真珠な令嬢はダイヤモンドな御曹司と踊る

 ソファに向かいあう形で座り、社長は水を美味しそうに飲んだ。ひといきついたのか社長は私を改めて見た。
「実は言ってなかったことがあって。俺は社交ダンスを習っているんだ」
 え?と少なからず驚いた。私の社交ダンスのイメージは高齢の人がやるというものだった。ダンスがしたいなら今はヒップホップとかジャズダンスとかいろいろあるだろうに、何故社交ダンス?
「その顔は何でまた、という顔をしているな。わかるよ、俺も最初は抵抗があった。でもわけがあって社交ダンスの、それもワルツを集中して習ってるところなんだ」
 ワルツ!それまたクラシックな。そこまで聞いて思い出した。
「私がバレエを習っているのをことさらいいね、と仰ってましたよね。それと関係があるんですか?」
 社長は微笑んだ。
「カンがいいね。その通りだ。俺はぜひ文香さんにもワルツを習ってほしいと思っている。
でも急にそう言われても驚くだけだよな」
 社長は自分の部屋に一度戻り、宝石のケースを持ってソファに座りなおした。
「この石の名前はアウイナイト。以前、文香さんのご両親との食事会の時もこの石の話をしたよな」
 社長はケースをぱかりと開けた。
 そこには目が冷めるようなブルーの宝石があった。粒は小さいが、とても美しい。サファイアの輝きともまた違う。クリアで見ていると引き込まれそうな鮮やかなブルーだ。
「すごく綺麗ですね」
 私が宝石狂いではなくても美しいとうっとりしてしまう。
「これがドイツの希少な石だってことも話したよな。我がジュエリーブラッドはこのアウイナイトの大粒を狙って、今動いているところなんだ」
 ケースの中の石が小ぶりだったので、大粒はさらにすごいインパクトがあるだろう。それこそ宝石狂いの人にはたまらなく欲しいものではないのか。
「ドイツのR社というところが、世界で一番大きいと言われるアウイナイトを所有している。なんとかうちのものにしたいんだが、R社の社長が堅物で、絶対に売ろうとしないんだ。接待をしようと金を積もうと、見向きもしない。ただその社長に弱点がひとつある」
 なんだろう、と私は前のめりに聞いた。
「ダンスだよ。それもウィンナーワルツだ。ウィーンの人間は、上手にワルツを踊る人間をひいきにするんだ。その社長もウィーン出身で例外ではない。社長の舞踏会好きは有名だ。ドイツの新年会ではよく舞踏会が開かれる。その社長もたびたび観に来られるらしい」
 ドキドキしてきた。この流れってひょっとして。
「その社長の前で俺と文香さんでワルツを踊る。R社の社長に我々に対して好感を持ってほしいんだ。もちろん付け焼刃のワルツじゃダメだ。きちんと練習をする。だから文香さんがバレエをやってると聞いていけると思った。ダンスは体幹が大事だ。すこしでも踊る姿勢が出来ている人の方がいい」
「わ、私がワルツを、ですか」
 唐突なお話だった。バレエ教室に行ってはいるものの、自分に他のダンスの才能があるかどうかなんてわからない。
 しかも私のワルツの良し悪しに宝石の取引がうまくいくかどうかもかかっているということ……思わず言葉が出なくなってしまった。
 責任重大だ。私にワルツが踊れるだろうか。
「ごめん。文香さんを困らせたいわけじゃないんだ」
 私の顔は引きつっていたに違いない。社長が眉毛をはの字にして笑った。
「絶対にワルツでR社の社長の気持ちが変るかどうかもわからないんだ。でももういろいろ手を尽くした後でね。残っているのがこの『社長が好きなワルツで釣る』作戦なんだ。
 うまくいかないかもしれない。でも、可能性が10パーセントでもあればやってみたい、そういう作戦なんだよ」
 そうか。社長の事だ。きっと最大限にいろんなことをやってみたのだろう。でも相手は手強く首を縦に振らない。
 そんな頑固な社長を篭絡させるようなダンスをしなくちゃいけないわけで。そこまで考えてはた、と気づいた。
「プロの社交ダンスのダンサーにお願いすることはできないんですか?」
 社長は首を横に振った。
「よその宝石会社がそれをやったんだ。プロのダンサーを仕込んでくるなんてワルツへの愛が足りない、と一刀両断だったそうだ。つまりそういう構えた仕込みはダメ、ということだな。社長は純粋な気持ちでワルツを愛している……そういう精神が見たいんだろう」
 ううん。精神ときたか。なるほど気難しい。
「では…私と社長がワルツを踊ることに意味があるってことですか?」
「そう。新婚の妻が夫のために一生懸命ワルツを練習しました、というストーリーがいいわけ。俺は文香さんが何事にも一生懸命なのを知ってるからきっと頑張ってくれると踏んだんだ。新生活にも慣れてきたし、今からがいいタイミングだと思うんだけど。練習は一時間半のレッスンが週に二回。どうかな、やってみない?」
