――12月17日。マラソン大会当日。
冷たい風が校庭を吹き抜け、ジャージ姿の生徒たちの髪や袖を揺らしていた。
見慣れない顔に揉まれ、三年生を見送り、スタートラインへ向かう。
少し緊張しているせいか、息が白く揺れた。
軽く足首を回していると、繭花さんが隣へついた。
また同じようなことを言われるんじゃないかと思うと、胸がドキッと跳ね、手のひらがじんわりと汗ばむ。
不安が入り交じったせいか、冷たい風が二人の間をつきぬけていった。
「私がこの勝負に勝ったら、敦生くんから離れてほしい」
繭花さんはするどい眼差しで、私を見た。
決意に満ちあふれている目。
迫力に負け、思わず息を呑んだ。
「その代わり、里宇さんが勝ったら、もうなにも言わない。……約束する」
姉のためとは言え、繭花さんの執着心は強い。
敦生くんと幼なじみだということも、重なっているだろう。
「繭花さん、もしかして敦生先輩のことが……」
気づいたら、口から溢れていた。
振り返れば、何度か視線を感じたことがあったから。
彼女は小さく息を吐き、目線を合わせた。
「そうだよ。お姉ちゃんが好きになる前から、ずっと好き。私なら、絶対に悲しませなかった」
瞳の奥の熱が、胸に跳ねた。
正直、素直に伝えられるなんて思いもしなかった。
「えっ」
「だけど、偽彼女としても選んで貰えなかった。一番近くに居たのに。……だから、この勝負、受けてくれない?」
熱意が耳の奥に貼りつくと、背筋が凍り、思わずサッと目線を落とした。
繭花さんは、お姉さんたちの恋愛を見守りつつも、密かに敦生先輩を想っていた。
お姉さんが亡くなったあとも、ずっと見守り続けてきた。
正直に言うと、彼女が敦生先輩を支えていた方がいい。
心の傷に寄り添い続けてきた期間が違う。
――でも、私にはもう一つの想いがある。
「わかった。その勝負、乗った」
作り笑顔して、うんと頷く。
彼女はホッとしたのか、こわばった表情を和らげて、軽くため息をついた。
「約束……だよ?」
「うん、約束ね」
私たちは指きりをした。
彼女の話を聞いたときは、一瞬私の役割を託そうと思った。
マラソンの手を抜けば、偽彼女はやらなくて済むし、繭花さんのためになる。
だけど、それはフェアじゃない。
大会に向けて毎日練習してきたし、敦生先輩も腕の振り方や呼吸方法など教えてくれた。
頑張ってきた分、目標は下げたくないし、最後まで走り抜きたい。
弱い自分から卒業したい。
だから、最後まで自分らしく走ることを決めた。
スタートの合図が鳴り、二年生女子は一斉に走り出す。
砂埃が舞っている校庭。
不揃いに並ぶ体に、自分の体を寄せていった。
次第に息が切れ、手足が重い。なのに、繭花さんの背中はどんどん遠くなる。
心まで焦ってしまいそうだった。
絶対に負けない――そんな強い意志が、彼女の背中に滲み出ている。
敷地外の道に出た。
ハァハァと呼吸が上がり、額に汗が滲む。
それでも彼女の背中を見つめ、他の生徒を追い抜き、距離を縮めた。
ところが、彼女は突然なにかに躓いた。
「キャッ……」
その場に倒れ込んだが、周囲の女子はただ通り過ぎるだけ。
目線だけを置いていき、ゴールを目指している。
私はすぐに駆け寄り、立ち止まった。
「大丈夫?」
太陽の日差しを浴びたまま屈んだ。
彼女は指先に力を込め、太ももを握り、フイッと目を逸らす。
「いい気味だと思ってるでしょ? 私なんか気にしないで、先に行けばいいじゃない。そしたら、今後口うるさく言われずに済むしね」
軽くおしりを払うが、立とうとした瞬間、グッと歯を食いしばって膝を抱えた。
「痛っ!」
