――12月20日、デート当日。
カーテンを開けると、分厚い雲が空一面を飾っていた。
昨日から天気を気にしていた。
寒気の影響で午後は大雪になるとか。
カーテンをぎゅっと掴んで、不安な気持ちを閉ざすように勢いよく閉めた。
今日は、准平と綾梨さんの命日。
あの日と同じく、私の心の天気は荒れ模様だった。
午前11時に、敦生先輩と約束している。
バス転倒事故のあの日から、初めての”約束”。
トラウマを乗り越えるために、心を準備してきたつもりだった。
それがまさか、雪の日のバス転倒事故を連想させる、最大の難関に立ち向かう羽目になるなんて。
午前9時半すぎ。
敦生先輩にLINEを送った。
『ごめん。大雪になりそうだから、約束の場所には行けない』
返事を待った。
でも、既読にはならないし、電話にも出ない。
その沈黙が、心の奥まで冷やしていく。
大きくため息をつき、横になったままスマホニュースやSNSを眺めた。
「事故……じゃないよね」
あのときのように、事故の速報が流れないのが不幸中の幸いだ。
やがて部屋が暗くなり、スマホのバックライトの明かりだけが頼りになった。
「バカ……。どうして連絡がつかないのよ」
こんなにも、心配してるのに。
布団に潜り込んだまま、真央に電話した。
「真央、休みの日に突然ごめんね。これからバイト?」
『そうだけど……どうしたの? こんな時間に』
すぐに反応があったので、起き上がってからカーテンの手前まで行くと、窓から冷たい空気が床に漏れていた。
真央に事情を伝え、しんみりとした声で呟く。
「既読にならないけど、約束の場所で待ってるわけないよね」
事故の日に、准平と綾梨さんが同じバスに乗っていたなら、敦生先輩も雪や約束がトラウマになっている可能性がある。
もしかしたら、スマホを見る余裕すらない……とか。
まさかね。
『どうかな。私、敦生先輩のことをよく知らないから』
「だよね」
深いため息を落として俯く。
『でも、もし待ってたらどうするの?』
瞳が揺れ、カーテンを握っていた左手が滑り落ちる。
時計を見ると、17時が過ぎていた。
「そんなはずない! もう6時間以上も経ってるのに」
胸に手を当て、服をぎゅっと掴んだ。
「普通なら、1時間待って相手が来なきゃ帰るよね」
きっと、待ってない。
本命の彼女ならまだしも、一時的に契約を交わした偽彼女だし。
『トラウマを克服させようとしているなら、待ってそうじゃない? だって、信じられる人、探してたんじゃないの?』
心臓がバクバクと波打った。
いままでのことを思い返したら、待っているかもしれないと思うようになっている。
私が彼の信じられる人になっているかわからないけど、今日の約束を交わしたあの日の瞳は、私の心を繋ぎ止めていた。
それに「話したいことがある」って言ってたし。
「ちょっと電話してみる」
『うん、そうしな』
真央の電話を切り、すかさず敦生先輩に電話をかけた――やはり出ない。
留守番電話にならないから、電源は入ってるはず。
もしかして、スマホをなくしちゃったのかな。
それに、こんな時間だし……さすがに家に帰ったよね。
でも、まだ外で待ってたら。
私は、このままでいい?
