私は社長が好き……拒む理由は何一つ、ない。
私は気づけばこくん、と頷いていた。
「文香」
初めて呼び捨てにされた、と思った次の瞬間、社長は私のあごをもちあげてキスをした。唇が触れ合うだけの優しいキス。それなのに身体はびりびりとしびれ、恍惚となる。
社長は何度か顔の角度を変えて私の唇を食んだ。私はそれを感じるのに精一杯で足に力が入らなくなっていく。自然と社長に身体をあずけるようになってしまった。
身体が密着すると、社長の舌が私の唇を割って入って来た。舌と舌が触れ合うとびくん、と身体が跳ねた。ゆっくり社長の舌が私の舌をからめとる。応えることしかできないが、私の腰の辺りも熱くなっていて初めての経験だった。
ずいぶん時間が経ったようにも思えたし、一瞬のできごとのようにも思えた。
社長は唇を離し、私を抱きしめた。
ぎゅう、と腕に力が入れらえると、社長の胸に耳を当てる形になる。社長の鼓動がドキドキ言っているのがわかる。
私の胸もきっとこれ以上にドキドキいっている。
「もう少しこうしていたいけど……スタジオを借りている時間が9時までなんだ。もう一曲踊って最後にしよう」
私ははい、とかすれた声で返事した。キスと抱擁の甘い余韻が残っていて、ぼうっとしてしまう。
やがて社長がステレオを操作してくれて音楽が始まった。私は気持ちを落ち着かせながら社長のリードに身を任せる。
何だろう。ふわ、っと抱きかかえられる時、身体を密着させる時、今まで感じていたようなささやかな違和感が感じられない。
ステップを踏んでも、大きく身体を揺らされても、安心して社長のリードに包まれて優しい気持ちで次のダンスの展開に移っていく。
これが一体感というものだろうか。
これまでも楽しく踊っていたのに、キスした後となった今は、よりなめらかに迷いなく踊れているような気がする。
音楽が終わり最後のポーズを決めた。
社長は私を見て言った。
「とても楽しかった。こうやってまた文香と踊りたい」
私は頬が紅潮しているのが恥ずかしくて目を伏せた。
「はい……私も……」
「今日は踊っていてひとつになれた気がしたよ。次回もこんな感じでいこう」
私は「はい」と返事をしたけれど、胸の内がざわっとした。ダンスがなめらかになるように私にキスをしたの?
社長の心を独り占めできたんじゃないの?
誰にでも優しい社長。私にだけキスしてくれた、と思うのは楽観的すぎるかもしれない。
12月に入り、河原真珠店もいつもより少し忙しくなった。それでもジュエリーブラッドとは比べ物にならないだろう。向こうはクリスマスプレゼントを買うカップル達で毎日賑わいを見せているという。河原真珠店からジュエリーブラッドに出向しているのは従弟で営業の千尋君だ。
「真珠のコーナーも立ち寄るお客様が多くて。本店では見られない客層も真珠を手に取ってくれるよ」
そんな報告をもらっていて、俄然私も頑張ろう、という気になった。12月はボーナスシーズンでもある。真珠のネックレスを新調しようかなという奥様達もうちのターゲットだ。
商店街そのものも歳末大売出しとして、普段よりも集客できている。年末らしい嬉しい忙しさだ。
ただ懸念もあった社長のスケジュール優先で社長とレッスンする日を決めようという算段だったがなかなか社長の体が空く日がない。
私はまだまだ詰めが甘い段階なので、社長が来れない週は今まで通り水、金曜日にレッスンさせてもらっていた。
佐藤さんと一緒にレッスンするのももう少しだけなので、休憩時間によくおしゃべりをした。そして高瀬さんたちも最初ほど露骨に私を村八分にしなくなってきた。
佐藤さんが高瀬さんたちに「プロポーズしたのは桐生社長からで、文香さんはもともと河原真珠店の娘さんなんですよ」と言ってくれたらしい。これまで「どこの馬の骨かもわからない女が深町先生から桐生社長を奪った」という事だったのが少しは軟化したようだ。
高瀬さんが「文香さん、このステップはこうよ」と教えてくれたりする。
と、そんな風にいい展開もあったのだが。深町先生からのダメだしはいっこうによくならなかった。それでもいいや、という境地だった私は毎晩ワルツの動画を観て自主練を繰り返していた。
レッスンに来ている年上の男性たちと練習で踊るのだが、たまに「今日はなかなかよかったよ」と言ってもらえた事もあった。
12月中旬になってきたレッスンの日、慌ただしく廊下を駆けてくる音がしてドアから社長が入ってきた。
「どうやら間に合ったかな?」
息を切らして社長が言った。今は水曜日の19時半。もうそろそろレッスンも終わり、というところだった。
