■ リリアン視点 ■
数週間後、仕事が一段落したタイミングで。
「……先日は、ありがとうございました。……お礼に」
私……リリアンはカイゼルを、アークライトで一番美しい場所への、遠乗りへ誘った。
『お礼』なんて、建前だった。あの日、カイゼルに頭を撫でられてから……カイゼルを見ると、頬がうっすらと熱を帯びるような、脈拍が速くなるような、そんな変化が生じていた。
だってずっと、誰かに頼られることはあっても、誰かの前で泣いたことなんて、なかった。
(陛下の前でなら……総監ではなく、一人の女性でいられる気が、する)
「ここが、『嘆きの湖』です」
真っ青な湖が、眼前に広がっていた。太陽の光が射し込むたび、水面は細かく輝く。
リリアンは、アッシュやギデオン、そしてカイゼルの近衛騎士たちと馬を並べて、湖の美しさに見入った。
「興味深い。火山性のシリカによる青か」
カイゼルの横顔は、日差しの中で、静かに輝いていた。
(……綺麗な、人。帝都では女性に、凄まじい人気だと聞いた……)
そう思った、瞬間だった。
「グルルルルァァァァァ!!」
地響きと共に、後方の森から、巨大な影が躍り出た。
「なっ……!?」
「総監! お下がりください!」
アッシュと自警団が、即座に、私の周囲に展開する。
それは、三つ首の、狼に似た魔獣だった。
全身が、不気味な、灰色の甲殻に覆われている。
「……嘘だろ。『グレイブ・ファング』! なぜ、こんな辺境に!」
近衛騎士の一人が、絶望的な声を上げる。
「ダメだ……姉さん、逃げて! 」
アークライト一番の剣士であるアッシュの剣が、甲殻に、甲高い音を立てて、弾かれた。
護衛たちが、次々と、倒れていく。
(私だけ逃げるわけに……いかない。何か、何か、できること……)
三つ首の魔獣が、剣を構える騎士たちではなく、馬の上で動けないリリアンを、最も弱い獲物だと認識したようだった。
「グルァァ!」
魔獣の巨大な爪が、私めがけて、振り下ろされる!
ギュッと、目を瞑った、その時。
鋼がぶつかる、甲高い金属音と、衝撃。
恐る恐る目を開けると、リリアンの目の前に、皇帝の外套を脱ぎ捨てたカイゼルの、広い背中があった。 カイゼルがリリアンの前に割り込み、片手で抜いた剣で、巨大な魔獣の爪を、受け止めていた。
カイゼルは、魔獣の爪を弾き返しながら……私を振り返ることなく、低い声を出した。
「……リリアン。馬から降りるな」
カイゼルが恐怖に竦んでいる私の馬に向けて、スキルを込めた魔道具らしき瓶を振ると、馬は意思を失ったように、その場でピタリと動きを止める。
「グレイブ・ファング。帝国図書館、第七書庫の記録。弱点は、三つ」
カイゼルの、無機質な知識を暗唱するような声が響く。
「一つ。特定の音域の聴覚が、異常発達している。二つ。外殻の継ぎ目、第三頸椎直下の神経節のみが、脆い。……三つ。獲物の『恐怖』を、感知する」
カイゼルは、悠然と歩いて、魔獣に近づく。
カイゼルは、小さな石を、一つ拾った。 そしてそれを、魔獣とは逆の方向の、岩壁に投げつけた。
カッ、という、小さな音。だが、その瞬間。 魔獣の三つの首が全て、音のした方向に、向いた。
――その一瞬の隙。カイゼルの姿が、消えた。 いや、違う。最短距離で、踏み込んだのだ。 魔獣が、振り向いた、その一瞬。 がら空きになった、首の付け根。 第三頸椎、直下。
カイゼルの剣が、吸い込まれるように、閃いた。 一突き。 ただ、それだけだった。
地響きを立てて、巨大な魔獣が、崩れ落ちる。
カイゼルは、剣の血を、ゆっくりと払った。 リリアンはまだ、馬の上で、震えが止まらなかった。
カイゼルは、リリアンの震えを、見逃さなかった。何でもない動作で、リリアンを、馬の上から降ろした。リリアンの体は、いとも容易く、カイゼルの力強い腕の中に、収まった。
「陛下!? 」
「安心しろ……もう、終わった」
カイゼルの、低い声が、響く。
リリアンを、力強く、抱きしめる腕。
氷の皇帝と呼ばれるカイゼルの体温は、熱いくらいだった。
リリアンの震えが止まっても、カイゼルは離そうとしない。
「あ、あの、もう……大丈夫です。どうして、もっと西のほうにいる魔獣がここに来たのか、検証しないと」
「……一瞬、貴方を、失うかと思った。……貴方のいない未来など、耐えられない。もう少しだけ……貴方の熱を、感じていたい」
