こんな瞬間なのに、私は桐生社長の目の睫毛が長いことに感心したりしている。何考えてるの、と自分を叱咤すると桐生社長が口を開いた。
「実は……今日、ここに河原真珠さんに来てもらったのは理由があります」
「ええ。そうよね。本来だったら一対一で逢うものね。誰か間違えてダブルブッキングしたのかと思ったのよ。私は雅敏さんに早く逢えてうれしいけど」
桐生社長は顔を引き締めた。
「ダブルブッキングじゃないんです。こうなるように私が仕向けました。何故なら…私は、この河原真珠の一人娘である河原文香さんと結婚するからです」
何を言い出すの、と大声を出そうとするがあまりの事に声も出ない。私は桐生社長を凝視した。桐生社長は私にウィンクをしてみせた。
話を合わせろってこと……?!
もう、何がなんだかわからない!
私はあわあわしそうになる口を何とか閉じた。
「なんですって!」
ひめか嬢が顔を引きつらせる。
「私よりもそんな子がいいって言うの?」
桐生社長はにこやかに微笑んだ。
「ひめか嬢には私ごときではお相手は勤まりません。その点、河原さんは同じ穴のムジナというか、同じ業界なのでお互いをよく分かり合えるんです。これ以上ない結婚相手だと思っています」
ひめか嬢は、きつい眼差しで桐生社長を睨んでいた。
桐生社長は淡々とそれを眺めている。
これっていわゆる修羅場ってやつなのでは……恋愛経験のない私にはよくわからないけれども。
ひめか嬢は、もっと怒りを爆発させるかと思ったがそうではなかった。険しかった表情が徐々に静かなものになっていく。
「…わかったわ。今まで私になびかなかったのはその人がいるからなのね」
わがままお嬢様だけど、泣き崩れるとかしないんだな、と私は思った。彼女ならではの知性や気品がそうさせないんだろう。わがままだが、彼女はやはり歴然としたお嬢様なのだ。
「今日はもう買い物をする気がないから品物は持って帰ってちょうだい」
それから、とひめか嬢は低い声で言った。
「私に恥をかかせたことを忘れないようにね」
そう言って、彼女がやって来たドアから出て行ってしまった。私は待ってください、とソファから立ち上がったが、彼女が出て行く方が早かった。
目の前で閉じられたドアを見つめ、呆然と立ち尽くす。
「やれやれ。困ったお嬢さんだ」
なんて事はない、とでも言いたそうな軽い声で桐生社長は言った。
「あな…」
あなたが、私を結婚相手だなんて言うから商談がダメになったじゃないですか、と言いたいのに怒りのせいでうまく言葉にならない。
なんてことだろう。たしかに400 万するあの三連のネックレスが簡単には売れないだろうとは思っていた。でも一旦はピンクパールの品々を買うと言ってくれたのに。
うまくいきかけたのが目前でダメになり私はへなへなとソファに座り込んだ。
せっかく水巻さんが作ってくれたチャンスが消えた。財閥令嬢とつながりを持ち、なんとかうちの店をたたまなくてすむようにならないか、という切実な希望が絶たれてしまった。
思わず大きなため息が出る。
「そんなにピンクパールを売りたかったのか?」
桐生社長が私の顔を覗き込んだ。
私は桐生社長に対してもやもやしていたけれど、もうそれをぶつける気もなくなってしまった。
「ええ……うちみたいな小さな真珠店にはまたとないチャンスだったので」
淡々と言葉にした。
「そうか……いきなり結婚話なんてして悪かったな。どうしてもひめか嬢に俺のことを諦めてほしかった。あの流れで君は適任だと思ったんだ」
「適任って……あなたなら結婚相手のフリをしてくれる女性なんてたくさんいるんじゃないですか?」
いくら隣にいたからって私にするなんて強引すぎる。
「いや。結婚相手のフリをさせるなら君じゃないとダメだった。俺に寄ってくる女性は宝石狂いみたいな女性ばっかりだ。ひめか嬢が金を渡せばすぐに結婚相手のフリをしていましたと白状するだろう。それに比べて君は固そうだ。宝石を並べられても目の色が変ったりしないだろう」
そんな事を考えていたのか、と少し意外だった。確かに私は宝石のきらきらした世界よりも真珠のようなあっさりとした美を好む。単純に真珠に囲まれて育ったからかもしれないが。
「でも、いいんですか。ジュエリーブラッドにとってもひめか嬢はいいお客様だったんでしょう。さっきの調子じゃもう顧客になってもらえないんじゃないですか」
疑問に思っていたことを口にした。ジュエリーブラッドはうちと比べたら大手だけれど、みすみす高額な宝石を買ってくれそうな客を逃がすほど余裕があるのだろうか。
