遠くても、近くても ─君を想う1ヶ月間─



 ――1月5日。
 新学期を迎えた。
 朝、登校すると、二階の三年生の教室はシンと静まり返っていた。
 冷たい風が、廊下と私の心を吹き抜けていく。

 誰一人いない敦生先輩の教室。
 中に入り、彼の椅子に座って、うつ伏せになった。
 許せないはずなのに、足が勝手に動いてしまうなんて。

「……里宇、さん?」

 女性の声がしたのでガバっと起き上がる。
 前方扉のところに、繭花さんが立っていた。
 気まずくなり、後方扉の方に走って向かうと、廊下のところで彼女は私の手を止めた。

「こんなことしてるってことは、敦生くんが忘れられないんじゃないの?」
「そ……そんなことない。私たち、もう別れたし。繭花さんの話は聞けない」

 手を振りほどいて二メートルほど進むと、繭花さんは私の背中に叫んだ。

「敦生くんから聞いたの。お姉ちゃんが事故にあった日、好きな人と一緒にいたって」

 私は彼女がそのことを知っていたことに驚いて、振り向いた。

「その人は、里宇さんの好きな人、准平くんだって。……私、全然知らなかった」

 繭花さんは、俯いたまま瞳を揺らしていた。
 私は顔を傾けて答えた。

「私も最近知ったの。まさか、こんな偶然があるなんてね」

 遠くから聞こえるざわめきが、胸の奥に沁み込んだ。

「私、敦生くんから里宇さんを引き離すことしか考えてなかった。イヤホンをゴミ箱に捨てたり、マフラーを破ったのは、私」

 胸がドキッとして、彼女の方へ、自然と体が向いていた。

「どうして……」
「敦生くんが全然私のことを見てくれなかったから、悔しかったの。ごめんなさい……」

 繭花さんには繭花さんの想いがあるし、私はなにも知らないまま、准平から貰ったと思っていたマフラーを大事にしていた――バカみたいに。

 彼女はポケットから出したものを私に差し向けた。
 それは、敦生先輩と同じワイヤレスイヤホン。
 思わず見上げた。

「これは?」
「お姉ちゃんの遺品。いまから聞いてほしいものがあるから、イヤホンをしてくれないかな」

 彼女の手には、白いイヤホンがキラリと光った。

「聞いてほしいものって?」
「お願い」

 手元を見たまま突き出してきたので、素直に受け取った。
 イヤホンを装着すると、繭花さんはスマホを操作した。

『里宇。元気?』

 敦生先輩の声が流れてきたので、イヤホンを押さえたまま見上げる。
 繭花さんは「敦生くんから音声メッセージを預かったの」と言った。

『これを聞く頃は、ニューヨークにいる。向こうの大学に通うことになってたのを、隠していてごめん』

 心臓が低い音を立て、不器用に息を呑む。

『何度も言おうと思ったけど、言えなかった。これ以上悲しい想いをさせたくなかったから』

 なによそれ。自分勝手。
 大事な話って、このことだったんだ――。
 どうして今さら……。

『日本にいる間、自分の気持ちにケジメをつけるつもりだった。おまえを見ているうちに、自分も頑張らなきゃって。いつも励まされていた。4年間ニューヨークで暮らして、新しい自分に生まれ変わるつもりだよ』

 人を傷つけておいて、自分は生まれ変わるなんてひどい。

『だけど、一つだけ心残りがある。おまえに本音を伝えられなかったこと。……自信がなかった。気持ちを守り続けることが』

 え、それ……、どういうこと。

『……好きだ』

 目を大きく見開いた。

「えっ」
『でも、こんなに遠くから幸せにすることはできない。……だから、いま言ったこと、忘れてほしい』

 右手がプランと落ちた。
 胸のときめきとショックが、同時に訪れたから。

『幸せだったよ。……さよなら』

 音声は切れ、目の前が真っ白になった。
 せめてあと一度くらいは会えると思っていた。
 それがまさか、約束の最終日にお別れになってしまうなんて、予想外だった。

 ――もう、二度と会えないんだ。

 真っ青な顔で呆然と立ち尽くしていると、繭花さんは呟いた。

「本当は、出国したあとにこのメッセージを届けて欲しいって言われたの。……でも、守れなかった。敦生くんも里宇さんも、お互いのことを本気で想ってるから」

 その声と、スマホを持つ手が震えていた。

「いまならまだ間に合うの。敦生くんは空港にいる。里宇さんが想いを受け止めてあげてほしい」

 私はゴクリと息を呑んだ。
 嘘と真実が入り混じって、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
 校門の外で、遠くから聞こえてきたバイクのエンジン音が止まった。

