よくブックカフェに来るスーツの男性がいた。歳は30歳くらいだろうか。
20代後半なのかもしれないけど、スーツも靴もなんだかくたびれていて、いつもネクタイを外したラフな着こなしだった。
靴はたくさん使ったらしく、相当年季が入った革靴だ。
目つきは鋭いけど、コーヒーを飲んでいる時はいつも一瞬穏やかになるその表情は彼の素の部分を見た気がして悪くはなかった。
少しだけ世間話を一切することもなく、いつも視線は本にあって、女性に興味がある様子はない。
蘭堂さんは店員と話すことを楽しんでいたけど、この人は一人を楽しむためにブックカフェに来ているような感じだ。
コーヒーと本を味わうという印象の人だった。
不愛想で、他人には興味がないのだろうと思われる。
この人は一体何の仕事をしているのか皆目見当もつかない。
サラリーマンだとしても、自由時間が割とあるみたいだから、営業なのかなと思う。
いつも、ただ一人を楽しんでいるこの人の正体をまだ私は知らない。
よく来るから気になってはいた。多分この人の哀愁漂う感じが気になっていたのかもしれない。
珍しくその人が話しかけてきた。
「ここのケーキでどれがおすすめ?」
少し意外な気がした。
顔に似合わず甘いもの好きなんだ。
「今日のおすすめはいかがですか? 季節のフルーツの盛り合わせのシフォンケーキです。コーヒーもセットで500円です」
「じゃあそれで」
シンプルで端的な会話だった。
彼はきっと一人の時間を買うためにここにきているお客様。
スマートな考え方と冷静さを兼ね備えた大人の男性という印象だった。
なんとなくだけれど、はじめて会話ができたことが嬉しい感じがした。
彼がコーヒーを飲み始めて10分程度たったころ、予想もしない大きな揺れが私たちを襲う。
地鳴りがして、世界が揺れる感じがした。
その瞬間、地震が起きた。ぐらっと足元が揺れる。気持ちの悪い揺れ方だった。
「地震だ! 机の下に頭を隠せ」
彼は店の中で指示をする。
私と彼しかいない店内は思ったよりも揺れが大きく、1分がとても長く感じた。
本が棚から落ち、ティーカップもお皿も落ちて割れた。
地震対策をしていなかったことをひどく後悔した。
割れる音がより一層地震の大きさを現わしていた。
怖いと思う。少し時間が経ち、揺れも収まった。
ほんの数分の出来事がすごく長く感じてしまった。
「手伝うよ」
「すみません。よくご利用していただいて本当にありがとうございます。こんなことまでしてもらうのは申し訳ないって思ってます」
「俺の仕事は市民を守る仕事だから」
「ヒーローとか?」
冗談を込める。
「まぁ、そんなところだ」
少し困った顔をする。
思ったより表情豊かな人なんだなと思う。
幸い被害に遭ったティーカップは外に出ていた2セットのみで、片づけはすぐに終わった。
「最初は営業のお仕事の人かなとも思ったんですよ。昼間にスーツを着て自由時間が取れるみたいだなって。でも、靴もものすごく歩いてるんだろうなっていう感じがして営業ではない香りを感じていました」
「香りって、嗅覚が犬か猫みたいだな。革靴は履けば履くほど馴染むんだよな」
「うちのお店も来れば来るほど馴染むので、また来てくださいね」
「あぁ。また来るよ」
彼は近くで見ると、顔立ちは美しく。愛想がないと思っていたけど、声質がいいなと思えた。
それから、あまり話す機会はなかったけど、彼はよく店に足を運んでくれる常連客になった。
無口だけど、彼がコーヒーを口にする瞬間。
その場だけ空気がゆっくり流れているような穏やかな空間が出来上がっている印象だった。
「もしよかったら、フォローしてもらえませんか? 今、お店のインスタフォローキャンペーンやってるんですけど」
「いいよ」
彼はスマホを出してアプリを立ち上げフォローしてくれた。
少ししかめた顔をする。
「フォロワー2は少ないだろ」
言われると思ったつっこみ。
このお客様との会話が少し落ち着くなと思う。
彼の持つ独特の空気感は落ち着いていて、安心するなと感じていた。
実を言うと、この店の経営状況は芳しくなく、SNSなどの広告費をかけない宣伝を展開するように店長に指示されていた。
店長は年配で、SNSなどのネット環境に詳しくはなく、お店のホームページもない。
広告宣伝費はかなりかかるため、大手のチェーン店が増えたこともあり、地元の個人経営の店は経営状況はあまり良くはなかった。
そのうち、店長も歳だから店を閉めようかななんていう話も言っており、この店の独特な雰囲気がなくなるのは寂しい限りだった。
本とコーヒーの好きな常連のお客様にも申し訳ないような気がしていた。
このお店に来るお客様は年配層が多く、SNSに疎い人が多いという事実もあった。
昔から来ているお客様を大事にしている店長の考えは素敵ではあるが、今の時代の波にはついていけていないような状況でもあった。