「仕方ないさ。結婚話だけじゃなく宝石をプレゼントしろなんて横暴だろう。うっかり結婚なんてしたらうちの商品を湯水のように扱うだろうな。商品と自分のつけるアクセサリーの線引きくらいできないと婚姻関係は結べない。今日みたいにはっきりさせるタイミングを待っていたんだ」
「そうですか……」
力なく私は言った。話の流れはわかったけれど、私は明らかに巻き込まれている。そのタイミングとかを先延ばしにしてくれていたら、私はピンクパールを買ってもらえたかもしれないのに。
結局気持ちがそこに行くので、私は桐生社長と話すのを切り上げることにした。このまま一緒にいても堂々めぐりだ。
「あの。私、帰ります。連れもいるので」
ぼんやり桐生社長の顔を見ると、美麗な顔がうっすら困っていた。
「お詫びをさせてもらえないか」
おわび?私はきょとんとした。
「いきなり結婚相手のフリなんてさせて悪かったと思ってる。俺の持って行き方がうまかったら君はピンクパールをひめか嬢に売ることができただろう。でも俺が台無しにしたわけだ。それに君だって恋人くらいいるだろう。二重に不快な想いをさせた詫びがしたいんだ」
「恋人なんていませんけど……」
思わず本音がもれてしまった。私はこういう余計なことを言ってしまうところがある。
「そうなのか?」
桐生社長の顔がぱっと明るくなった。
「それならよかった。堂々と食事に誘えるな。明後日、河原真珠に迎えに行く。時間は十九時にしよう」
「え、あの」
てきぱきと日時を指定される。ちょっと待って。私が社長と食事?急すぎて頭が追いつかない。
「ま、まだ行くとは言ってません」
慌ててそれだけ伝えるので精一杯だ。
「ふうん。今日の君を見て、河原真珠さんは売り上げが思うようになってないんじゃないかと推測できた。それに比べてジュエリーブラッドは新規店をさらに増やす方向で勢いに乗っている。どうだ。そういう店の経営者と喋るのは君にとっても勉強になると思うんだが」
私はしばらく考えた。確かに今、店をうまく経営するコツみたいなものを知るチャンスがあったらすぐに手をのばしたいのが本音だ。
でも桐生社長の強引な持って行き方にまんまと乗ってしまうのもシャクな気もする。
「少し考えさせてください」
桐生社長の目を見て言った。桐生社長はふうん、とでも言いたそうな顔をした。
「わかった。名刺交換したから連絡先はわかるな。俺が連絡するかもしれないし、君からしてくれてもいい。俺としては文香さんと話すのを楽しみにしている。そう覚えていておいてくれ」
そう言って私よりも先にこの屋敷のリビングから出て行ってしまった。
お詫びで、経営の勉強ができて、先方は私と喋るのを楽しみにしている。
なんだか釈然としない。すごいイケメンだとは思うし、どういう人なんだろうという謎を感じる。
私は連れの千尋君を待たせていることを思い出し、慌てて部屋から出て行った
翌日の夜。
「えっ、ジュエリーブラッドの社長に誘われたの?」
夜の9時。私は自分の部屋で莉子に電話している。
昨日のひめか嬢との商談、そして桐生社長のことを打ち明けた。
「そうなの。お詫びするって言ってる」
莉子はへえ、と興味深そうに呟いた。
「そんな大手の社長とお近づきになれるんでしょ、いいじゃない会えば」
莉子だったらそうするだろうな、と私は思った。男性とデートするのも私の様に屈託がないのでフットワークが軽い。
それに、単に男性と会うのに気後れしているだけではないのだ。
「ただの食事会で終わればいいけど。いきなりその場で『この人と結婚することになってます』なんて言う人よ。なんかとんでもない事言い出しそうで、怖いっていうのが本音よ」
「確かに。初対面の相手にいきなり、だもんね。文香が引く気もわかるわ」
そうでしょ、と持っていたマグカップのコーヒーを啜った。
「でも、単にお詫びしたい、っていう気持ちからなんだからそんなに警戒しなくてもいんじゃない、とも思うわ。っていうか、私だったらやっぱり好奇心が勝つかな。大手宝石店社長とお話なんてなかなかできないじゃない。私が文香だったらやっぱり行くわ」
私が警戒しすぎか。それもあるだろう。
「うーん…じゃあ、社長と会うとして、どんな恰好したらいいの?私、男性と二人きりで食事したこと、父以外にいないもの」
そうね、と莉子はちょっと考えてくれた。
「一緒に買い物に行った時、ラベンダー色のワンピースを買ったじゃない?試着して可愛かったの覚えてる。あれにしたら」



