遠くても、近くても ─君を想う1ヶ月間─



 ――クリスマス当日。
 私は約束の場所へ向かうために家を出た。
 向かう先は、遊園地――2年前に准平と約束していた場所だ。
 天気は快晴。気持ちを後押しするかのように、追い風が背中を押していた。
 縫い目がガタガタしているマフラーだって、きっと前向きになったことを喜んでいる。

 准平と約束していたあの日と同じように、バスに揺られる。
 遊園地に到着すると、敦生先輩はエントランスの前に立っていた。
 その笑顔に、ほっと胸を撫で下ろす。

「おはよ。先に待っててくれたんだ」
「その方が、安心かと思って。約束だから」

 ほんの小さなことでも、笑顔がこぼれる。
 すると、彼の手がこちらに向けられた。

「それよりさ、手……繋がない? デートなんだし」
「えっ」
「契約ルール――体には一切触れないってやつ、俺は同意してないし」

 心が追いつかなくて、契約ルールのことなんて、すっかり忘れてた。
 私はふっと微笑んで、彼の手を取った。

「いいよ。今日だけはね」

 最後だから――なんて、絶対に言えない。
 こう答えただけでも、声が震えていたから。

 ジェットコースターに、バイキング。お化け屋敷に、メリーゴーランド。
 散々歩き回り、騒ぎ疲れてフードコートでお昼ご飯にした。

「あー、楽しかった! 先輩ったら、ジェットコースター苦手なんだね」
「べっ、べつに。おまえの反応が見たかっただけ」
「……変な意地張っちゃって」

 私はポテトをつまみ、彼を見つめる。
 毎日見てきたせいか、今日で最後なんて実感が湧かない。
 じっと見つめていると、彼と目が合った。
 胸がドキッとして、目線を落とす。

「ねぇ、どうして1ヶ月間の約束なの?」

 その理由を今日まで聞いてこなかった。
 でもいざ口にすると、別れが鮮明になってくる。
 彼はドリンクを口から離し、くすっと笑った。

「延長したくなった?」
「ちょっ! そういうことじゃなくて」
「あはは、そんなに否定しなくても」
「もう」

 むくれていると、彼は真顔に戻り、唇がわずかに震えた。
 瞳は揺れ、口を結び直し、視線をななめ下に置いた。

「えっ、えっと…………。あっ、綾梨が……」

 言葉を探すように、視線が揺れる。

「綾梨さんが?」

 聞き返すと、彼は不自然に息をごくりと呑んだ。

「……天国へ行ってから、2年経ったんだ」

 彼はかすかに息を吐いて、話を続けた。

「けじめをつけようと思って」

 そう言っていたけど、その声はどこか遠くて――。
 私の知らない理由を、必死に飲み込んでいるように見えた。

「そっか。私も頑張らなきゃ。きっと、綾梨さん、天国で見ていてくれてる」
「そうかもな」

 私たちを包んでいるざわめき声が、少し多く聞こえたような気がした。

 ――食事を終え、一通り遊び、最後に連れて行かれたのは観覧車。
 彼は街を一望できるほどの大観覧車を、目の前で眺めた。

「実は綾梨と最後の日、この観覧車で別れる予定だった。だから、今日もお別れはここでしようって決めてたんだ」

 私は彼の横顔を見つめると、その眼差しは大雪の日に約束したあのときのように、ほんのりと熱を帯びていた。
 5分ほど列に並んで、向かい合わせに座る。
 ガチャンとロックがかかる音に、一瞬体が揺れた。