「お疲れ様です。桐生さん、今日は集中的に文香さんと踊ってもらいましょう」
深町先生はそう言って初級クラスのレッスンを終了させ、生徒さん達に帰ってもらった。
私と社長と深町先生の三人きりとなる。
社長がストレッチをしていたので私もやり、いよいよ深町先生に私たちのワルツをみてもらう流れになった。
音楽が鳴り、私の手を社長が取る。その瞬間、ぶわっとあのダンスの後したキスのことを思い出してしまう。顔が赤くなったけれど、落ち着け自分、と言い聞かせた。自主練の甲斐があってか今のところノーミスで踊れている。
しかも初級レッスンで男性の生徒さんと踊るときよりもずっとなめらかに踊れる。これはあきらかに桐生さんのダンスのセンスのよさから来ていると思う。
こうしてほしい、というところでぱっと手が差し出される。ここで大きく揺らしてほしい、と思うと以心伝心したかのように、そう踊ってくれる。
そうなるともう楽しかった。私は社長のリードについていくだけ。それだけでふわふわと危なげなく踊ることができる。
社長も顔に笑顔が見える。私も恍惚としながら笑っていたと思う。
音楽とともに踊りも終わった
深町先生は頷いて私たちの前にやって来た。
「いいですね。ただ後半少しもたつきがあるので、今日はそこを集中的にやりましょうか」
微笑みながら深町先生は言った。いつも私にするようなダメだしはない。
それだけでもほっとした。
私と社長は後半で合格点をもらうべく指導を受けながら踊り続けた。
いよいよ年末も押し迫ってきた。社長はクリスマスシーズンで店舗が忙しいのと同時期に忘年会的会合に追われる日々を送っていた。それも一晩に三回それぞれの会に出席するような感じだ。社長業は人脈づくりも大事なのでこれはもう毎年のことらしい。
「文香とクリスマスを楽しみたかったな」
久しぶりに朝ごはんを一緒にとることのできた12月26日の朝、そんなことを社長が言った。
あのキスの夜以来、すれ違い生活だったのだけれど、ひとつだけ変ったのは社長が私のことを文香と呼ぶようになったこと。呼ばれるとまだ慣れてなくてどきん、とする。
「クリスマスイブ、ちょっと実家に顔を出したんです。母の病室にも。二人とも元気そうでした」
母は病院のクリスマス会に行った話をしてくれて、父は一人だけのクリスマスは寂しいと言っていたので一緒にケーキを食べて過ごした。9時頃にはマンションに帰宅していたけれど社長の帰宅には気づかなかった。きっと3時とか深夜だったはず。
「そうか。それは喜ばれただろう。明日は金曜日だな。何とかレッスンに顔を出すよ。最後の練習をしよう」
「はい」
深町先生の前で踊るレッスンをこの十二月の間に三回くらいはできた。深町先生からは「なんとか見られるようになりましたね」と言われた。及第点といったところだろうか。私も少しでもなめらかに踊れるよう帰宅後の自主練は欠かさないようにしていた。
もう一週間しない内にドイツで踊る日がやってくる。私は去年莉子と韓国旅行に行ったのでパスポートを持っていた。社長は海外へ宝石の買い付けに行くのでもちろん持っている。飛行機のチケット、そして舞踏会のチケットもジュエリーブラッドの秘書の方が取ってくれたらしい。
改めてジュエリーブラッドの社運のかかったドイツ行きなのだ、ということを痛感させられる。
社長は会食の翌日のしじみ汁はいいね、と嬉しそうに私の作ったお味噌汁を飲んで、出社して行った。
こういうなんてことのない日こそありがたみを感じる。世間ではインフルエンザや風邪が流行っているけれど、私も社長もなんとか健康を保っていた。社長は忙しいのが通常なのでうがいや手洗いを随分入念にしているとのこと。私も習ってそうして、夜はできるだけ早寝するようにしていた。
本番の日に風邪で熱、なんてことのないよう気をつけないと。
翌日の公休日。大掃除とまではいかないけれど、マンションのあちこちを掃除して回った。そして夕方、ダンススタジオにレッスンに行った。
8時になっても社長は姿を現わさなかった。レッスンがお開きになったタイミングで私はスマホをチェックしたら社長からメールが来ていた。
急な来客があって、どうしてもスタジオに来られないという事だった。それは仕方ない。
深町先生にもそう伝えた。
「そう。わかりました。文香さんは、着替えたらスタジオに戻って。少しお話があります」
なんだろう。と思いながら汗を拭いて着替える。
今日もやはりダメだしはあったけれど……ドイツ行きが近いからお説教とか?
