ナンパ男が自分の手首をさすりながら叫ぶ。
「もっとやられたいのか?この場合はさっさと逃げ出すのが得策だ」
 ナンパ男はちっと盛大な舌打ちをしてその場を去っていった。
 遠ざかる足音に私はやっと息をついた。そして慌てて隣にいたスーツの男性に向き直った。
「すみません。ありがとうございました。助かりました」
 スーツの男性の顔が街灯のあかりで見えた。御礼の言葉を言いながら心の中では息を飲んでいた。男性の美貌はそれくらいすさまじかった。整った眉毛、ボリュームのある睫毛、黒目勝ちな瞳。鼻筋も通っていて唇は薄い。スーツも高級品に見える。
 職業はモデルです、と言われても信じただろう。
「不用心すぎる」
 御礼を言った後の返事はそれだった。てっきり恐縮したり謙遜したりするのを想像していたので面食らった。
「一人でこんなところに突っ立って。海外だったら娼婦に間違われるぞ」
 私は頬がかあっと赤くなるのを感じた。なんて失礼なことを言うんだろう。確かに夜道でぼんやりしていた私が悪かったけれど、娼婦だなんて単語を持ってくるなんて。
 デリカシーに欠けてるんじゃない?
 私は何か言い返したかった。ところが、そこにやっと父が現れた。
「釣銭がないって言われて遅くなった。…何かあったのか?」
「なんでもない。ちょっとね」
 普通だったらこの人に助けてもらったの、と言うところだが、娼婦呼ばわりされて腹が立っていたので言わなかった。
 改めてスーツの男性に何か言おうと思ったが、その時にはもうどこかへ行ってしまっていた。
 真珠店はたたむことになるし、変な言いがかりはつけられるし。
 さんざんな夜だった。
 
 翌日、私は店番をしていた。
 真珠専用のクロスで、お客様から預かった真珠のネックレスの手入れをしながら。
 店はがらんとしていた。真珠店の経営を維持するために、なにかできることはないだろうか、と手を動かしながら考えた。真珠業界の景気は決して悪くはない。インバウンドの需要が増えているので、業界としては潤っているらしい。
 でも、この店とはそんなことは無関係なのが現状だ。B級グルメや安いものが好きな海外の旅行客は多いが、この商店街まで足を伸ばしてくることはほとんどない。
「何か、宣伝になるものがあるといいのよね……SNSにアップするとか」
 私が知っている限り、うちの真珠のアクセサリーは一般的なフォーマル用ばかりだ。価格も安価なものはなく、若い客層には敷居が高い。
 SNSで集客できたとして、売り上げに確実に結びつくとも思えない。
「大富豪がそのドアからやって来て、ここの真珠全部ください、とかね」
 ありえないことをつぶやいて苦笑する。今どきの小学生だってもっとましな妄想をするだろう。
 ネックレスを磨き終わると、自動ドアが開いた。
「水巻様。お待ちしていました」
 ドアから入ってきたのは、洒落たコートを羽織った老紳士だった。水巻さんと言って昔からの常連だ。この商店街で『水巻時計店』を経営している。駅前のデパートにも出店している老舗の時計店だ。父はバブルの時、祖父に水巻時計店で高級腕時計を買ってもらったと言っていた。
「お預かりいただいていたネックレスです。こちらになります」
 カウンターの内側から私は言った。専用のケースにネックレスを置き、水巻さんの方に差し出した。
「おお、綺麗になっとる。いつも悪いね、文香ちゃん」
 私が磨いたネックレスは水巻さんの亡くなった奥様のものだ。常連さんなのであずかって磨いてお渡しするのが習慣になっている。
 水巻さんはとてもセンスがよく、もう七十代後半だろうと思うが、スタイリッシュな恰好で若々しく見える。
「水巻さん、お元気そうでよかったです。最近、風邪が流行っているそうなので」
 母の入院している病院の看護師さんがそう言っていたのだ。
「おお。元気なもんだよ。大富豪じゃあないが、健康だけは自信がある」
 私は、ぱっと顔を赤らめた。さっきの独り言をどうやら聞かれていたらしい。
「大富豪が来るより、水巻さんがいらっしゃる方が嬉しいですよ」
 笑って言ったが本音でもあった。水巻さんのような常連さん達でこの店は維持できていたわけだから。でも店をたたんだらもう水巻さんにも逢えないのだ、と思うと途端に切ない気持ちになった。
「どうした、文香ちゃん。気が沈んでるようじゃないか」
 私の表情が暗くなったのを水巻さんは見逃さなかった。私のことを子供のころから知っているだけのことはある。
「その、もう少しお店を盛り上げたいなあ、と思ってるんですけど。なかなかいいアイデアが浮かばなくて」
 さすがに店をたたむことになった、とは言えない。きっと頃合いを見て父が伝えるだろう。私がでしゃばってはいけないのだ。
