ハイヒールの魔法

 その時だった。こちらに近づいてくる足音が耳に届き、視線だけ上げる。すると月明かりの元、地面に伸びる影が目に入る。

「これ、こっちに飛んできましたが」

 声をした方を見上げると、Tシャツにデニム姿の小柄な男性が立っていた。大学生くらいだろうか。こんな時間だったが、酔っているような空気は感じない。

 人差し指の先で、瀬名が投げたパンプスをぶらぶらと揺らしていることに気付き、慌てて頭を下げる。

「す、すみません! まさか人がいると思わず……怪我はしてないですか?」

 片足で立ち上がって、ヒールを受け取ろうとした時だった。男性は瀬名を見て、眉間に皺を寄せる。

「あれっ、お前……」

 その目は明らかに瀬名のことを知っていて、しかもあまり好意的に思っていない印象を受ける。だが男性に見覚えのない瀬名は首を傾げた。

 その途端、男性は瀬名を見下したように鼻で笑ったので、瀬名は体をビクッと震わせた。

 それは昔、瀬名のことをからかった男子生徒と同じものに思え、胸が苦しくなる。

 これ以上ここにいたら、もっと傷つく言葉を浴びせられるかもしれない。危険を察知した瀬名が顔を背けた時だった。

「イケメンのくせに女装が趣味なんだ」

 瀬名は衝撃のあまり、耳を疑った。

 イケメン? 女装? 何言ってるの、この人──最初は意味がわからず呆然としていた瀬名だったが、時間の流れとともに、言葉の意味を徐々に理解していく。

 あぁ、この人は私のことを男だって勘違いしてるんだ──男女と言われたことはあっても、男性に間違われたことはなかった。この歳になって、まさか自分が完全に男性と間違われる日が来るとは思わず、悲しくなる。

 今はきれいな男性も多いのだと自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えようとするが、今日は何かが違った。

 友人の結婚式に出て、自身の未来に悲観的になっていたからかもしれない。

 普段着ている白衣とは違い、今日はきちんと黒のフォーマルなワンピースを着て、折れてしまったけどヒールのある靴まで履いていたのに、男性と間違われたことに怒りすら覚える。

 瀬名の頭の中で何かがプチっと切れた瞬間、衝動のまま男性の頬を平手打ちをし、片足が裸足のまま走り出した。

「はっ……? えっ、ちょ、ちょっと待てよ!」

 相当驚いたのか、背後から男性の声が聞こえる。それでもお構いなしに、瀬名は走り続けた。

 とりあえず道路に出よう。タクシーを拾って早く帰るんだ──必死に走ったが、追いかけてきた男性に腕を掴まれてしまった。