遠くても、近くても ─君を想う1ヶ月間─



 ――俺は、遊園地から帰宅し、リビングの隅に置いていたスーツケース2台、リビング中央で広げた。
 クローゼットへ行き、取り出した服を折りたたみ、詰め込んでいく。
 必要最低限の物を除いて、明日ニューヨークの自宅へ送るつもりだ。

 里宇に留学することが言えなかった。
 タイミングが悪かった……いや、それは言い訳。
 最後まで楽しい時間を過ごしたかった。
 留学の話をすれば、どんな顔をするか想像できたから。

 ――正直、もう人を傷つけたくない。

 ソファーにかけていたジャケットのポケットから、イヤホンを取り出した。
 指先に、冷たい感触が残る。
 光がキラリと反射したが、よく見たら結構傷だらけ。
 まるで、昔の自分を見ているよう。

 小さく息を吐いて、目を閉じた。

 辛い過去を精算してニューヨークで新生活を送ろうと思ったのは、半年前。
 両親から留学を進められていたこともあって、受験した。
 綾梨の影を消したかったから。

 里宇に会うまで、過去に縛られていた。
 綾梨が別れたいと言ったとき、俺が最後のデートの提案をしなければ、事故に巻き込まれずに済んだ。
 少し困ったような表情が、いまでもまぶたの裏に焼きついている。

 でもあのときは、ある悩みに縛られていた。
 それが、執着の原因に。

 それからずっと、綾梨を忘れることができなかった。
 あの日、里宇に会うまでは。

 暖房の音が揺れる室内は、まるで心の中をリセットしていくかのよう。

「綾梨……。俺、もう前を向くよ。あいつのおかげで、乗り越えられた」

 自分と同じような心の傷を覆っていた里宇。
 俺よりも強く生きているように見えた。
 だから、あいつの強さに支えられていた。

 でも、実際は過去を乗り越えるために、震えている手で自分を支えていた。

 そんな姿を見ているうちに、自分の弱さと向き合うようになっていた。
 あいつは”好きな人に先に気持ちを伝えていれば”と言ってたけど、俺も同じだったかもしれない。
 結局、あと一歩が進めなかった。
 もう一度人を信じてみようと思ったのは、きっとあいつが傍にいてくれたから。

 人を信じることが、幸せを運ぶと知った。
 このイヤホンは、幸せの象徴。

『役不足かもしれないけど、一緒に前を向く準備は出来てる。だから、一歩踏み出してみない?』

 あいつのおかげで、フィルター越しの想いを受け取った。
 こんな日が来ると思わなかった。
 2年ぶりに綾梨の声を聞いた瞬間は、もう前を向いていたんだと。

 これからは新しい自分に生まれ変わりたい。
 自分自身も、人にそう思ってもらえるように。

「日本を離れたら、新しい自分に生まれ変わる。だから……、バイバイ」

 ゴミ箱の前でイヤホンを逆さに落とすと、他のゴミに埋もれた。
 もう、過去に縛られない。
 静かに息を吐いて、荷造りに戻った。

 ――これでいい。もう二度と振り返らない。
 幸せな未来は、後ろを向いたままじゃ見えないから。

 でも、これで終わりじゃない。

 床に散らばった服の隙間からスマホを拾い、三島に電話をかけた。

「ごめん、こんな時間に」
『なに、どうした?』
「お願いがあるんだけど、ちょっといいかな。……最後、だから」

 それは、進むための大事な決意。
 最後は、里宇が幸せになれる方法を選択したい。

 間接照明の灯りが、一つだけ小さな影を作った。
 それは、まだ消えない心の残像のようだった。
 そっと目を閉じる。
 もう振り返らないと決めて――。