不安に思いながらスタジオに戻ると、バーに手をかけて深町先生が私を待っていた。
「お疲れ様。もうドイツ行きの準備は進んでる?」
「は、はい。なんとか」
チケットもパスポートも揃っているので、後は荷造りくらいだ。
私は気づけばこくん、と頷いていた。
「文香」
初めて呼び捨てにされた、と思った次の瞬間、社長は私のあごをもちあげてキスをした。唇が触れ合うだけの優しいキス。それなのに身体はびりびりとしびれ、恍惚となる。
社長は何度か顔の角度を変えて私の唇を食んだ。私はそれを感じるのに精一杯で足に力が入らなくなっていく。自然と社長に身体をあずけるようになってしまった。
身体が密着すると、社長の舌が私の唇を割って入って来た。舌と舌が触れ合うとびくん、と身体が跳ねた。ゆっくり社長の舌が私の舌をからめとる。応えることしかできないが、私の腰の辺りも熱くなっていて初めての経験だった。
ずいぶん時間が経ったようにも思えたし、一瞬のできごとのようにも思えた。
社長は唇を離し、私を抱きしめた。
ぎゅう、と腕に力が入れらえると、社長の胸に耳を当てる形になる。社長の鼓動がドキドキ言っているのがわかる。
私の胸もきっとこれ以上にドキドキいっている。
「もう少しこうしていたいけど……スタジオを借りている時間が9時までなんだ。もう一曲踊って最後にしよう」
私ははい、とかすれた声で返事した。キスと抱擁の甘い余韻が残っていて、ぼうっとしてしまう。
やがて社長がステレオを操作してくれて音楽が始まった。私は気持ちを落ち着かせながら社長のリードに身を任せる。
何だろう。ふわ、っと抱きかかえられる時、身体を密着させる時、今まで感じていたようなささやかな違和感が感じられない。
ステップを踏んでも、大きく身体を揺らされても、安心して社長のリードに包まれて優しい気持ちで次のダンスの展開に移っていく。
これが一体感というものだろうか。
これまでも楽しく踊っていたのに、キスした後となった今は、よりなめらかに迷いなく踊れているような気がする。
音楽が終わり最後のポーズを決めた。
社長は私を見て言った。
「とても楽しかった。こうやってまた文香と踊りたい」
私は頬が紅潮しているのが恥ずかしくて目を伏せた。
「はい……私も……」
「今日は踊っていてひとつになれた気がしたよ。次回もこんな感じでいこう」
私は「はい」と返事をしたけれど、胸の内がざわっとした。ダンスがなめらかになるように私にキスをしたの?
社長の心を独り占めできたんじゃないの?
誰にでも優しい社長。私にだけキスしてくれた、と思うのは楽観的すぎるかもしれない。
12月に入り、河原真珠店もいつもより少し忙しくなった。それでもジュエリーブラッドとは比べ物にならないだろう。向こうはクリスマスプレゼントを買うカップル達で毎日賑わいを見せているという。河原真珠店からジュエリーブラッドに出向しているのは従弟で営業の千尋君だ。
「真珠のコーナーも立ち寄るお客様が多くて。本店では見られない客層も真珠を手に取ってくれるよ」
そんな報告をもらっていて、俄然私も頑張ろう、という気になった。12月はボーナスシーズンでもある。真珠のネックレスを新調しようかなという奥様達もうちのターゲットだ。
商店街そのものも歳末大売出しとして、普段よりも集客できている。年末らしい嬉しい忙しさだ。
ただ懸念もあった社長のスケジュール優先で社長とレッスンする日を決めようという算段だったがなかなか社長の体が空く日がない。
私はまだまだ詰めが甘い段階なので、社長が来れない週は今まで通り水、金曜日にレッスンさせてもらっていた。
佐藤さんと一緒にレッスンするのももう少しだけなので、休憩時間によくおしゃべりをした。そして高瀬さんたちも最初ほど露骨に私を村八分にしなくなってきた。
佐藤さんが高瀬さんたちに「プロポーズしたのは桐生社長からで、文香さんはもともと河原真珠店の娘さんなんですよ」と言ってくれたらしい。これまで「どこの馬の骨かもわからない女が深町先生から桐生社長を奪った」という事だったのが少しは軟化したようだ。
高瀬さんが「文香さん、このステップはこうよ」と教えてくれたりする。
と、そんな風にいい展開もあったのだが。深町先生からのダメだしはいっこうによくならなかった。それでもいいや、という境地だった私は毎晩ワルツの動画を観て自主練を繰り返していた。
レッスンに来ている年上の男性たちと練習で踊るのだが、たまに「今日はなかなかよかったよ」と言ってもらえた事もあった。
12月中旬になってきたレッスンの日、慌ただしく廊下を駆けてくる音がしてドアから社長が入ってきた。
「どうやら間に合ったかな?」
息を切らして社長が言った。今は水曜日の19時半。もうそろそろレッスンも終わり、というところだった。
