――12月27日。
俺は繭花の家に行き、仏壇の綾梨に手を合わせた。
手前にある遺影は、高校に入学してから初めてのライブで成功したときのもの。
いまはその笑顔が眩しい。
「敦生くん、来てくれてありがとう。お姉ちゃんもきっと喜んでる」
繭花は、俺が持参した花を花瓶に入れ、綾梨の部屋に入ってきた。
「命日に来れなくて、ごめん」
「いいの。いつでも気軽に来てね。その方が、私も嬉しいし」
久しぶりの綾梨の部屋の香りに、ほっと胸が和む。
でも、今日で最後。
前に進むことを決めたから。
彼女は仏壇の横に花を添えて、俺の横に座った。
「俺、ニューヨークに留学する。今日は最後のお別れで来た」
俺は俯いたまま呟いた。
シンと静まり返っている部屋の中は、綾梨が耳を澄ませているかのよう。
「……なによ、留学って。聞いてない」
繭花は肩を震わせていた。
「三島にしか言ってない。もうすぐで卒業だし」
「最後のお別れって……。お姉ちゃんのことを忘れるってこと?」
幾度となく聞いた、その言葉。
繭花は、よほど綾梨の心配をしていたんだろう。
「実は俺、もうとっくにフラれてたんだ。綾梨には好きな人がいるって聞いてたし」
この話は初めて口にした。
言うつもりはなかったけど、繭花が綾梨に執着していたから。
すると、繭花は俯いたまま呟いた。
「……なんだ、知ってたんだ」
俺は衝撃的な言葉に、息が詰まった。
「繭花、まさか……」
横を見て聞き返すと、繭花はこくんと頷いた。
「全部知ってた。でも、敦生くんの笑顔を壊したくなくて、言えなかった」
「どうして……」
繭花は弱々しい目で、俺を見つめ、そっと抱きしめた。
その瞬間、指先に力がこもり、彼女の香りがふわりと漂った。
「敦生くんが好きだからだよ」
「えっ」
「お姉ちゃんを盾にして、これからも敦生くんを守ろうと思ってた。支え続けていれば、いつかは振り向いてくれると信じてたから」
いまにも消えそうな声に、胸が押しつぶされそうになった。
「繭花……、気持ちは嬉しい。でも、俺は」
「なのに、最近は里宇さんのことばかり。どうして私を選んでくれなかったの? 私、お姉ちゃん以上に幸せにする自信がある」
思い返せば、綾梨と恋人になったとき、繭花は喜んでくれたけど、瞳は寂しそうに見えた。
まさか、好意を寄せてくれていたなんて。
俺は繭花の手を解いて、立ち上がった。
「ごめん、繭花の気持ちに気づけなくて。……でも、恋愛はできない」
背中越しに言うと、車道を通る車の音が耳に入った。
繭花は立ち上がり、俺の肘を掴んだ。
「まさか、里宇さんの方がいいっていうの? たかが1ヶ月の偽彼女でしょ。それなら私の方が敦生くんを大切に……」
「最初は偽彼女だと割り切っていた」
「えっ」
「でも、同じ傷を抱えてる同士にしかわからない気持ちが重なっていくたびに惹かれていた。いまは大切に想ってる」
この問題に、なんとなく目を逸らし続けたけど、誤魔化しがきかない。
最後の日の握手の手を、二度と離したくないと思ってしまったから。
「敦生くん!」
「だけど、もう忘れる。もうすぐでニューヨークに行くし、最初からそう決めていたから」
俺は部屋の扉の方へ向かった。
だが、繭花は俺の手を取る。
「多分、それは同情だよ。一緒にいる時間が長かっただけ。恋なんかじゃない!」
「幸せだった。あいつと一緒に、過去を乗り越えていく時間が――」
俺は胸のざわめきを振り切るように手を引くと、離れた繭花の手がチェストに当たり、カタンと小さな音を立てて、写真立てが倒れた。
その中には、綾梨ともう一人、男が寄り添うように写っている。
軽く辺りを見回すと、バンドメンバーと写っている写真がずらりと並んでいた。
「こ、これは……」
写真の中の男に見覚えがある。最近見たばかりだから、間違いない。
恐らく、この人は――。
「お姉ちゃんの好きな人。バンドで知り合ったって」
「もしかして、名前は准平くん……じゃ」
イヤホンを壊したとき、里宇から渡された生徒手帳の中に、彼の写真が挟まっていた。
瞳の近くのほくろが印象的だったから、ちゃんと覚えてた。
それがまさか、こんな形で見つけてしまうなんて。
「どうして、名前を知ってるの?」
「准平くんは、里宇の好きな人だった……」
動揺していたせいか、声が震えた。
すると、繭花は口元に手を当てた。
「…………う、そ。そんな偶然、信じられない」
つまり俺たちは、最初から報われない恋をしていたってことか。
そんなことも知らずに、胸を踊らせながら待ち合わせ場所で待っていたなんて。
驚愕の事実を知った瞬間、この2年間が無意味なように思えた。
「あの日、綾梨と准平くんは同じバスに乗っていた。俺と里宇は、ただ信じて待っていただけだった。まさか、その裏で世界が壊れていくなんて――」
部屋の扉を押し開けて、部屋を出ていった。
背中には、「敦生くん!」と叫ぶ声が聞こえたけど、もう振り返る余裕もない。
「はぁっ……、はぁっ……」
心臓の鼓動が胸を締め付ける。
家の外で立ち止まると、震えたまま深呼吸をした。
残念なことに、全部繋がった。
つまり、綾梨と准平くんは同じバンドメンバーで、両想いだった。
あの日、綾梨は俺と最後のデートをするつもりはなかった。
二人が一緒にいたということは、多分そういうこと。
病院のベッドに眠る綾梨の手を握ったまま、俺は何度も声を裏返しながら名前を呼んだ。
でも、彼女は一度も目を開けなかった。
いま思えば、あれは――もう待っていなかった。
里宇も同じように、その瞬間を迎えようとしていた。
『好きだ』とメモが挟まれていたマフラーは、綾梨へのプレゼント。
そんなことも知らずに家族から受け取って、両想いだと信じて、いまこの瞬間まで大事にしている。
それなのに、俺は一人で綾梨との最後のデートに浮かれていた。
事実の影さえ、知らぬままに。
もし俺が綾梨の気持ちを射止め続けていたら、里宇が傷つくことはなかった。
それぞれ別の形で恋愛をつづけていたのに。
全部、俺のせいだ――。
上空から白い雪がちらつき始めた。
白い息が胸の奥まで静かに染み込み、世界は静かに雪に覆われていった。



