車が私の住むマンションに近づいている。時刻は九時を少し過ぎた頃合い。高速が空いていたこともあって、意外と早く帰れた。
「えっと、寄って、く?」
おどおどしながら尋ねると、榛原君は嬉しそうに首を左右に振った。
「課長に言っちゃったから。紗英を送ってから戻るって」
「あ。そか」
榛原君のニヤニヤした顔に、自分の浅慮を思い知らされる。
「ごめんね、なんか、考えが至らなくて」
「めちゃくちゃ嬉しい。玄関に上がった瞬間、押し倒してる」
なに言ってんだか。
「というのは本当だけど横に置いといて」
本当なんだ……
「俺のことを気遣ってくれてるって思って泣ける。近いうちに一緒に住もう」
「……榛原君、ちょっとビッ飛びすぎなんだけど。引いちゃうよ」
車が止まった。
「ありがとう」
「どういたしまして。公私ともに『サエ』には奉仕させていただきます」
「はいはい」
シートベルトをはずし、ドアを開いて降りようとする。
そこへ。
「これくらいしないと社長には勝てないだろ? 半分血が繋がってるのに、マジ惚れしてるみたいだから。俺にとってはラスボスすぎるっての」
「…………え!?」
勢いよく振り返る私に、榛原君は手をグーパーさせた。
「じゃあ、また明日」
その言葉を受けて、私は車から降りてドアを閉めたのだけど、今の!
あっという間に車は走り去ってしまった。
バレてる……
バレてた……
誰にも言ってないのに……ってことは、誰でもわかるくらいわかりやすかったってこと?
はずっ!
肩を落としてマンションのエントランスに行くと、セーラー姿の智恵ちゃんが脇に置かれている花壇の縁に座り込んでいるので驚いた。
こんな時間に! いつからいたの!?
智恵ちゃんはヤツの長女で、現在十四歳で中学三年生。ちなみに次女の知佳ちゃんは十三歳で中学二年生。二人ともピッチピチの思春期ど真ん中。可愛すぎる
近づく私に気づいて智恵ちゃんがスマホから顔を上げた。
「どうしたの? あ、ラインくれてたとか?」
慌ててスマホを取り出そうとして、智恵ちゃんが、うぅん、と否定したから手を止めた。
「どれくらい待ってたの?」
「んーー、一時間くらいかな。紗英ちゃん、中、入っていい?」
「もちろん。どうぞどうぞ」
なんだかずいぶんブルーな顔をしているから、トラブルでも起きたのだろうか。
エレベーターに乗って四階へ。一番奥の角部屋が私の城だ。渋谷に2DKのマンション住まい。まぁ、若干、まあまあ、かなり、ヤツに救われてのことなんだけど。ちなみにヤツの城は豊洲のハイタワー。
「どうぞ」
「お邪魔します」
マジでどうしたんだろう。いつもの智恵ちゃんなら、跳ねるようにして部屋に入っていくのに。
冷蔵庫からリンゴのジュースを取り出して、グラスに注ぐ。それからすでにダイニングテーブルについている智恵ちゃんの前に置いた。
「どうしたの? 浮かない顔して」
「…………」
「智恵ちゃん?」
「ママがね」
「うん」
「いなくなった」
「……は?」
「家出した」
ちょっと頭が働かない。
家出した? 家出? 香奈《かな》さんが?
「最近、家族でケンカが絶えなくてさ。で、この前、大ゲンカしたの。その翌日、出勤したまま帰ってこない」
「帰ってこなくなってどれくらいなの?」
「三日」
!
「電話しても出ないし、ラインしても既読スルー」
「智恵ちゃんからの電話やラインをスルーするの?」
「うん」
いや、待って待って、それってホントに家出なの?
