ふっと影が落ちた。
「おはようございます」
言葉も降ってきた。この声は榛原君。
「おはよう」
と、返事をした私の前にドンと数冊のカタログが置かれた。
「広報誌に紹介するイベントのコンセプト、聞かせてほしいんですが、まだ固まらないんでしょう? これ見てちょっとは進んでください」
「そう簡単なものでもないんだけどな」
「わかってますが、とりあえず記事がいるんです」
口調強めに言うと、榛原君は席に戻っていった。
置き去りにされたカタログをパラパラめくる。ポーズを決めた美人さんと、その美人さんのアップが並んでいる。
そう簡単なものでもないんだよ、榛原君よ。
とはいえ、昨日は足利まで連れていってくれたし、ここはなんとか絞り出すしかない。いつまでもグダグダとヤツの家庭のトラブルに頭を悩ませている場合じゃないんだ。
けど。
自分の中でふわふわしてるイメージの追求もしたいけど、二か月後に迫っている我が社のコンセプト発表の深い部分の追求もしなきゃいけない。
つーか、肝心要の私のデザインだけが〝まだ〟なのよねぇ。もう大ヒンシュク。
大枠もラインアップも決まって、あとはモデルを決めて、そのモデルがより映えるように細かい部分の調整をするところまで来ているんだけど、モデルに閃きがなくて困ってる。
カタログで探すか、有名女優から探すか。
細くて美しい、または可愛らしい女の子が並んでいる。どれも一緒に見えるけど、みんな違う。ファインダーに収まったら、どの子も綺麗に見えることだろう。
でも、求めているのは美女でも、スタイル抜群でもない。かといって、〝自分らしく〟の名のもとに外見無視でもない。なんというか、〝素材は商業的に用意されているけど、それをいかにナチュラルに見せてくれる子〟が欲しい感じ、なんだよね。
わざとらしいモデルポーズもいらないし、ありのまま的笑顔や服装もいらない。人の手によって作られた、ある意味〝嘘〟を〝本当〟に見せてくれる子。
うーむ。
半分もいかずに飽きちゃって、カタログを逆さまにして振ってみるけど、なにも落ちてこないよね。当然か。
あーん、もう! 真面目にやれ、私!
気合いを入れてページをめくる。じっくりとは見ない。目に入ってきた時のインパクトと印象が大事だし、私は自分の直感を信じてる。
信じて、
信じて、
信じ込んでいる。
けっして、疑わない。
一度疑ったら、足を掴まれて〝疑念の海〟に引きずり込まれて逃れられなくなるから。
だから、信じ切る。
そうこうしているうちに、気づいたら夜の八時になっていた。
ヤバっ、ヤツのところに行かないと。
念のためにラインで今から行っていいか尋ねたら、すぐにOKの返事があった。
机の上を簡単に片づけて席を立ち、社長室に向かう。そしてノックもせずに扉を開けた。
「どうした?」
「ちょっと話があって」
ソファセットに歩み寄り、ドカリに座り込む。そんな私を見てヤツもこっちにやってきた。ローテーブルを挟んで私の前に腰を下ろす。
「家事は〝手伝う〟だけでも罪で、家族みんなで分担すべき」
「なんの話だ?」
「家出中のお嫁さんの話」
その瞬間、ヤツのイケてる顔から表情が消えた。眉間にしわが寄っている。
笑ってるより不機嫌なほうが、この男はシブくてかっこいいから始末に負えない。
「智恵ちゃんは受験生なんだから集中させてあげるべき。お姉ちゃんの免責が受け入れられない知佳ちゃんには、一緒に頑張ろうってパパが説得すべき。私は香田将正ファミリーの一員じゃないから一緒に住むのはおかしいと思う」
「それで?」
「社長が忙しいのはわかるけど、香奈さんもお仕事忙しいんだから、お互い助け合うべきでしょ」
「あいつがそう言ったのか?」
「泣きついてきたのは智恵ちゃん。香奈さんは私なんかに泣きついたりしないよ」
ヤツは腕と足をそれぞれ組んで、ソファの背に大きく凭れ込んだ。
「俺には俺の事情があるし、香奈には香奈の考えある。世の中にも個人の家庭にも綺麗な理想が入る混む余地はない。お前から見たら俺の家庭は問題だらけかもしれないが、俺から見たらお前も問題だらけだ」
「私が問題だらけなのは今話すことじゃないよ。香奈さんが家出した問題を解決すべしって話なの。お兄ちゃんが家事のいくばくかを担えばいいだけの話でしょ。洗濯機のスイッチを押して終わったら干すとかさ、干してる洗濯物を取り込んでたたむとかさ、掃除機かけるとかさ、洗い終わった食器を片付けるとかさ、ちょっとやればいいだけのことじゃない」
ヤツはムッとしたように口をへの字にゆがめた。
「それともなに? 俺は男だから家事なんてできるかってな昭和思想でも持ってるわけ? それダサすぎるよ?」
「黙れ、クソガキ」
!