蘭堂さんのような若手のお客様は珍しいから話が弾んだのかもしれない。
「私とあなたしかまだフォロワーいないんです。できたてのアカウントなんで。これ、フォローの感謝のサービスです」
カヌレを出す。
「これ、お店の新作スイーツです。あなたが一番目にカヌレを食べるお客様です」
「一番か。悪くない響きだな。ちなみに、蘭堂さんとはどうだ?」
この人は蘭堂さんとのこと知ってるのだろうか。
少し沈黙の時間がその場を包んだ。
「実は俺はこういうものでね」
そう言うと、胸から警察手帳を出す。
少し驚き固まってしまう。
「俺の名前は一条。調べることは、仕事なんでね」
市民を守る仕事、納得だ。
靴のくたびれ方も納得だ。
昼間の仕事をしているであろう時間帯にブックカフェに来る理由。
ようやく合点がいく。
しかし、刑事さんが調べていることというのが少し気になる。
「まぁ、ぼちぼちですね。ちょっと彼は性格に難があっていいときと悪いときがあるというか」
「大丈夫か? あんまり無理して働くなよ。この店がなくなったら俺が困るから。これ、よかったら俺の出身地のマスコットキャラクターのキーホルダーのお守り。限定生産で希少な物だから」
それは、金属でできた少し大きめなキーホルダーだった。
マスコットキャラクターはあまり見たことのない珍しいものだった。
「そんな、希少な物いただけませんよ」
「俺、地元の友達からいっぱいもらって、同僚に配ったりしてるんだよ。たくさんあっても使い道ないしな」
一条さんは無表情でキーホルダーを差し出した。
そして、何かを察したように、働きすぎると良くないというようなことを言う。
実際彼は付き合うと豹変するような時があり、暴力をふるうような時もあった。
徐々にひどくなっているということも自覚している。
この時の私は少しばかり自分が我慢すれば世界はうまく回ると信じていた。
彼は仕事をせず一人で私の家にいることが多く、このままの関係は不安だった。
ただ耐える。彼の顔色を伺う生活に疲れていた。
恋愛とは皮肉なもので、手に入ると形が変わることもある。
蘭堂さんにとって恋愛は支配することだったのかもしれない。
気づくと仕事をしている時だけが安息の時間となっていた。
そして、常連客である刑事、一条との注文時、会計時の会話がなんだか落ち着く感じがしていた。
コーヒーを飲む10分間、地震の時間、片づけの時間。
インスタでのつながり。少しばかり彼との距離が縮まった一日だった。
20代後半なのかもしれないけど、スーツも靴もなんだかくたびれていて、いつもネクタイを外したラフな着こなしだった。
靴はたくさん使ったらしく、相当年季が入った革靴だ。
目つきは鋭いけど、コーヒーを飲んでいる時はいつも一瞬穏やかになるその表情は彼の素の部分を見た気がして悪くはなかった。
少しだけ世間話を一切することもなく、いつも視線は本にあって、女性に興味がある様子はない。
蘭堂さんは店員と話すことを楽しんでいたけど、この人は一人を楽しむためにブックカフェに来ているような感じだ。
コーヒーと本を味わうという印象の人だった。
不愛想で、他人には興味がないのだろうと思われる。
この人は一体何の仕事をしているのか皆目見当もつかない。
サラリーマンだとしても、自由時間が割とあるみたいだから、営業なのかなと思う。
いつも、ただ一人を楽しんでいるこの人の正体をまだ私は知らない。
よく来るから気になってはいた。多分この人の哀愁漂う感じが気になっていたのかもしれない。
珍しくその人が話しかけてきた。
「ここのケーキでどれがおすすめ?」
少し意外な気がした。
顔に似合わず甘いもの好きなんだ。
「今日のおすすめはいかがですか? 季節のフルーツの盛り合わせのシフォンケーキです。コーヒーもセットで500円です」
「じゃあそれで」
シンプルで端的な会話だった。
彼はきっと一人の時間を買うためにここにきているお客様。
スマートな考え方と冷静さを兼ね備えた大人の男性という印象だった。
なんとなくだけれど、はじめて会話ができたことが嬉しい感じがした。
彼がコーヒーを飲み始めて10分程度たったころ、予想もしない大きな揺れが私たちを襲う。
地鳴りがして、世界が揺れる感じがした。
その瞬間、地震が起きた。ぐらっと足元が揺れる。気持ちの悪い揺れ方だった。
「地震だ! 机の下に頭を隠せ」
彼は店の中で指示をする。
私と彼しかいない店内は思ったよりも揺れが大きく、1分がとても長く感じた。
本が棚から落ち、ティーカップもお皿も落ちて割れた。
地震対策をしていなかったことをひどく後悔した。
割れる音がより一層地震の大きさを現わしていた。
怖いと思う。少し時間が経ち、揺れも収まった。
ほんの数分の出来事がすごく長く感じてしまった。
「手伝うよ」
「すみません。よくご利用していただいて本当にありがとうございます。こんなことまでしてもらうのは申し訳ないって思ってます」