カイゼルは、私の耳元で、囁いた。
◇
その後、リリアンは『カイゼルと正式に、婚約について話をしなければ』と思いながらも忙しさに紛れて、数日が過ぎてしまった。
束の間の平穏を破るように。
自由区舎の外が、にわかに騒がしくなった。
見張り台の鐘が、侵入者を告げる。
「あの旗……ミラ王国! 西の隣国だ! なぜ、今、あいつらが!」
執務室に、緊張が走った。 ミラ王国。規模としては中規模だが、優秀な騎士団を持つことで知られる国。これまで、帝国とは、不可侵の均衡を保ってきたはずだった。
やがて、階下から、重い足音が響いてきた。 アークライトの自警団の制止を、力ずくで振り切って、数名の騎士が、執務室の扉を蹴破った。
「――通すか!」
開かれた執務室の扉の前で、アッシュが、抜き身の剣を持って、立ちはだかっていた。
先頭に立つ、ミラ王国の壮年の騎士が、アッシュの剣先を睨みつける。
「何のつもりだ、小僧! 我らは国王陛下の、御使いであるぞ!」
「ここはアークライトだ。総監の許可なく、誰も通さない!」
アッシュが、剣を構え直す。
「……邪魔を、するな!」
騎士が、アッシュの剣を弾き飛ばそうと、大上段から、斬りかかった。 甲高い金属音が、一度、二度、響く。 アッシュは、その重い一撃を、最小限の動きで受け止め、攻撃に転じようとする。
その瞬間。
壮年の騎士が、アッシュの流麗な剣さばきを、信じられないという目で、見つめた。
「……その構え……。その、剣の運び……。まさか」
剣を打ち合う手は止めぬまま、騎士の視線が、アッシュの剣から、その顔へと、一瞬だけ移る。 戦闘の熱で、わずかに上気した、白い頬。 陽光をすいたような、細くしなやかな髪。晴れ渡った空の瞳。
騎士は、息を呑んだ。
「……ああ……よくぞ、生きて」
壮年の騎士は、突然、剣を鞘に納め、その場に、片膝をついた。
「……何、を」
アッシュの声が、震える。
「……見違えました。健やかに、お育ちとお見受けいたします」
「やめろ!」
アッシュが叫ぶ。だが、遅かった。
「お迎えに、上がりました。アリシオン・エル・ミラ王子」
その言葉に、リリアンは、耳を疑った。
「10年前とは、情勢も変わっております、共に王国へ戻りましょう。護衛騎士は、何処に?」
「ち、違う、俺は、王子なんかじゃ」
「そうです、何かの間違いです。彼は、私の補佐官です。アークライトに必要な存在です。勝手に連れて行くというのなら、アークライトと事を構えることになりますよ」
リリアンは必死だった。アークライトの自警団など、ミラ王国の騎士団には束になっても勝てないけれど……経済戦争なら? 勝ち目とまではいかなくても、交渉の余地があるのではないか? 最近の、ミラ王国との取引きは……
「姉さ……総監。お止めください」
アッシュは、血の気の失せた顔で、私を見た。 その瞳は、子供のように揺れていた。
10年前、美少女にしか見えなかったアッシュも、時々こんな不安な目をしていた。
(あんなやせ細った、可愛いかった子が、隣国から逃げてきた王子様のはずが)
――本当に?
脳裏に、記憶の断片が、激しく明滅する。
(アッシュに最初に会った時……私は、なんと思った?)
この辺境に咲く一輪の花のようだと……。 土埃にまみれていても隠せない、こんな場所にはそぐわない、美しすぎる少女だと、思ったのでは、なかったか。
――アッシュは、出会った最初から、文字が読めた。
――アッシュは、井戸を作るための滑車や、水脈の理論を、すんなりと理解できた。
――アッシュは、異様に、剣術が強かった。洗練された、無駄のない動き。 ……まるで、正式な訓練を、受けたことが、あるかのように。
埋めたくないパズルのピースが、次々に埋まっていく。
なぜ、今まで、気づかなかった? いや、違う。 気づかないふりを、していた?
――リリアンにとって、アッシュは、アッシュであれば、それで、十分だったから。
(認めたくない)
リリアンの知らない、アッシュの過去が、今、大切な『弟』を、……アークライトから、リリアンの前から、奪おうとしている。
(こんな大事な時に、ギデオンはどこにいるの? 兄なのに……いや、本当に、二人は兄弟なの? 私が10年間、信じてきた二人は……誰?)