「お疲れ様です。桐生さん、今日は集中的に文香さんと踊ってもらいましょう」
深町先生はそう言って初級クラスのレッスンを終了させ、生徒さん達に帰ってもらった。
私と社長と深町先生の三人きりとなる。
社長がストレッチをしていたので私もやり、いよいよ深町先生に私たちのワルツをみてもらう流れになった。
音楽が鳴り、私の手を社長が取る。その瞬間、ぶわっとあのダンスの後したキスのことを思い出してしまう。顔が赤くなったけれど、落ち着け自分、と言い聞かせた。自主練の甲斐があってか今のところノーミスで踊れている。
しかも初級レッスンで男性の生徒さんと踊るときよりもずっとなめらかに踊れる。これはあきらかに桐生さんのダンスのセンスのよさから来ていると思う。
こうしてほしい、というところでぱっと手が差し出される。ここで大きく揺らしてほしい、と思うと以心伝心したかのように、そう踊ってくれる。
そうなるともう楽しかった。私は社長のリードについていくだけ。それだけでふわふわと危なげなく踊ることができる。
社長も顔に笑顔が見える。私も恍惚としながら笑っていたと思う。
音楽とともに踊りも終わった
深町先生は頷いて私たちの前にやって来た。
「いいですね。ただ後半少しもたつきがあるので、今日はそこを集中的にやりましょうか」
微笑みながら深町先生は言った。いつも私にするようなダメだしはない。
それだけでもほっとした。
私と社長は後半で合格点をもらうべく指導を受けながら踊り続けた。
いよいよ年末も押し迫ってきた。社長はクリスマスシーズンで店舗が忙しいのと同時期に忘年会的会合に追われる日々を送っていた。それも一晩に三回それぞれの会に出席するような感じだ。社長業は人脈づくりも大事なのでこれはもう毎年のことらしい。
「文香とクリスマスを楽しみたかったな」
久しぶりに朝ごはんを一緒にとることのできた12月26日の朝、そんなことを社長が言った。
あのキスの夜以来、すれ違い生活だったのだけれど、ひとつだけ変ったのは社長が私のことを文香と呼ぶようになったこと。呼ばれるとまだ慣れてなくてどきん、とする。
「クリスマスイブ、ちょっと実家に顔を出したんです。母の病室にも。二人とも元気そうでした」
母は病院のクリスマス会に行った話をしてくれて、父は一人だけのクリスマスは寂しいと言っていたので一緒にケーキを食べて過ごした。9時頃にはマンションに帰宅していたけれど社長の帰宅には気づかなかった。きっと3時とか深夜だったはず。
「そうか。それは喜ばれただろう。明日は金曜日だな。何とかレッスンに顔を出すよ。最後の練習をしよう」
「はい」
深町先生の前で踊るレッスンをこの十二月の間に三回くらいはできた。深町先生からは「なんとか見られるようになりましたね」と言われた。及第点といったところだろうか。私も少しでもなめらかに踊れるよう帰宅後の自主練は欠かさないようにしていた。
もう一週間しない内にドイツで踊る日がやってくる。私は去年莉子と韓国旅行に行ったのでパスポートを持っていた。社長は海外へ宝石の買い付けに行くのでもちろん持っている。飛行機のチケット、そして舞踏会のチケットもジュエリーブラッドの秘書の方が取ってくれたらしい。
改めてジュエリーブラッドの社運のかかったドイツ行きなのだ、ということを痛感させられる。
社長は会食の翌日のしじみ汁はいいね、と嬉しそうに私の作ったお味噌汁を飲んで、出社して行った。
こういうなんてことのない日こそありがたみを感じる。世間ではインフルエンザや風邪が流行っているけれど、私も社長もなんとか健康を保っていた。社長は忙しいのが通常なのでうがいや手洗いを随分入念にしているとのこと。私も習ってそうして、夜はできるだけ早寝するようにしていた。
本番の日に風邪で熱、なんてことのないよう気をつけないと。
翌日の公休日。大掃除とまではいかないけれど、マンションのあちこちを掃除して回った。そして夕方、ダンススタジオにレッスンに行った。
8時になっても社長は姿を現わさなかった。レッスンがお開きになったタイミングで私はスマホをチェックしたら社長からメールが来ていた。
急な来客があって、どうしてもスタジオに来られないという事だった。それは仕方ない。
深町先生にもそう伝えた。
「そう。わかりました。文香さんは、着替えたらスタジオに戻って。少しお話があります」
なんだろう。と思いながら汗を拭いて着替える。
今日もやはりダメだしはあったけれど……ドイツ行きが近いからお説教とか?
不安に思いながらスタジオに戻ると、バーに手をかけて深町先生が私を待っていた。
「お疲れ様。もうドイツ行きの準備は進んでる?」
「は、はい。なんとか」
チケットもパスポートも揃っているので、後は荷造りくらいだ。