「警察に届けた?」
「警察?」
「だって、誘拐だったらどうするのよ!」
「誘拐はないよ。だって、会社に電話したら、出勤してるけど手一杯で出られないって、電話に出た人に言われたもん」
会社には行ってるんだ……よかった、事件じゃなくて。
いやいや〝よかった〟じゃないよっ。娘の連絡にも応じないなんて尋常じゃない。
「なにが原因でケンカになるの?」
「家事」
「家事?」
智恵ちゃんが大きくうなずいた。
「パパって家事まったくやらないの。出勤時にゴミを捨てに行くくらい。それもまとめたものを玄関に置くってところまでしないダメで」
くたばれ! って感じだ。これだけで腹立たしさが収まらない。
「それで?」
「私、今、受験勉強中だからお手伝いは基本免除されてるんだけど、知佳が、お姉ちゃんがしないなら自分もって言ってやらないのよ。そしたら全部ママがすることになってしまって、ママも仕事忙しいから、ずっとイライラしてて、パパと衝突するの。で、パパもあぁいう性格だからドンドン帰りが遅くなって、で、顔を合わすだけでケンカになるのよ。私が知佳に今年だけ頑張ってくれたら、来年は受験だからしなくていいんだって言っても、一人だけ手伝うのはヤだって怒って叫んで、それがまたママの癇に触れるんだよね」
どいつもこいつも。そもそも家事を手伝うって言い方が私にはムカつく。手伝うって、他人のすべきことに手を貸して軽減させてやるって意味で、母親や妻の仕事だって宣言してるみたいで腹立たしい。
「でね」
智恵ちゃんが上目遣いに私を見た。意味深なまなざしに嫌な予感がするんだけど。
「紗英ちゃん、怒らないで聞いてね」
「……うん」
嫌な予感、ムクムク。
「パパが、だったら紗英に同居してもらって、分担したらどうだって言い出して、それでママ、プチンってきたんだと思う」
「なるほど」
「本題から外れてるし、よくそんなこと言えるもんだ、あんたがやればいいだけのことだろ! って怒鳴って、で、翌朝、出勤してから帰ってこない」
ああ、致命的。
「そりゃ……怒るね」
「でしょ。ごめんね、紗英ちゃん。紗英ちゃんにそんなこと絶対頼まないから安心して」
「いやいや、でも早く解決しないと、智恵ちゃんだって受験勉強しなきゃいけないし」
「そうなんだよね。一瞬、受験勉強中だけ紗英ちゃんチに転がり込もうかなとも思ったんだけど、それやったら、絶対、知佳も来ると思って、思いとどまった。でも、ママに帰ってきてもらうには、紗英ちゃんの力を借りるしかないと思って」
「そっかぁ。でも、三日帰ってこないって、よっぽどだよね」
うん、と言いながら、智恵ちゃんはうつむいた。
「私も……受験生だからって理由で、なにもしなかったからパパと同罪だよ」
「いやいや、そんなことはない。受験勉強は大事だよ」
「別に高校にも大学にも行かなくていいと思ってるんだけどなぁ」
「なに言ってるの。大学はともかく、高校には行ったほうがいい。絶対」
智恵ちゃんはまた、うん、と言って、それからグラスを手に取った。
「香奈さんに連絡してみるよ。なんとか帰るように説得する」
「いい!? ありがとう!」
智恵ちゃんの顔がパッーと明るくなった。
「もう遅いから早く帰ったほうが……」
言いながら時計を見たら、もう十時だ。
「泊まってく?」
「んーー、どうしようかな。んーー、やっぱ帰る。勉強しなきゃ」
「そっか。気をつけてね」
「大丈夫だよ。タクシーで帰る。ここからじゃそのほうがいいし、料金はパパに請求する。そうしろっていつも言われてるから」
言いながらスマホを取り出し、タクシーの手配を始めた。
しっかりしてるな。でも、それが安心だ。ヤツは稼いでるから、渋谷から豊洲までのタクシー代なんて安いもんだろう。