ずっと、待たせっぱなしになってしまう――。
「……っ!」
クローゼットからコートを取り出し、マフラーとカバンを握りしめて、玄関に向かった。
玄関扉に触れようとすると、指先が一瞬躊躇った。
扉一枚挟んだ先が、怖い――。
目をぎゅっとつぶって、体の重みを使って扉を押し開けた。
冷たい風がビュウッと吹き込み、体を押し包む。
目を開けると、そこは銀世界。
鼻の奥がツンと痛み、あっという間に冬の香りに包まれた。
一歩足を踏み出すと、ザクッと鈍い感触が足裏に伝わる。
それでも、敦生先輩の顔を思い出しながら、一歩一歩足を進めた。
――相変わらず約束は怖い。
けれど、彼が待っている気がする。
「はぁっ、はぁっ」
気付いたときには小走りになっていた。
途中に滑って転び、起き上がってから、また走る。
白い息を吐き、暗闇の中、道をまっすぐ進んだ。
震えていることを、忘れるくらいに――。
電車を降りてから、約束の場所へ向かった。
大雪ということもあって、道端には人が少ない。
彼が見つかるのに、さほど時間はかからなかった。
「……敦生……先輩」
クリスマスツリーの前で、雪帽子を被ったままの彼に、真っ赤な鼻頭のまま呟いた。
彼は私に気づいて、手を振った。
「遅刻? おせーぞ」
陽気に笑っている姿を見た瞬間、目頭が熱くなった。
彼の方に駆け寄ると、ファーのついた黒いコートは、灰色に見えるほど雪が積み重なっている。
思わず、つぎはぎのマフラーを脱いで、彼の首に巻いた。
「どうしてスマホを見ないのよ」
気持ちが追いつかなかったせいか、声が揺れた。
「学校に忘れた」
「ばっかじゃないの! こんな大雪の日に、私が約束の場所に行くわけないじゃん。……どうして待ってるのよ」
なんで、こんな日に来てるのよ……。
バスの転倒事故がトラウマだって。
約束できないって、話したのに。
私は震えている指先を、マフラーから離して、俯いた。
シャーッと滑るような車の走行音が、鼻をすする音をかき消す。
「でも、来てくれた」
小さなつぶやきに、目を上げた。
その瞳は、私の胸の奥に熱を帯びたまま溶けていく。
「えっ」
「ごめん、さっき嘘をついた。LINEは通知で見たよ」
「じゃあ、どうして」
泣きそうな顔で詰め寄ると、彼はやさしい眼差しで、私の目をじっと見つめた。
「おまえが乗り越えられなかった壁を、俺が一緒に乗り越えてあげたかった」
その言葉だけで、あの日の私が救われた気がした。
しかし次の瞬間、彼の体がフラッと傾いた。
すかさず両手で体を支える。
近くで見ると、顔は赤く、息が荒い。
「大丈夫?!」
「あー……うん、ちょっと頭痛くて。風邪引いちゃったかな」
「救急車を呼ぼうか」
「平気。そこまでじゃない」
息が白く途切れた。
彼の額を触ると、熱があることが判明した。
長時間雪の中を待たせっぱなしにしてしまったことに、胸がチクリと痛んだ。
「風邪を引いたのは、私のせいだよね……。家まで送るね」
「ありがと」
彼の腕を自分の肩へ回し、駅の方へ向かった。
真っ白な世界に包まれたまま。
でも、不思議なことに、怖さはもう消えていた。
――彼の自宅に到着した。
扉の前で鍵を借りて、玄関を開け、部屋の中へ。
「家族は?」
室内を軽く見回し、少ない荷物に違和感がしたので聞いた。
「いま一人暮らしなんだ」
「そっか……。じゃあ、なにか適当に作るね」
彼をソファーに座らせて、水で濡らしたタオルを渡したあと、キッチンへ行って冷蔵庫を開けた。
卵やネギがあるので、おかゆを作ろう。
エプロンを巻いて、食事の支度を始めた。
完成したおかゆをリビングへ持って行った。
彼はソファーで少し息苦しそうに眠っている。
おかゆをテーブルへ置き、額のタオルを取ると、温まっていた。
冷たい水に浸そうと思って立ち上がると、ソファーから彼の手がぷらんと落ちた。
何気なく見ると、手の中に収まっていたのはワイヤレスイヤホン。
「どうして、それが……」
そのイヤホンが、小さな光を宿していた。
まるで、まだ誰かの声が生きているみたいに。
イヤホンが目に映ると、胸がズキッと傷んだ。
彼の中で、忘れられない想いと、信じたい気持ちが交錯してるような気がする。
ううん、問題はそれだけじゃない。
無意識のうちに、准平からもらったマフラーを敦生先輩の首に巻いてた。
以前なら絶対人には触らせなかったのに、あのときは温めてあげたい一心だった。
ソファーの横に置いてある自分のマフラーを掴んで、部屋を出た。
雪の残り香を、部屋に残したまま。
外気の冷たい風が、心に染み込んでいく。
でも、あの温もりを知ってしまった私は、以前の自分には戻れなくなっていた。
マフラーをぎゅっと握りしめ、唇を強く噛んだ。
自分でも気づかない間に、准平のマフラーが二番手になっていた。
もしかしたら、准平を忘れ始めているかもしれない。