「俺の仕事は市民を守る仕事だから」
「ヒーローとか?」
冗談を込める。
「まぁ、そんなところだ」
少し困った顔をする。
思ったより表情豊かな人なんだなと思う。
幸い被害に遭ったティーカップは外に出ていた2セットのみで、片づけはすぐに終わった。
「最初は営業のお仕事の人かなとも思ったんですよ。昼間にスーツを着て自由時間が取れるみたいだなって。でも、靴もものすごく歩いてるんだろうなっていう感じがして営業ではない香りを感じていました」
「香りって、嗅覚が犬か猫みたいだな。革靴は履けば履くほど馴染むんだよな」
「うちのお店も来れば来るほど馴染むので、また来てくださいね」
「あぁ。また来るよ」
彼は近くで見ると、顔立ちは美しく。愛想がないと思っていたけど、声質がいいなと思えた。
それから、あまり話す機会はなかったけど、彼はよく店に足を運んでくれる常連客になった。
無口だけど、彼がコーヒーを口にする瞬間。
その場だけ空気がゆっくり流れているような穏やかな空間が出来上がっている印象だった。
「もしよかったら、フォローしてもらえませんか? 今、お店のインスタフォローキャンペーンやってるんですけど」
「いいよ」
彼はスマホを出してアプリを立ち上げフォローしてくれた。
少ししかめた顔をする。
「フォロワー2は少ないだろ」
言われると思ったつっこみ。
このお客様との会話が少し落ち着くなと思う。
彼の持つ独特の空気感は落ち着いていて、安心するなと感じていた。
実を言うと、この店の経営状況は芳しくなく、SNSなどの広告費をかけない宣伝を展開するように店長に指示されていた。
店長は年配で、SNSなどのネット環境に詳しくはなく、お店のホームページもない。
広告宣伝費はかなりかかるため、大手のチェーン店が増えたこともあり、地元の個人経営の店は経営状況はあまり良くはなかった。
そのうち、店長も歳だから店を閉めようかななんていう話も言っており、この店の独特な雰囲気がなくなるのは寂しい限りだった。
本とコーヒーの好きな常連のお客様にも申し訳ないような気がしていた。
このお店に来るお客様は年配層が多く、SNSに疎い人が多いという事実もあった。
昔から来ているお客様を大事にしている店長の考えは素敵ではあるが、今の時代の波にはついていけていないような状況でもあった。
蘭堂さんのような若手のお客様は珍しいから話が弾んだのかもしれない。
「私とあなたしかまだフォロワーいないんです。できたてのアカウントなんで。これ、フォローの感謝のサービスです」
カヌレを出す。
「これ、お店の新作スイーツです。あなたが一番目にカヌレを食べるお客様です」
「一番か。悪くない響きだな。ちなみに、蘭堂さんとはどうだ?」
この人は蘭堂さんとのこと知ってるのだろうか。
少し沈黙の時間がその場を包んだ。
「実は俺はこういうものでね」
そう言うと、胸から警察手帳を出す。
少し驚き固まってしまう。
「俺の名前は一条。調べることは、仕事なんでね」
市民を守る仕事、納得だ。
靴のくたびれ方も納得だ。
昼間の仕事をしているであろう時間帯にブックカフェに来る理由。
ようやく合点がいく。
しかし、刑事さんが調べていることというのが少し気になる。
「まぁ、ぼちぼちですね。ちょっと彼は性格に難があっていいときと悪いときがあるというか」
「大丈夫か? あんまり無理して働くなよ。この店がなくなったら俺が困るから。これ、よかったら俺の出身地のマスコットキャラクターのキーホルダーのお守り。限定生産で希少な物だから」
それは、金属でできた少し大きめなキーホルダーだった。
マスコットキャラクターはあまり見たことのない珍しいものだった。
「そんな、希少な物いただけませんよ」
「俺、地元の友達からいっぱいもらって、同僚に配ったりしてるんだよ。たくさんあっても使い道ないしな」
一条さんは無表情でキーホルダーを差し出した。
そして、何かを察したように、働きすぎると良くないというようなことを言う。
実際彼は付き合うと豹変するような時があり、暴力をふるうような時もあった。
徐々にひどくなっているということも自覚している。
この時の私は少しばかり自分が我慢すれば世界はうまく回ると信じていた。
彼は仕事をせず一人で私の家にいることが多く、このままの関係は不安だった。
ただ耐える。彼の顔色を伺う生活に疲れていた。
恋愛とは皮肉なもので、手に入ると形が変わることもある。
蘭堂さんにとって恋愛は支配することだったのかもしれない。
気づくと仕事をしている時だけが安息の時間となっていた。
そして、常連客である刑事、一条との注文時、会計時の会話がなんだか落ち着く感じがしていた。
コーヒーを飲む10分間、地震の時間、片づけの時間。
インスタでのつながり。少しばかり彼との距離が縮まった一日だった。