それから智恵ちゃんを見送って、再び部屋に戻る。一人になったら、今日が怒涛の一日で情報過多だったと思い、虚脱した。
いやいや、これから香奈さんに電話しないといけない。
それにしても、ヤツ、とんでもないな! 明日、顔を合わせたら思いっきり文句言ってやんなきゃ。
「えっと、寄って、く?」
おどおどしながら尋ねると、榛原君は嬉しそうに首を左右に振った。
「課長に言っちゃったから。紗英を送ってから戻るって」
「あ。そか」
榛原君のニヤニヤした顔に、自分の浅慮を思い知らされる。
「ごめんね、なんか、考えが至らなくて」
「めちゃくちゃ嬉しい。玄関に上がった瞬間、押し倒してる」
なに言ってんだか。
「というのは本当だけど横に置いといて」
本当なんだ……
「俺のことを気遣ってくれてるって思って泣ける。近いうちに一緒に住もう」
「……榛原君、ちょっとビッ飛びすぎなんだけど。引いちゃうよ」
車が止まった。
「ありがとう」
「どういたしまして。公私ともに『サエ』には奉仕させていただきます」
「はいはい」
シートベルトをはずし、ドアを開いて降りようとする。
そこへ。
「これくらいしないと社長には勝てないだろ? 半分血が繋がってるのに、マジ惚れしてるみたいだから。俺にとってはラスボスすぎるっての」
「…………え!?」
勢いよく振り返る私に、榛原君は手をグーパーさせた。
「じゃあ、また明日」
その言葉を受けて、私は車から降りてドアを閉めたのだけど、今の!
あっという間に車は走り去ってしまった。
バレてる……
バレてた……
誰にも言ってないのに……ってことは、誰でもわかるくらいわかりやすかったってこと?
はずっ!
肩を落としてマンションのエントランスに行くと、セーラー姿の智恵ちゃんが脇に置かれている花壇の縁に座り込んでいるので驚いた。
こんな時間に! いつからいたの!?
智恵ちゃんはヤツの長女で、現在十四歳で中学三年生。ちなみに次女の知佳ちゃんは十三歳で中学二年生。二人ともピッチピチの思春期ど真ん中。可愛すぎる
近づく私に気づいて智恵ちゃんがスマホから顔を上げた。
「どうしたの? あ、ラインくれてたとか?」
慌ててスマホを取り出そうとして、智恵ちゃんが、うぅん、と否定したから手を止めた。
「どれくらい待ってたの?」
「んーー、一時間くらいかな。紗英ちゃん、中、入っていい?」
「もちろん。どうぞどうぞ」
なんだかずいぶんブルーな顔をしているから、トラブルでも起きたのだろうか。
エレベーターに乗って四階へ。一番奥の角部屋が私の城だ。渋谷に2DKのマンション住まい。まぁ、若干、まあまあ、かなり、ヤツに救われてのことなんだけど。ちなみにヤツの城は豊洲のハイタワー。
「どうぞ」
「お邪魔します」
マジでどうしたんだろう。いつもの智恵ちゃんなら、跳ねるようにして部屋に入っていくのに。
冷蔵庫からリンゴのジュースを取り出して、グラスに注ぐ。それからすでにダイニングテーブルについている智恵ちゃんの前に置いた。
「どうしたの? 浮かない顔して」
「…………」
「智恵ちゃん?」
「ママがね」
「うん」
「いなくなった」
「……は?」
「家出した」
ちょっと頭が働かない。
家出した? 家出? 香奈《かな》さんが?
「最近、家族でケンカが絶えなくてさ。で、この前、大ゲンカしたの。その翌日、出勤したまま帰ってこない」
「帰ってこなくなってどれくらいなの?」
「三日」
!
「電話しても出ないし、ラインしても既読スルー」
「智恵ちゃんからの電話やラインをスルーするの?」
「うん」
いや、待って待って、それってホントに家出なの?