「人の家庭に口出しするな」
「なにーー!」
「お前、さっき、香田将正ファミリーの一員じゃないから一緒に住むのはおかしいと思うって言ったろ。だったら関係ないじゃないか。黙ってろ」
「智恵ちゃんに泣きつかれたんだって! 心配するじゃないのっ」
「女一人で暮らすのは心配だと思ってる俺を無視して、家を出たのはお前だろ」
「一人暮らししてる女なんて、古今東西いーーっぱいいるよ」
「知らない他人の女がどれだけ一人でいようが俺には関係ない。この世でたった一人しかいない妹だけが心配なんだ」
……え。
「どこが悪い」
「どこが……って」
「同じように、この世に一人しかいない嫁も心配だし、この世に二人しかいない娘も心配だ。香奈が俺に不満があるように、俺も香奈に不満がある。でもそれぞれ我慢してる。それだけのことだ」
ツッコミどころがいっぱいあって、なにを言えばいいかわからない。言葉が出てこない。
「お前が俺のことをどう思っていようが、俺にとってお前は妹だ。だから心配だ。でもお前の自由を尊重して口出ししていないだろ。お前は兄貴の自由を尊重して、家庭のことには口を出すな」
「勝手なことを」
「ああ。俺は自分勝手だ。家でも会社でも暴君だ。ほっといてくれ」
「香奈さんが可哀相でしょ」
「お前には可哀相に見えても、俺はそんなこと思っていない。香奈の好きにさせてる。そのために俺は俺なりに我慢していることがある」
「我慢? なにを? 暴君なのに?」
ヤツは腕を時、前かがみになった。挑むように私を睨んでくる。目力が強くて、ちょっち怯んじゃう。
「俺は息子が欲しかった。けど、三人は無理だと拒否られた。仕事を辞めないと回らなくなるってよ。じゃあ辞めろって言いたかったが、我慢した。今も我慢してる」
そんな理由っ。
「お前が考えてる以上に俺は香奈を大事に思ってる」
「じゃあ、どうして家出を放置してるのよ」
「一人になりたいからだろう? だったら、させてやったらいいと思ってるからだ」
「でも」
「お前は香奈のことが好きじゃないみたいだが、俺に取ってはかけがえのないパートナーなんだ。放置してるわけじゃない」
ちょっと待て。ちょっと待て!
「私が香奈さんのこと好きじゃない!? とんでもないこと言わないで!」
「そうだろうが。いつも疎んじてるような目を香奈に向けてるじゃないか」
疎んじてる? そんなことない。
私は香奈さんを尊敬してるし、大好きだ!
「邪魔者みたいな目で見てる」
邪魔者!? 冗談じゃない!
「家族を取ったって目が言ってる」
そんなことない。
そんなこと考えたことは――
「香奈も気にしていた。唯一の身内を取ってしまったって。責められてるみたいな気がして申し訳ないって」
嘘……そんなことない……
――私からヤツを取った人なのに、一ナノも悔しくないのは、同性としてめっちゃ憧れているからだ。
――最初、ヤツから結婚するって聞いた時は本気腹が立った。私の香田将正を取るなって怒鳴ってやろうと思ったのに、会った瞬間向けられた笑顔に魅了されてしまった。
嘘は、私……
「俺に向けるまなざしも、自分を見捨てないでくれって訴えている」
やめて。
「縋るような目だ」
やめて、言わないで。
それは違う。
縋るなんてない。
その感情は――
「紗英!」
耐えきれずに社長室を飛び出した。
邪魔者みたいな目。
家族を取ったって目。
縋るような目。
自分を見捨てないでくれって訴えているまなざし?
違う!
そうじゃない!