「アッシュ、お願い」
リリアンの唇から、掠れた声が、漏れた。
「……嘘だって、言って」
数週間後、仕事が一段落したタイミングで。
「……先日は、ありがとうございました。……お礼に」
私……リリアンはカイゼルを、アークライトで一番美しい場所への、遠乗りへ誘った。
『お礼』なんて、建前だった。あの日、カイゼルに頭を撫でられてから……カイゼルを見ると、頬がうっすらと熱を帯びるような、脈拍が速くなるような、そんな変化が生じていた。
だってずっと、誰かに頼られることはあっても、誰かの前で泣いたことなんて、なかった。
(陛下の前でなら……総監ではなく、一人の女性でいられる気が、する)
「ここが、『嘆きの湖』です」
真っ青な湖が、眼前に広がっていた。太陽の光が射し込むたび、水面は細かく輝く。
リリアンは、アッシュやギデオン、そしてカイゼルの近衛騎士たちと馬を並べて、湖の美しさに見入った。
「興味深い。火山性のシリカによる青か」
カイゼルの横顔は、日差しの中で、静かに輝いていた。
(……綺麗な、人。帝都では女性に、凄まじい人気だと聞いた……)
そう思った、瞬間だった。
「グルルルルァァァァァ!!」
地響きと共に、後方の森から、巨大な影が躍り出た。
「なっ……!?」
「総監! お下がりください!」
アッシュと自警団が、即座に、私の周囲に展開する。
それは、三つ首の、狼に似た魔獣だった。
全身が、不気味な、灰色の甲殻に覆われている。
「……嘘だろ。『グレイブ・ファング』! なぜ、こんな辺境に!」
近衛騎士の一人が、絶望的な声を上げる。
「ダメだ……姉さん、逃げて! 」
アークライト一番の剣士であるアッシュの剣が、甲殻に、甲高い音を立てて、弾かれた。
護衛たちが、次々と、倒れていく。
(私だけ逃げるわけに……いかない。何か、何か、できること……)
三つ首の魔獣が、剣を構える騎士たちではなく、馬の上で動けないリリアンを、最も弱い獲物だと認識したようだった。
「グルァァ!」
魔獣の巨大な爪が、私めがけて、振り下ろされる!
ギュッと、目を瞑った、その時。
鋼がぶつかる、甲高い金属音と、衝撃。
恐る恐る目を開けると、リリアンの目の前に、皇帝の外套を脱ぎ捨てたカイゼルの、広い背中があった。 カイゼルがリリアンの前に割り込み、片手で抜いた剣で、巨大な魔獣の爪を、受け止めていた。
カイゼルは、魔獣の爪を弾き返しながら……私を振り返ることなく、低い声を出した。
「……リリアン。馬から降りるな」
カイゼルが恐怖に竦んでいる私の馬に向けて、スキルを込めた魔道具らしき瓶を振ると、馬は意思を失ったように、その場でピタリと動きを止める。
「グレイブ・ファング。帝国図書館、第七書庫の記録。弱点は、三つ」
カイゼルの、無機質な知識を暗唱するような声が響く。
「一つ。特定の音域の聴覚が、異常発達している。二つ。外殻の継ぎ目、第三頸椎直下の神経節のみが、脆い。……三つ。獲物の『恐怖』を、感知する」
カイゼルは、悠然と歩いて、魔獣に近づく。
カイゼルは、小さな石を、一つ拾った。 そしてそれを、魔獣とは逆の方向の、岩壁に投げつけた。
カッ、という、小さな音。だが、その瞬間。 魔獣の三つの首が全て、音のした方向に、向いた。
――その一瞬の隙。カイゼルの姿が、消えた。 いや、違う。最短距離で、踏み込んだのだ。 魔獣が、振り向いた、その一瞬。 がら空きになった、首の付け根。 第三頸椎、直下。
カイゼルの剣が、吸い込まれるように、閃いた。 一突き。 ただ、それだけだった。
地響きを立てて、巨大な魔獣が、崩れ落ちる。
カイゼルは、剣の血を、ゆっくりと払った。 リリアンはまだ、馬の上で、震えが止まらなかった。
カイゼルは、リリアンの震えを、見逃さなかった。何でもない動作で、リリアンを、馬の上から降ろした。リリアンの体は、いとも容易く、カイゼルの力強い腕の中に、収まった。
「陛下!? 」
「安心しろ……もう、終わった」
カイゼルの、低い声が、響く。
リリアンを、力強く、抱きしめる腕。
氷の皇帝と呼ばれるカイゼルの体温は、熱いくらいだった。
リリアンの震えが止まっても、カイゼルは離そうとしない。
「あ、あの、もう……大丈夫です。どうして、もっと西のほうにいる魔獣がここに来たのか、検証しないと」
「……一瞬、貴方を、失うかと思った。……貴方のいない未来など、耐えられない。もう少しだけ……貴方の熱を、感じていたい」