 ごくりと息をのんだ。私は店先に立っているので帰宅してからのスポーツは結構な負担だ。でも休みの日にレッスンを組み込めば週二回、いけるかもしれない。
「社長と一緒にレッスンをする感じになりますか?」
 いや、と社長は目を伏せた。
「そうしたいけれど俺のスケジュールだと週一、一緒にやれればいいくらいだ。もちろんドイツに行く前にはきちんと時間を作って二人で練習できるスケジュールにする」
 私はしばらく考えた。改めて思い返すと社長と暮らすようになってお願いされることなんてなかった。あれこれと社長は親切にしてくれて感謝することばかりだ。
 河原真珠店も以前より来客数が増えてきている。社長は私にことさら言わないが、きっと手を尽くしてくれているのだろう。
 そんな社長からの特別なお願い。
 私が今、社長にやれてることといったら簡単な朝食とたまの夕食作りくらい。社長からもらっている恩恵と比べたらささやかすぎる。
 ここはちょっと無理目でも頑張るべき時なんじゃないだろうか。
「……ものすごくスジが悪かったら諦めてください。でも少しでもいけそうなら、やってみます、ワルツ。社長のお役に立ちたいです」
「ほんとに?やった!」
 がばっと社長に抱きつかれた。びっくりして口をぱくぱくさせてしまう。
「やっぱり俺が見込んだ文香さんだけある。本当にありがとう」
 ぎゅう、と腕に力がこめられる。密着する身体。わ、わ、わ、と顔がカーッと赤くなっていく。
「しゃ、社長。苦しいです......」
 社長の腕をぽんぽんと軽く叩くと、ぱっと身体を離された。
「す、すまない。嬉しくて、つい」
 いえ、あのと口をむにゃむにゃさせる。こんな時、なんて言えばいいかわからない。
 すると思い出したように社長がクスリと笑った。
「ダンスを踊る時は身体をくっつけあうよ。これから少しずつ慣らしていこうか」
「へっ、ならすって、え」
 どぎまぎしている私を社長はまた笑っている。からかわれてしまった。く、悔しい...!
「ごめんごめん。とりあえずレッスンに一緒に行こう。コーチと顔あわせして、これからのスケジュールを決めてこよう」
 明後日の私の休みの日の夕方、社長と社交ダンスのレッスンに行くことになった。
「悪い、遅くなったな。じゃあ、おやすみ」
 そういえば、とはっとして社長を呼び止めた。
「あの、さお...」
 さおりさんって社長にとってどんな方なんですか。
 そう言いたかったが途中で止めた。
「いえ、なんでもないです」
「そう?おやすみ」
 社長は寝室へ行ってしまった。
 私はさっき抱きしめられた感触がまだ身体に残っていてドキドキしていた。そして気になるさおりさんという女性。
 高鳴る心臓。ちらつく女性の陰にあたふたすること。いつも気が付けば社長のことを考えていること。
 それら全てを総合すると答えは出ていた。
 はっきりと自覚することを避けていたけれど、もうごまかせない。
 私は、社長が、桐生さんのことが好きなんだ。
 はあ、とため息をつく。胸の内に甘くとろとろとした感情が渦巻いている。本当は社長と踊るところを一瞬想像しただけで、気持ちが爆発しそうだった。
 好きな人と踊るってどんな感じだろう。
 子供の頃、映画で見たお姫様は優雅に王子様と踊っていたけれど。私にちゃんとこなせるだろうか。でも社長のお願いだ。一生懸命練習して、宝石の取引がうまくいくよう頑張らなくちゃ。
 今夜はイヤホンでチャイコフスキーの「眠れる森の美女」を聴いて眠ろう。さおりさんの事は気になるし、ダンスだって不安だ。
 でも今夜だけは甘い夢を見れるようにとろけるような旋律に身を委ねよう。
 
 翌々日。社長が車で迎えに来てくれて、私は郊外にあるビルのエレベーターに乗っていた。このビルの三階のフロアがダンススタジオで、社長は月に二回ほどワルツの練習に来ていると教えてくれた。
 改めてハードスケジュールなのにすごいな、と思う。それだけドイツのアウイナイトに賭けているということだろう。私も頑張らなくちゃ、と背筋を伸ばす。
 ダンススタジオのドアを開けると一人の女性がこちらを見た。
 ロングストレートの黒髪に身体にぴたりとした赤のトップスを着て、くるぶし丈のチュールスカートをはいている。
 睫毛が長いアーモンドの瞳に形のいい唇。美しい人だ、と目を見張った。
「文香さん。これから俺たちに師事してくれる深町先生だ。ダンスコンテストの常時入賞者で、ダンスコーチとしても活躍されている方だよ」
 フロアの中央からすっと私たちに近寄って深町先生は言った。
「はじめまして。文香さん。桐生さんからお話は伺っています」