そうじゃない!
「おはようございます」
言葉も降ってきた。この声は榛原君。
「おはよう」
と、返事をした私の前にドンと数冊のカタログが置かれた。
「広報誌に紹介するイベントのコンセプト、聞かせてほしいんですが、まだ固まらないんでしょう? これ見てちょっとは進んでください」
「そう簡単なものでもないんだけどな」
「わかってますが、とりあえず記事がいるんです」
口調強めに言うと、榛原君は席に戻っていった。
置き去りにされたカタログをパラパラめくる。ポーズを決めた美人さんと、その美人さんのアップが並んでいる。
そう簡単なものでもないんだよ、榛原君よ。
とはいえ、昨日は足利まで連れていってくれたし、ここはなんとか絞り出すしかない。いつまでもグダグダとヤツの家庭のトラブルに頭を悩ませている場合じゃないんだ。
けど。
自分の中でふわふわしてるイメージの追求もしたいけど、二か月後に迫っている我が社のコンセプト発表の深い部分の追求もしなきゃいけない。
つーか、肝心要の私のデザインだけが〝まだ〟なのよねぇ。もう大ヒンシュク。
大枠もラインアップも決まって、あとはモデルを決めて、そのモデルがより映えるように細かい部分の調整をするところまで来ているんだけど、モデルに閃きがなくて困ってる。
カタログで探すか、有名女優から探すか。
細くて美しい、または可愛らしい女の子が並んでいる。どれも一緒に見えるけど、みんな違う。ファインダーに収まったら、どの子も綺麗に見えることだろう。
でも、求めているのは美女でも、スタイル抜群でもない。かといって、〝自分らしく〟の名のもとに外見無視でもない。なんというか、〝素材は商業的に用意されているけど、それをいかにナチュラルに見せてくれる子〟が欲しい感じ、なんだよね。
わざとらしいモデルポーズもいらないし、ありのまま的笑顔や服装もいらない。人の手によって作られた、ある意味〝嘘〟を〝本当〟に見せてくれる子。
うーむ。
半分もいかずに飽きちゃって、カタログを逆さまにして振ってみるけど、なにも落ちてこないよね。当然か。
あーん、もう! 真面目にやれ、私!
気合いを入れてページをめくる。じっくりとは見ない。目に入ってきた時のインパクトと印象が大事だし、私は自分の直感を信じてる。
信じて、
信じて、
信じ込んでいる。
けっして、疑わない。
一度疑ったら、足を掴まれて〝疑念の海〟に引きずり込まれて逃れられなくなるから。
だから、信じ切る。
そうこうしているうちに、気づいたら夜の八時になっていた。
ヤバっ、ヤツのところに行かないと。
念のためにラインで今から行っていいか尋ねたら、すぐにOKの返事があった。
机の上を簡単に片づけて席を立ち、社長室に向かう。そしてノックもせずに扉を開けた。
「どうした?」
「ちょっと話があって」
ソファセットに歩み寄り、ドカリに座り込む。そんな私を見てヤツもこっちにやってきた。ローテーブルを挟んで私の前に腰を下ろす。
「家事は〝手伝う〟だけでも罪で、家族みんなで分担すべき」
「なんの話だ?」
「家出中のお嫁さんの話」
その瞬間、ヤツのイケてる顔から表情が消えた。眉間にしわが寄っている。
笑ってるより不機嫌なほうが、この男はシブくてかっこいいから始末に負えない。
「智恵ちゃんは受験生なんだから集中させてあげるべき。お姉ちゃんの免責が受け入れられない知佳ちゃんには、一緒に頑張ろうってパパが説得すべき。私は香田将正ファミリーの一員じゃないから一緒に住むのはおかしいと思う」
「それで?」
「社長が忙しいのはわかるけど、香奈さんもお仕事忙しいんだから、お互い助け合うべきでしょ」
「あいつがそう言ったのか?」
「泣きついてきたのは智恵ちゃん。香奈さんは私なんかに泣きついたりしないよ」
ヤツは腕と足をそれぞれ組んで、ソファの背に大きく凭れ込んだ。
「俺には俺の事情があるし、香奈には香奈の考えある。世の中にも個人の家庭にも綺麗な理想が入る混む余地はない。お前から見たら俺の家庭は問題だらけかもしれないが、俺から見たらお前も問題だらけだ」
「私が問題だらけなのは今話すことじゃないよ。香奈さんが家出した問題を解決すべしって話なの。お兄ちゃんが家事のいくばくかを担えばいいだけの話でしょ。洗濯機のスイッチを押して終わったら干すとかさ、干してる洗濯物を取り込んでたたむとかさ、掃除機かけるとかさ、洗い終わった食器を片付けるとかさ、ちょっとやればいいだけのことじゃない」
ヤツはムッとしたように口をへの字にゆがめた。
「それともなに? 俺は男だから家事なんてできるかってな昭和思想でも持ってるわけ? それダサすぎるよ?」
「黙れ、クソガキ」
!