カイゼルは、私の耳元で、囁いた。
◇
その後、リリアンは『カイゼルと正式に、婚約について話をしなければ』と思いながらも忙しさに紛れて、数日が過ぎてしまった。
束の間の平穏を破るように。
自由区舎の外が、にわかに騒がしくなった。
見張り台の鐘が、侵入者を告げる。
「あの旗……ミラ王国! 西の隣国だ! なぜ、今、あいつらが!」
執務室に、緊張が走った。 ミラ王国。規模としては中規模だが、優秀な騎士団を持つことで知られる国。これまで、帝国とは、不可侵の均衡を保ってきたはずだった。
やがて、階下から、重い足音が響いてきた。 アークライトの自警団の制止を、力ずくで振り切って、数名の騎士が、執務室の扉を蹴破った。
「――通すか!」
開かれた執務室の扉の前で、アッシュが、抜き身の剣を持って、立ちはだかっていた。
先頭に立つ、ミラ王国の壮年の騎士が、アッシュの剣先を睨みつける。
「何のつもりだ、小僧! 我らは国王陛下の、御使いであるぞ!」
「ここはアークライトだ。総監の許可なく、誰も通さない!」
アッシュが、剣を構え直す。
「……邪魔を、するな!」
騎士が、アッシュの剣を弾き飛ばそうと、大上段から、斬りかかった。 甲高い金属音が、一度、二度、響く。 アッシュは、その重い一撃を、最小限の動きで受け止め、攻撃に転じようとする。
その瞬間。
壮年の騎士が、アッシュの流麗な剣さばきを、信じられないという目で、見つめた。
「……その構え……。その、剣の運び……。まさか」
剣を打ち合う手は止めぬまま、騎士の視線が、アッシュの剣から、その顔へと、一瞬だけ移る。 戦闘の熱で、わずかに上気した、白い頬。 陽光をすいたような、細くしなやかな髪。晴れ渡った空の瞳。
騎士は、息を呑んだ。
「……ああ……よくぞ、生きて」
壮年の騎士は、突然、剣を鞘に納め、その場に、片膝をついた。
「……何、を」
アッシュの声が、震える。
「……見違えました。健やかに、お育ちとお見受けいたします」
「やめろ!」
アッシュが叫ぶ。だが、遅かった。
「お迎えに、上がりました。アリシオン・エル・ミラ王子」
その言葉に、リリアンは、耳を疑った。
「10年前とは、情勢も変わっております、共に王国へ戻りましょう。護衛騎士は、何処に?」
「ち、違う、俺は、王子なんかじゃ」
「そうです、何かの間違いです。彼は、私の補佐官です。アークライトに必要な存在です。勝手に連れて行くというのなら、アークライトと事を構えることになりますよ」
リリアンは必死だった。アークライトの自警団など、ミラ王国の騎士団には束になっても勝てないけれど……経済戦争なら? 勝ち目とまではいかなくても、交渉の余地があるのではないか? 最近の、ミラ王国との取引きは……
「姉さ……総監。お止めください」
アッシュは、血の気の失せた顔で、私を見た。 その瞳は、子供のように揺れていた。
10年前、美少女にしか見えなかったアッシュも、時々こんな不安な目をしていた。
(あんなやせ細った、可愛いかった子が、隣国から逃げてきた王子様のはずが)
――本当に?
脳裏に、記憶の断片が、激しく明滅する。
(アッシュに最初に会った時……私は、なんと思った?)
この辺境に咲く一輪の花のようだと……。 土埃にまみれていても隠せない、こんな場所にはそぐわない、美しすぎる少女だと、思ったのでは、なかったか。
――アッシュは、出会った最初から、文字が読めた。
――アッシュは、井戸を作るための滑車や、水脈の理論を、すんなりと理解できた。
――アッシュは、異様に、剣術が強かった。洗練された、無駄のない動き。 ……まるで、正式な訓練を、受けたことが、あるかのように。
埋めたくないパズルのピースが、次々に埋まっていく。
なぜ、今まで、気づかなかった? いや、違う。 気づかないふりを、していた?
――リリアンにとって、アッシュは、アッシュであれば、それで、十分だったから。
(認めたくない)
リリアンの知らない、アッシュの過去が、今、大切な『弟』を、……アークライトから、リリアンの前から、奪おうとしている。
(こんな大事な時に、ギデオンはどこにいるの? 兄なのに……いや、本当に、二人は兄弟なの? 私が10年間、信じてきた二人は……誰?)
「アッシュ、お願い」
リリアンの唇から、掠れた声が、漏れた。
「……嘘だって、言って」