彼女が手で押さえている箇所を見ると、膝には血が滲んでいる。
「うそ……。血が出てる。保健室行かなきゃ」
すかさず手を伸ばすと、彼女の瞳は影をかぶったまま、私の手を振り払った。
「放っておいて。こんなことで手を借りたくない」
他の人たちが横を走り抜けていく音が、焦る気持ちに拍車をかけた。
彼女は顔を背けて、拳を揺らす。
この勝負にプライドを賭けていたんだな、と思わされた瞬間だった。
私は彼女の手を引いて、自分の肩にかけ、立ち上がった。
「なっ、なにしてんのよ!」
怒鳴り声が届いたけど、肩に重みを感じたまま歩き出した。
「どうせ一人で歩けないんでしょ。だったら、大人しく肩を借りなよ」
「それが嫌だって言うの」
「意地っ張りってさ、損の塊なんだよね。私がそうだったから、間違いないよ」
ふと敦生先輩と知り合ってから、今日までのことを思い出す。
「なによ……。あんたの手を借りたら、意味ないし」
諦めたような細々しい声が届いた。
悔しい気持ちを押しつぶしているかのように。
「こんなときは、負けとかどうでもいいよ。それより、さっさと手当してもらいな」
私たちの影は、同じスピードでゴールに向かった。
多くの人に追い抜かされても、自分たちに見合うスピードで、一歩ずつ。
校庭に戻ってくると、異変に気づいた教師が駆け寄ってきた。
繭花さんの手を離して離れると、彼女の声が背中に届いた。
「どうして助けたの? あのまま行けば、あんたが勝っていたのに」
その言葉が、胸の奥に沈んでいった。
振り向くと、彼女の瞳は揺れていた。
私はふっと息を漏らす。
「こんな勝ち方をしても、私たち幸せじゃないじゃん」
「え」
「お互い同じ条件だからこそ、勝ったときに喜べるんじゃない? 勝負って、そういうことでしょ」
あのまま彼女を置いていけば私が勝っていた。
50位以内……ううん、40位以内に食い込む自信もあった。
――でも、それは自分の中の正解じゃない。
「里宇さん……」
「また今度別の形で勝負しよう。そのときは絶対に負けないからね」
逆光に照らされ、にこりと笑った。
救急箱を持った教師とすれ違ったので、二年生の集団の方に足を向かわせた。
すると、敦生先輩が私の前にやって来た。
「繭花を助けるために順位を捨てるなんて、いいところあるじゃん」
首を傾けて笑ってきたので、私は口を尖らせ、フイッと目を逸らした。
「べっ、べつに別れることを諦めたわけじゃないからね! ……これでも、一生懸命頑張ったし」
最後まで走れない悔しさはあったけど、それ以上に得たものの方が大きい。
悔いなんて、ない。
すると、敦生先輩は、目の前にスポーツドリンクを差し出した。
「俺の中では、おまえがダントツ1位だったよ」
ペットボトルは、彼の笑顔と共にキラリと光った。
優しいまなざしに、頬が赤く染まっていく。
風が頬を撫でても、その熱は冷めなかった。
私だけを見ていてくれたように思えたから――。
照れ隠しに、スポーツドリンクを受け取って蓋を開けた。
「かっ、勘違いしないでよね! 別にあんたのために走ったわけじゃないし!」
人には偉そうに言ってても、いまこの瞬間ですら意地っ張りだ。
「でも、約束は約束。24日まで、責任持って付き合えよ」
「えーっ!」
「あ〜それと、好きなものをおごる話はナシだからな」
「なにそれ〜、意地悪!」
目標には届かなかったけど、それだけがすべてじゃない。
ひとつひとつ頑張ってきたことは、大きな実になっている。
順位なんて、関係ない。
胸に残ったのは、数字じゃなく、誰かと並んで走った温度だった。
走り抜けた風は、ときに砂嵐に巻き込まれながらも、私の未来ごと押していた。



