――12月16日。マラソン大会前日。
放課後、私と敦生先輩は、ジャージ姿で校庭を一緒に走っていた。
彼の指導のおかげで、フォームがだいぶ改善されて、以前よりも早く走れるようになった。
「明日は50位以内目指すよ〜!」
校庭の端っこで、走りながら人差し指をピンと上げる。
すべてが順調で、気分も上々だった。
「ははっ、そんなに俺と別れたい?」
「女子から恨まれたくないもん」
嫌がらせに、悪い噂話。
人気者の隣はリスクばかりだった――けど、振り返れば楽しかったかも。
「残り8日間なのに?」
彼がふっと笑いながら言った言葉に、なぜか私の笑顔が消えた。
――一緒にいられるのも、残り8日……か。
胸の奥が、なぜかきゅっと締めつけられた。
最初の頃は早く終われって思ってたのに、想像以上にあっという間だった。
湿っている地面に叩きつけている二つの足音は、日に日に揃っている。
「私たちはそれぞれの思い出を、これからも大切にしていかなきゃいけないからね。1日でも早い方がいいんじゃない?」
心がざわついていたせいか、無意識のうちに境界線を引いていた。
敦生先輩のことを考える時間が増えていることを実感したから。
すると、彼は突然足を止めた。
振り返ると、彼はまっすぐに目線を合わせた。
「俺はおまえとの思い出も、ちゃんと残したいけど?」
「えっ」
「俺たちは縁があったから出会えたし、過去の傷を共有できた。……たぶん、他の人には無理だったと思う」
その言葉がまっすぐ胸の奥へ落ちていき、熱が帯びた。
どういう、意味だろう……。
追い風に髪が揺れた。
まるで、彼に引き寄せられていくみたいに。
「そっ、そんなこと言っても! 目標は変えないからね」
赤くなった顔をプイッと背けて、再び走り出した。
……私、どうしちゃったんだろう。心臓が早くなってる。
自分のために走ってるつもりなのに。
彼が立ててくれた”50位以内”という目標は、いつしか本気の目標になっていた。
頑張った先には、ステップアップしている自分が待っているような気がしたから。
だから、いきなり変なこと言われると調子狂う。
彼は再び走り、私の横についた。
「じゃあさ、おまえが40位以内に入ったら、好きなものおごってやるよ」
「本当? 男に二言はないよね?」
「あはは。それ、おまえのセリフじゃないだろ」
いつしか彼の笑顔が、より近いものになっていることに気づいた。
私たちがはぁはぁと息を切らしながら、花壇前のベンチに腰をかけた。
すると、校舎の方から三島先輩の声が飛んできた。
振り返ると、三島先輩が「二人ともおつかれさん!」と言い、二人にペットボトルを手渡す。
ペットボトルのひんやりとした感触が、心臓まで伝わる。
「ありがとう」
「里宇ちゃん、一生懸命走ってたね。敦生と別れる気満々だね」
三島先輩はあははと笑った。
私はペットボトルの蓋を開け、一口飲んで喉を潤わせた。
「そりゃぁ、そうでしょ。敦生先輩ってわがままだし、自分勝手だし、変なファンばかりつきまとって……」
文句を言っている最中、敦生先輩は私からペットボトルを取り上げて、そのジュースを飲んだ。
ペットボトルの飲み口から、彼の唇が離れる様子を見て、つい目が釘付けに。
「俺、こっちのジュースの方がいい」
「へっ……へっ?!」
私はガタガタと唇が震え、手を当てた。
……いま、間接キスだったよね。
敦生先輩はなに食わぬ顔で、もう一本のジュースをひょいと向ける。
私は震えている手で受け取り、じっと見ていると、彼はジュースに口を当てたまま私を見た。
「ん、なに? もしかして、おまえもこっちが良かった?」
飲みかけのジュースのキャップを閉め、私にひょいと傾けた。
焦ってるの、私だけ?
息を呑んだが、気持ちはごまかせない。
「ああああの……、べっ、別にいいけど」
それを受け取ったら、今度は私が間接キスを……。
そっ、そんなの無理!
三島先輩は私の異変に気づいたように、声を押し殺し、お腹を抱えて笑った。
恥ずかしいと思いながら、目線は敦生先輩の方へ。
けれど、平然とした顔でジュースを飲んでいる。
偽彼女なんて、あともう少し。8日間だけ我慢すればいいのに。
敦生先輩がジュースを飲んでる姿から目が離せなくなっていると、彼は視線を感じたのか、目がこちらへ向けられた。
「なんか、おまえの顔赤くない?」
敦生先輩は顔を傾けて聞いてきた。
私の心が大パニックになってることも知らずに。
私はサッと目線を落とした。
「へっ?! は……走ったから。いっぱい……」
「そ? ならいいけど」
彼は再びジュースを飲み、喉仏を揺らした。
この温度差に、気持ちが追いやられていく。
両手で熱い頬を隠した。
胸が早鐘のように打つ。息が上手く吸えない。
もぉぉ、意味わかんない。
不覚にも、敦生先輩が”特別”に見えてしまった自分がいた。