「観覧車が一周したら、元の関係に戻ろう」

 彼はそう言い、窓枠に肘をついて外を眺めた。
 私は小さく首を振るだけでいっぱいいっぱいに。

「俺、ずっと弱虫だった。いろんな人と接してきたけど、結局表面的なところしか見れなくなっていた。三島の言葉さえ、素直に飲み込めなくなるくらい」

 夕日が彼の横顔を照らしている。
 私は、ただただ見つめることしかできない。

「だけど、偶然にもおまえと接点ができた。なにごとにもまっすぐぶつかっていく姿勢を見て、俺より強く生きてるんだなって羨ましく思ったよ」

 観覧車が頂上を目指す度に、息が苦しくなっていく。
 最後は大笑いして別れようって決めたはずなのに、全然そんな気にはなれない。

「でも、途中から体が震えているのに気づいて、無理してるんだなって。それが、少し自分と重なっているように思えて、見過ごせなかった」

 敦生先輩の声が震え始めた。
 私の胸にまっすぐ突き刺すくらい、気持ちが伝わってくる。

「私こそ、ずいぶん励まされたよ。誰かにマフラーを破かれたことが一番悔しかったけど、先輩が縫い直してくれたから嬉しかった……きっと、一生忘れない」

 唇を噛み締めたら、目頭が熱くなった。
 今日は泣かないって、決めてきたのに。

 山の奥へ消えていこうとしている夕日が、二人の影を遠くに伸ばした。

「1ヶ月間、すげぇ楽しかった。おまえを選んで正解。人を信じる気持ちを思い出させてくれたのは、おまえだけだったよ」

 彼は瞳をうるませたまま、ふっと微笑んだ。
 それを見て、二人の時間が残りわずかだと思い知らされる。
 どうして、最後にそんなことを言うのよ。
 ずるい……。

「私も感謝してる。敦生先輩のおかげで、現実を少しずつ受け入れられるようになった。偽彼女だったり、マラソン大会だったり。先輩ったら、准平のことをゆっくり考えさせてくれないんだもん」

 涙をこらえながら作り笑いしていると、彼はリュックサックから紺色のラッピング袋を取り出して、私に向けた。

「これは?」
「クリスマスプレゼント。気に入ってもらえるか、わからないけど」
「うそ……。私、なにも用意できなかった」
「気にしなくていいよ。最後、だし」
 
 私がプレゼントを買うかどうか迷ってるとき、一生懸命考えていてくれたんだね。
 ラッピング袋を受け取って、するりとリボンほどく。
 手を突っ込むと、出てきたのはピンクのマフラー。
 ふわふわした手触りで、彼の眼差しと同じように温かかった。

「ありがとう……」

 手の中のぬくもりが、鼻頭を赤く染めた。
 准平からもらったマフラーを外して、新しいマフラーを巻いた。
 新しい香りが、身を包み込む。

 地上まであとわずかになると、敦生先輩は手を差しだした。

「1ヶ月間、ありがとう。おまえには感謝してる」

 この手を握れば、私たちの契約は終わり。
 でも、握るしかない――約束したから。

 入退場口の照明が、窓から差し込んできた。
 シンデレラの時間は、もう終わり。
 指先から入場口の光を浴びて、重い口を開いた。

「私も、楽しかった」
「これからも元気で」

 握った手の温かさが、いままでの記憶を全部思い出させる。
 この1ヶ月間が、光に満ち溢れていたから。
 手を離したら、もう終わり。
 二度と同じ光を浴びることはない。
 家を出る前から覚悟を決めてきたのに、自分から離す勇気が出なかった。


 観覧車を降りると、空はすっかり暗くなっていた。
 私たちは向かい合わせになり、最後の瞬間をこの目に映した。

 「じゃあ、元気で」

 彼が背中を向けた瞬間、心臓がドクンと低い音を立てた。

 数々の楽しい思い出が蘇る。
 楽しかったことや、苦しかったこと。
 そして、わかり合えた最後の瞬間まで。

 足が無意識のうちに、彼の背中を追った。
 後ろにつくと、震えた指先のまま、服をぎゅっと掴む。
 冬の風が、頬をなぞった。
 マフラーのぬくもりが消えていくようで、怖い。

「元気で……だなんて、大げさだよ。卒業まで時間があるから、きっと廊下ですれ違うし」

 なに言ってるんだろ。
 今日で最後なのに、なんとも思っていないはずなのに――なんか、嫌。
 お別れなんて、心の準備ができてない。
 契約は今日までって、割り切っていたはずなのに。

 瞳を揺らしたまま俯いていると、敦生先輩は振り返った。

「……そうだね」

 薄く笑うと、私の手をほどいて、暗闇の向こうへ去って行った。
 見慣れていたはずの背中は、なぜか少し遠い人のように。
 また学校で会えるはずなのに、なぜか胸がざわつく。

 そのざわめきが、本当の意味を知るのは、もう少し先のことだった。

 静寂に包まれている遊園地は、楽しい時間を溶かしていった。
 まるで、さっきまでの出来事が、夢だったかのように。