「警察に届けた?」
「警察?」
「だって、誘拐だったらどうするのよ!」
「誘拐はないよ。だって、会社に電話したら、出勤してるけど手一杯で出られないって、電話に出た人に言われたもん」
会社には行ってるんだ……よかった、事件じゃなくて。
いやいや〝よかった〟じゃないよっ。娘の連絡にも応じないなんて尋常じゃない。
「なにが原因でケンカになるの?」
「家事」
「家事?」
智恵ちゃんが大きくうなずいた。
「パパって家事まったくやらないの。出勤時にゴミを捨てに行くくらい。それもまとめたものを玄関に置くってところまでしないダメで」
くたばれ! って感じだ。これだけで腹立たしさが収まらない。
「それで?」
「私、今、受験勉強中だからお手伝いは基本免除されてるんだけど、知佳が、お姉ちゃんがしないなら自分もって言ってやらないのよ。そしたら全部ママがすることになってしまって、ママも仕事忙しいから、ずっとイライラしてて、パパと衝突するの。で、パパもあぁいう性格だからドンドン帰りが遅くなって、で、顔を合わすだけでケンカになるのよ。私が知佳に今年だけ頑張ってくれたら、来年は受験だからしなくていいんだって言っても、一人だけ手伝うのはヤだって怒って叫んで、それがまたママの癇に触れるんだよね」
どいつもこいつも。そもそも家事を手伝うって言い方が私にはムカつく。手伝うって、他人のすべきことに手を貸して軽減させてやるって意味で、母親や妻の仕事だって宣言してるみたいで腹立たしい。
「でね」
智恵ちゃんが上目遣いに私を見た。意味深なまなざしに嫌な予感がするんだけど。
「紗英ちゃん、怒らないで聞いてね」
「……うん」
嫌な予感、ムクムク。
「パパが、だったら紗英に同居してもらって、分担したらどうだって言い出して、それでママ、プチンってきたんだと思う」
「なるほど」
「本題から外れてるし、よくそんなこと言えるもんだ、あんたがやればいいだけのことだろ! って怒鳴って、で、翌朝、出勤してから帰ってこない」
ああ、致命的。
「そりゃ……怒るね」
「でしょ。ごめんね、紗英ちゃん。紗英ちゃんにそんなこと絶対頼まないから安心して」
「いやいや、でも早く解決しないと、智恵ちゃんだって受験勉強しなきゃいけないし」
「そうなんだよね。一瞬、受験勉強中だけ紗英ちゃんチに転がり込もうかなとも思ったんだけど、それやったら、絶対、知佳も来ると思って、思いとどまった。でも、ママに帰ってきてもらうには、紗英ちゃんの力を借りるしかないと思って」
「そっかぁ。でも、三日帰ってこないって、よっぽどだよね」
うん、と言いながら、智恵ちゃんはうつむいた。
「私も……受験生だからって理由で、なにもしなかったからパパと同罪だよ」
「いやいや、そんなことはない。受験勉強は大事だよ」
「別に高校にも大学にも行かなくていいと思ってるんだけどなぁ」
「なに言ってるの。大学はともかく、高校には行ったほうがいい。絶対」
智恵ちゃんはまた、うん、と言って、それからグラスを手に取った。
「香奈さんに連絡してみるよ。なんとか帰るように説得する」
「いい!? ありがとう!」
智恵ちゃんの顔がパッーと明るくなった。
「もう遅いから早く帰ったほうが……」
言いながら時計を見たら、もう十時だ。
「泊まってく?」
「んーー、どうしようかな。んーー、やっぱ帰る。勉強しなきゃ」
「そっか。気をつけてね」
「大丈夫だよ。タクシーで帰る。ここからじゃそのほうがいいし、料金はパパに請求する。そうしろっていつも言われてるから」
言いながらスマホを取り出し、タクシーの手配を始めた。
しっかりしてるな。でも、それが安心だ。ヤツは稼いでるから、渋谷から豊洲までのタクシー代なんて安いもんだろう。
それから智恵ちゃんを見送って、再び部屋に戻る。一人になったら、今日が怒涛の一日で情報過多だったと思い、虚脱した。
いやいや、これから香奈さんに電話しないといけない。
それにしても、ヤツ、とんでもないな! 明日、顔を合わせたら思いっきり文句言ってやんなきゃ。



