さくらびと。【長編ver.完結】

 
 
あれから、蕾と有澤先生の関係は、どこかぎこちないものになっていた。


あの言葉の真意が、蕾にはまだ掴みきれていない。



期待していいのか、それとも、ただの私の思い過ごしなのか。
 

 「有澤先生、おはようございます」

 
 ナースステーションで有澤先生に声をかけるが、先生はいつもより少しそっけない。



 「あぁ……、桜井さん。今日の回診、よろしく」


 
 その声は、いつもと変わらないはずなのに、蕾には氷のように冷たく聞こえた。


有澤先生も、蕾の心情を推し量っているのか、それとも、あの言葉の後に、



自分自身も戸惑っているのか、蕾には分からなかった。



ただ、以前のように、桜の木の下で穏やかに話すことはなくなり、



二人の間には、透明な壁ができてしまったような気がした。




「...桜井さん、ちょっといいかしら?」


 
 そんなある日、松村師長に呼び出された。



空き個室に通されると、師長は真剣な表情で蕾に向き合った。
 


 「桜井さん、最近、有澤先生との距離が近いように見えるけれど...何か、あるのかしら?」



 
 師長の突然の問いに、蕾は動揺を隠せなかった。



「(うそ…、……))




まさか、あの有澤先生の言葉の件だろうか。


 
 「え、いえ、そんなことは...」


 
 「嘘をついても無駄よ。あなたの様子を見れば分かるわ。有澤先生が赴任されてから、あなたは明らかに変わった。中庭で、二人で話しているところも何度か見かけたわよ」



 
 師長の鋭い指摘に、蕾は顔を赤らめるしかなかった。


確かに、有澤先生に惹かれているのは事実だ。



しかし、それが師長にまで気づかれるほど、あからさまだったとは。

 
 「師長...」


 
 「あなたには、過去があったわね。猪尾さんのこと...だから、私は今まで、あなたのことを何も言わなかった。でも、有澤先生と、そんな関係になってしまうのは、医療者として、許されることではないわよ。」



「あなたの仕事ぶりは評価しているわ。だからこそ、言っておくけれど、有澤先生とは適切な距離を保ちなさい。」



「もし、このまま有澤先生と個人的な関係を深めるようなことがあれば、私も守ってはあげられない。今後、あなたのキャリアにも関わってくるかもしれないのよ。」



「それは…っ!!分かってます。」


 
 師長は、蕾の過去の出来事に触れながら、諭すように続けた。



「桜井さん、あなたはまだ若い。今は、仕事に集中すべき時期よ。有澤先生は、あなたにとって、まだ遠い存在だということを忘れないで。」



蕾の胸に、重い鉛が沈んでいくような感覚がした。



 
 「有澤先生関連の仕事には、暫く外れてもらうわ。それが、あなたのためでもある。いいわね?」


 
 松村師長の言葉は、蕾の心を締め付けた。



有澤先生との関係を、これ以上深めることは許されない。



冬の冷たい風が、窓ガラスを叩く音が、まるで蕾の心の叫びのように響いた。



有澤先生との距離は、さらに遠ざかっていくのだろうか。



蕾は、師長から突きつけられた現実に、ただただ立ち尽くすしかなかった。



冬空の下、彼女の心は、一層冷え込んでいくのを感じていた。



 「…はい。すみません…」

 
 絞り出すような声で答えるのが精一杯だった。



松村師長は、溜息をつき、蕾の肩に手を置いた。


「あなたを、見守っているわ。だから、今は仕事に集中しなさい」


という言葉が、かろうじて蕾の耳に届いた。


しかし、その言葉が、今の蕾の心に、どれほど響いたかは、定かではなかった。



部屋を出た後、蕾は廊下で有澤先生とすれ違った。




「……っ」



しかし、師長の言葉が頭から離れず、いつものように声をかけることができなかった。



「桜井さん?」



有澤先生は、蕾の様子がおかしいことに気づいたようだったが、蕾はただ俯いて、早足でその場を通り過ぎた。



有澤先生は、困惑した表情で、蕾の後ろ姿を見送っていた。



二人の間には、突然、目に見えない壁ができあがってしまったかのようだった。



蕾は、このままずっと有澤先生にそっけなくされてしまうのではないか、という不安で胸がいっぱいになった。



有澤先生もまた、蕾の突然の態度に戸惑い、二人の関係がどうなってしまうのか、先行きが見えない状況に、不安を感じ始めていた。



病院の静かな廊下で、二人の心は、突然の距離感に戸惑い、不安を募らせていた。