「で、でも……。敦生先輩は私を利用したって」
「本当にそう思う?」
「えっ」
「1ヶ月間で重ねてきた想いが、すべてじゃないの?」

 その言葉が、胸にずんとのしかかる。

「敦生くん、二時間後には出国しちゃうよ? いまなら間に合うの」
「でも、私たちはもう……」

 サッと視線を落とすと、繭花さんは私の両肩を掴んで、体を揺らした。

「ばかっ!! ぐだぐだ言ってないで、さっさと行きなよ!」

 廊下中に響かせる声が、心にストンと落ちた。
 まるで、私の目を覚まさせるかのように。

「いつまで気持ちに目を逸らしてるの? いま胸を張って幸せって言える?」

 その迫力に、私は息を呑んだ。

「敦生くんが人を信じられたのは、里宇さんのおかげなんだよ」
「でも、繭花さんだって、敦生先輩のことが好きなんじゃ……」

 マラソン大会で勝負したとき、繭花さんの想いの強さを知った。
 あの時の瞳は、偽彼女の私よりも、深い感情が滲みでていたから。

「フェアで勝負して負けてるのに、食らいつく理由なんてない。好きな人に幸せになってもらうことが、私の一番の願いだから」

 繭花さんの瞳から、一粒の光がこぼれ落ちた。
 それを見た途端、准平に告白できなかったあのときの自分が蘇った。

「里宇さんなら支えてあげられる。そう思えたから、敦生くんとの約束を破ってこの録音を聞かせたの」

 私は息が荒くなり、胸が苦しくなっていく。

「だから、さっさと行って。二度と後悔しないように」

 人が信じられなくて、苦しい想いをしてきた。
 闇をまといながらも、もう一度人を信じてみようと頑張っていた彼。
 私はそんな彼に、弱い自分を支えてもらっていた。

 なのに、このままお別れでいい?
 たしかにあのときの嘘は、思い出すだけでも腹立たしい。
 だけど、それ以上に心を支え続けてくれていた。

 彼だからこそ、辛い過去から乗り越えられた。
 彼がいてくれたから、強くなれた。
 もう二度と会えないなんて……いやだよ。

「私、行かなきゃ」

 イヤホンを外し、繭花さんに向けると、彼女は首を振った。

「これは姉の気持ち。里宇さんが繋いでほしい」
「でも」

 私がこんな大切なものを受け取っていいかどうかわからない。

「時間がないの! 早く行って!」

 繭花さんは私の体を反対側に向けると、そっと背中を押した。
 振り向くと、彼女は力強い目でこくんと頷く。
 私も首を縦に振って、廊下の奥へ向かった。

「幸せになって!」

 背中から心強いエールを受け取った。
 廊下に響き渡る足音は、胸の鼓動を高ぶらせていた。

 校門を出ると、三島先輩がバイクにまたがったまま、ヘルメットを抱えていた。
 目が合うと、彼はヘルメットを投げてきたので、受け取った。

「それかぶって」
「えっ」
「空港に行くんでしょ。送ってく」

 うんと頷いて、ヘルメットを被り、後ろの座席に乗った。
 それだけでも思い出す――敦生先輩と二人で出かけたことを。

 三島先輩の優しさに、目頭がジンと熱くなった。

 私はもう自分に負けない。
 これからは、自分の口ではっきりと気持ちを伝える。
 そう、決めたんだ。

「でも、どうして三島先輩が」

 そう聞くと、彼はエンジンをかけた。
 振動で体が揺れる。

「俺さ、敦生の嘘に協力してたんだ」
「嘘って?」

 顔をひょいと傾けて、彼を見る。

「あいつ、里宇ちゃんとはもう二度と会えなくなるから、これ以上悲しませないように嫌われたいって」
「そんな……」

 なに、それ。ずるいよ。

「最初は協力してたけど、途中から正解じゃないと思ってね。いまあいつの親友としてできることがあるとしたら、里宇ちゃんを空港に連れていくことくらいだから」
「三島先輩……」
「しっかり捕まって。いまから40分間、スピード出すから」
「うん! ありがとう」

 体中にバイクの振動を浴びながら、空港を目指した。
 様変わりする景色は、通り過ぎた瞬間、過去に変わる。
 私たちは光の方へ駆け抜けていった。
 
 ――私、どうして最後まで信じてあげれなかったんだろう。
 どうして、あんなに簡単な嘘を見抜けなかったんだろう。
 マフラーを繋ぎ合わせてくれたときに、「この人は信じられる」って確信していたのに。

 スピードが上がると、冷気が頬を刺し、風の圧で涙が滲んだ。
 車の間を風のように駆け抜けた。
 彷徨っていた心が、ようやく一筋の光に向かって走り出したかのように。