遠くても、近くても ─君を想う1ヶ月間─



 ――移動教室で薄日が差し込んでいる渡り廊下を通ると、敦生先輩は壁に寄りかかっていた。
 イヤホンを耳に差し込んだまま暗い顔をして、スマホを見つめている。
 思わず吸い込まれるように隣につき、壁に背を向けた。
 以前なら、多分素通りしていた。

「敦生先輩、なんの曲聴いてるの?」

 顔を傾けて聞くと、彼はイヤホンを耳から外し、薄日を浴びたまま微笑んだ。

「いや……綾梨が亡くなった日から、なにも聴けてないんだ」

 その言葉が、私の胸の奥で砕け散り、瞳が揺れた。

「どうして?」
「辛いこと、ぜんぶ思い出しそうで……」

 廊下の奥の喧騒が、彼の声に溶けた。
 私は偽彼女契約やマフラーの件で目一杯になっていて、自分のことしか考えられなかった。
 その一方で、彼の視線は過去に取り残されたまま。
 イヤホンから聴こうとしている様子から、抜け出そうとしているのは伝わってくる。

 彼はイヤホンをポケットにしまい、諦めたように小さくため息をついた。

「じゃあ、一緒に聴こっか」

 私はブレザーのポケットをがさごそと漁り、自分のネックバンドイヤホンを出して、片耳分を彼に向けた。

「えっ」

 彼の瞳は、キャンドルの炎のように揺れている。
 多分、私が自分のイヤホンを差し出すとは思っていなかったんだろう。

「私を偽彼女に選んだのは、前を向きたかったからでしょ」

 最近、薄々と感じていた。
 彼が一歩前に足を踏み出そうとしていたことを。
 偽彼女も、きっと第一歩の一つ。

「力不足かもしれないけど、一緒に前を向く準備はできてるよ。だから、一歩踏み出してみない?」

 きっと、私の力なんて、綾梨さんの足元にも及ばないだろう。
 だけど、自分自身も、彼に負けないように立ち直らなければならない。
 あの日、二人で見た無数の星屑のように、もう一度輝きたいから。

 彼はふっとため息をつくと、スマホの画面に目線を落とした。

「そうだよな。俺は口ばっかり。なにもできていなかったかもしれない」

 片耳イヤホンを受け取ると耳に装着し、震えている指先でスマホ画面をタップ。
 ワイヤレスで繋ぎ、曲を再生した。

 流れてきたのは、どこかで聞いたことのあるようなバンドの曲。
 柔らかな風を連れてくるようなギターの音色が次の季節を連想させ、女性ボーカルの高音が、胸の奥にまっすぐ届いた。

「素敵な歌」

 他人からしたら、たったこれだけのことで2年かかってるなんて、バカバカしいと思うかもしれない。
 けれど、心の重みは経験者にしかわからないもの。

「……これ、あいつの歌声。バンドでボーカルをやってたから」

 彼は遠い眼差しで、スマホ画面を見つめた。
 当時を思い出しているかのように。

「可愛い声だね。実はね、准平もバンドをやってたんだよ」

 キーボードを弾いてる姿の写真を送ってくれたことを思い浮かべていると、彼は眉を上げた。

「へぇ〜。まぁ、ちょうどそういう年頃だもんな」
「私と准平は、小学生の頃にピアノ教室で知り合ったんだ。私は根性がなかったから、途中でやめちゃったけどね」

 息を漏らすと、彼はニカっと笑った。
 
「なんかわかるな。おまえ、がさつだし」
「それ、どういう意味よ!」

 口を尖らせ、あははと笑っている彼の肩を叩く。
 こんな時間が、最近なぜかホッとする。

 重苦しい空気が溶けて笑いが落ち着いたあと、彼の笑顔から力が消え、再びスマホを見つめた。

「この曲を聴くのは2年ぶりなんだ。聞こうかなと思ってたら、おまえにイヤホン踏み潰されたから」
「う、うそっ! ……そのタイミングで、私」

 せっかく敦生先輩が前向きになれそうだったところを……。
 しゅんと肩を落とした。

「壊れて正解だったかも。おまえがいなきゃ、いつまで経っても変われなかったし」

 彼はゆっくり目を上げて、空を見つめた。
 その瞳が、冬の空を映し出しているように見えた。

「そんなことない。私もずいぶん励ましてもらったよ」

 正直、彼がいなかったら、あのとき星空がきれいだと思えなかったかもしれない。

「じゃあ、そろそろ”約束”……しない?」

 指先がぴくっと動いたあと、小刻みに揺れた。
 約束――それは、准平がこの世を去ったあの日から封印していたもの。
 この2年間で、唯一乗り越えられなかったもの。

「だめだよ……できない。約束なんて」

 声が震えて、胸の奥から冷たい風が吹いた。
 イヤホンを外して、彼に背中を向ける。
 叶わない約束なんて、もう二度とごめんだ。

「クリスマスツリーを見るだけだから大丈夫」
「でもっ」
「それに、話したいことあるし」

 肩を震わせていると、彼は正面へ回り込んだ。
 でも、私は勇気がなくて顔を見られない。

「20日の土曜日。スケジュール空けといて」
「その日は、無理」

 その日は……准平と綾梨さんの命日だから。

「いや、その日じゃなきゃダメだ」
「でも……敦生先輩っ」
「”約束”の壁、乗り越えよう。……二人で一緒にね」

 彼は光を浴びながら、私の手を取った。
 見上げると、その顔は春の日差しのように温かい。

 胸の奥に、春の温もりのように、そっと小さな光が灯った。

 私たちは、大切な人を失った同士。
 だからこそ、傷を撫で合えるのかもしれない。