「ふーん。盛り上げられるかどうかはわからんが…文香ちゃん、財閥令嬢に興味はないかい」
「財閥令嬢?」
 思いがけないワードが出てきて、私はどう反応していいかわからなかった。
「そう言葉通り財閥のご令嬢だ。雨宮グループを知っているだろう」
 雨宮グループと言えば、銀行に商社に保険会社など、多角経営している名の知れた企業グループだ。
「ものすごい大手ですよね。その雨宮グループが何か?」
「うん。そこの一人娘が贅沢好きでね。デパートの外商には飽きた、と言っている」
 雨宮グループならお抱えのデパートの外商が複数いそうだ。でもそれにも飽きるなんて、常人の感覚じゃないな、と思う。
「外商には飽きたから、小売店の経営者に気の利いたものを持ってこい、と言ってきかないそうだ。それでうちも呼ばれてね」
「水巻さんのところは高級腕時計ですもの。当然ですよ」
 私が頷くと、水巻さんは笑いだした。
「そう言ってくれるのは文香ちゃんだからだよ。そのお嬢さんからは期待外れだったと手厳しく言われてね。退散することになったわけだが、別れ際に『おじさんのとこ老舗なんでしょ、いい店知ってたら紹介してよ』と言ってきた」
 ううむ、さすがわがままお嬢様、ケチをつけてさらに要求するのか。ある意味、すごい。
 水巻さんが私の目を見た。
「そこで、なんだが。この真珠店を売り込んでみたらどうだい?」
「えっ」
 思いがけない提案に声をあげてしまった。
「俺からの紹介ということで雨宮の令嬢と会ってみたらいい。イチかバチかの博打だが、文香ちゃんと歳も近いしな。ひょっとしたら話がうまく運ぶこともあるかもしれん」
 そんなことあるだろうか、と心配する私に水巻さんは続けた。
「お嬢さんは年頃ということもあって随分たくさんの結婚式に出席するような事を言ってたぞ。真珠アクセサリーが必要な時もあるんじゃないか?」
「あ…そう、ですね」
 はっとさせられた。確かにシックに装いたい時など真珠アクセサリーはいい仕事をする。派手な宝石に飽きて真珠に魅了されている常連さんもいるのでよくわかる。
「しかも、だ。そのお嬢さんがこの真珠店を気に入って親族に宣伝したら…さぞ太いパイプになるだろうな」
 目を見張った。雨宮グループのお嬢さんのご親戚達がうちの真珠を身に着けるようになったらどうだろう。年令を重ねるごとに結婚式だけじゃなく葬儀にも真珠アクセサリーは必要になってくる。確かに、そのパイプは太い。
「でも、皆さん御用達の真珠店があるでしょうし……」
 つい夢を見てしまいそうになり、ブレーキを踏む。そう簡単に太いパイプができるくらいなら皆、苦労しない。
 水巻さんは、笑った。
「当たり前だよ。だからイチかバチかって言ったろう?でも、きっかけなんてどこに転がっているかわからないんだ。どうだ文香ちゃん、一発賭けをするつもりで雨宮の令嬢に真珠のアクセサリーをすすめてみたらどうだ?」
私はごくりと息をのみ、手に力を入れた。

「お母さん。入るよ」
 私は買ってきた花を抱えて、母の病室に入った。個室なので、気楽に見舞えて助かっている。母はベッドに起き上がり、本を読んでいるところだった。
「あら。ガーベラ。可愛いわね」
 母のほっこりした笑顔を見て、私は安堵した。
 先週買った花がしおれかかっていたので、今日のガーベラと入れ替える。
「調子はどう?」
 私は母のベッドの横にある椅子に座った。
「まあまあよ。早く退院したいわ。からだがなまっちゃう」
 快活に言うので、母と会うと病人であることを忘れそうになる。
「気持ちはわかるけど、焦らないでね。お茶飲む?」
 母が嬉しそうにもらおうかな、と言うので紅茶をいれてあげた。
「あーワイルドストロベリー柄のティーカップが懐かしいわ」
 プラスチックのマグカップで飲む紅茶は味気ないのだろう。母は基本的に豪華なものが好きだ。父との縁談が持ちあがったとき、真珠専門店の息子だと知って心が踊ったのだと聞いている。もちろん結婚の決め手は父との相性だったそうだが。とにかく母は、サラリーマン生活で家計簿をつけるような主婦ではなく、ばりばり商店で稼ぐ、ということを念頭に置いて嫁いできたらしい。
 祖父は厳しい人だったので、母は真珠店の店先でさんざん怒鳴られたそうだ。接客術を徹底的に教え込まれた。今だったらパワハラものだったろうが、母は屈することなく店に立ち続け私が小学生の頃は、立派に河原真珠店の女店主となっていた。
 私が店に立っていると、未だに「お母さんどうしてる?」と聞かれることが少なくない。
 それだけ常連さんたちと母の絆は強い。きっと私の気づかないところで、母の恩恵を受けていると思う。
「ねえ、聞いたんでしょ。お店をたたむ話」
 母が私の目を見て言った。
「うん……ちょっとショックだった」