さくらびと。【長編ver.完結】

 

 冬の訪れと共に、空はどんよりと曇り、冷たい雨が街を濡らす。ため息も白くなり、そとの温度が冷えているのがわかる。



蕾は、鏡に映る自分の姿を見て、ため息をついた。有澤先生との関係がぎこちなくなってから、暫くたった。



失恋したような痛みが、まだ胸に残っている。



蕾は、気分転換にと、ばっさりと髪をショートボブにした。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ幼く、そしてどこか吹っ切れたような表情をしていた。




*****





蕾は1階の外来が終わった時間帯に、ひとり外来の診察場に資料をとりに来ていた。



「ふーん、髪切ったんだ。いいね、それ」



 そんな蕾の姿を、偶然、診察室のドアの前で目にした有澤先生が、不意に声をかけた。



その声には、いつもの冷たさではなく、かすかな驚きと、そしていつもの優しい眼差しが混じっていた。



蕾は、思わず心臓が跳ね上がってすぐさま振り返る。



 「先生っ…」




 久しぶりの、そして少しだけ嬉しい、有澤先生からの言葉。




安堵した蕾は、感情を押さえられず、思わず有澤先生の袖の白衣をぎゅっと掴んでしまった。




 「先生、誰かに見られたら...!」



 慌てて小声で話しかけ、手を離そうとする蕾に、有澤先生は優しく微笑みかけた。




「あっ、ごめんなさいっ。腕、掴んじゃって……」




有澤先生もすぐさま周りを見ながら「…大丈夫。皆出払ってる。」と小声で返した。



誰もいないことを確認すると、彼は蕾の顔を暫くじっと見つめて覗き込み、甘く囁いた。




 「可愛い」




 その一言に、蕾の顔は真っ赤になった。



有澤先生にそんなことを言われるなんて、夢にも思っていなかった。


このまま時間さえ止まってしまえばいいのに。振り出した雨が窓を叩く音も、もはや彼女には心地よく響いた。



 「さ、早くナースステーションに戻ったほうがいい」


「はい...」




 有澤はそう言って、蕾の背中を軽く押した。




その仕草には、以前のような親密さを求めるような、かすかな熱が帯びていた。



足早に去っていった蕾を、有澤先生は愛おしそうに見つめていた。




蕾は、自分だけに見せる有澤先生の仕草に戸惑いながらも、自分に惹かれているような素振りを見せる言動に、心をときめかせていた。




最近まで辛かったことが嘘のように、
久しぶりの先生との相瀬にほっと胸を撫で下ろした。





有澤先生は、亡くなった奥様をまだ想っているのだろうか。それとも、自分という存在を、意識し始めているのだろうか。


今の蕾にとってはそれを考える余地のない幸せな一時であつた。