「人の家庭に口出しするな」
「なにーー!」
「お前、さっき、香田将正ファミリーの一員じゃないから一緒に住むのはおかしいと思うって言ったろ。だったら関係ないじゃないか。黙ってろ」
「智恵ちゃんに泣きつかれたんだって! 心配するじゃないのっ」
「女一人で暮らすのは心配だと思ってる俺を無視して、家を出たのはお前だろ」
「一人暮らししてる女なんて、古今東西いーーっぱいいるよ」
「知らない他人の女がどれだけ一人でいようが俺には関係ない。この世でたった一人しかいない妹だけが心配なんだ」
……え。
「どこが悪い」
「どこが……って」
「同じように、この世に一人しかいない嫁も心配だし、この世に二人しかいない娘も心配だ。香奈が俺に不満があるように、俺も香奈に不満がある。でもそれぞれ我慢してる。それだけのことだ」
ツッコミどころがいっぱいあって、なにを言えばいいかわからない。言葉が出てこない。
「お前が俺のことをどう思っていようが、俺にとってお前は妹だ。だから心配だ。でもお前の自由を尊重して口出ししていないだろ。お前は兄貴の自由を尊重して、家庭のことには口を出すな」
「勝手なことを」
「ああ。俺は自分勝手だ。家でも会社でも暴君だ。ほっといてくれ」
「香奈さんが可哀相でしょ」
「お前には可哀相に見えても、俺はそんなこと思っていない。香奈の好きにさせてる。そのために俺は俺なりに我慢していることがある」
「我慢? なにを? 暴君なのに?」
ヤツは腕を時、前かがみになった。挑むように私を睨んでくる。目力が強くて、ちょっち怯んじゃう。
「俺は息子が欲しかった。けど、三人は無理だと拒否られた。仕事を辞めないと回らなくなるってよ。じゃあ辞めろって言いたかったが、我慢した。今も我慢してる」
そんな理由っ。
「お前が考えてる以上に俺は香奈を大事に思ってる」
「じゃあ、どうして家出を放置してるのよ」
「一人になりたいからだろう? だったら、させてやったらいいと思ってるからだ」
「でも」
「お前は香奈のことが好きじゃないみたいだが、俺に取ってはかけがえのないパートナーなんだ。放置してるわけじゃない」
ちょっと待て。ちょっと待て!
「私が香奈さんのこと好きじゃない!? とんでもないこと言わないで!」
「そうだろうが。いつも疎んじてるような目を香奈に向けてるじゃないか」
疎んじてる? そんなことない。
私は香奈さんを尊敬してるし、大好きだ!
「邪魔者みたいな目で見てる」
邪魔者!? 冗談じゃない!
「家族を取ったって目が言ってる」
そんなことない。
そんなこと考えたことは――
「香奈も気にしていた。唯一の身内を取ってしまったって。責められてるみたいな気がして申し訳ないって」
嘘……そんなことない……
――私からヤツを取った人なのに、一ナノも悔しくないのは、同性としてめっちゃ憧れているからだ。
――最初、ヤツから結婚するって聞いた時は本気腹が立った。私の香田将正を取るなって怒鳴ってやろうと思ったのに、会った瞬間向けられた笑顔に魅了されてしまった。
嘘は、私……
「俺に向けるまなざしも、自分を見捨てないでくれって訴えている」
やめて。
「縋るような目だ」
やめて、言わないで。
それは違う。
縋るなんてない。
その感情は――
「紗英!」
耐えきれずに社長室を飛び出した。
邪魔者みたいな目。
家族を取ったって目。
縋るような目。
自分を見捨てないでくれって訴えているまなざし?
違う!
そうじゃない!
そうじゃない!



