そこだけ世界が紫色に染まっている。
お祖母ちゃんに手を引かれて初めて見た、思い出深い藤の花が心を綺麗にしてくれるような気がする。
意地とか、見栄とか、そんなものを流し去ってくれるような気がする。
そう思うのに、私の中からヤツは消えてくれない。むしろ『ここにいるぞ』と言っているように燦然と輝いている。
「私さ」
「うん」
「小さい頃、お祖母ちゃんに連れられて藤園に来たの。あの時は小さくて場所はわからなかったけど、たぶん、ここ。で、あんまり綺麗で感動して、その綺麗さをなんとか表現したいって思って、今まで突っ走って、ここまできた。でも形にできなくて……ずっと焦れったかった」
榛原君は黙って私の言葉を聞いている。だけど私が口を噤んだら、うっすら笑って尋ねてきた。
「藤の花の花言葉って知ってる?」
花言葉?
「うぅん、知らない」
「陶酔」
「陶酔? へぇ」
「それから、歓迎とか、恋に酔うってのもある」
「詳しいわね」
「紗英が、藤の花が好きだって聞いて、教えてやろうと思って調べたんだ。なんだか、イメージそのまんまで」
下の名前を呼び捨てにされて、ドキンとする。
私を〝紗英〟って呼ぶのはヤツだけだから。
「どういう意味?」
「デザイン描いてる時、陶酔したような目をしてるから。こっちが酔いそうになる」
えっ、ホントに?
「真剣なまなざし、とかじゃなく?」
私の小さな反論に榛原君はふふふっと笑った。
「本当に好きなんだなって思う。最初は変な人だなって思った。そのうち、イっちゃってる人ってこんな感じなのかなってのに変わった」
「イっちゃってるって……」
「社長も変でしょ」
それは……
「言葉遣いが悪くて、目つきもよくないし、ちょっと声音が低い時なんか脅されてる? って思うくらいだ。でもびっくりするくらい人たらしで、ここのスタッフって社長の信者みたいでさ。気づいたら俺もその一人になってた。社長にバイトでいいから置いてほしいって直談判してた。でも……」
榛原君が首を少し傾けて私の顔を覗き込んでくる。
「香田家の血なんだなって、今なら思うけど」
「…………」
「で、紗英の話に戻るけど、机に向かってる紗英はなんだか酔ってるみたいに目がトロンとしていて、色っぽくて、デザインするって世界に浸って酔っているんだろうなって思う。いいな、俺も、そこ、行きたいって。凡人の俺にはけっして到達できない〝好きの極致〟」
「榛原君」
榛原君は照れ臭そうに笑うと、片手を私の背に回して少しばかり引き寄せた。
「ちょっ」
「ここでキスしたら怒る?」
「バカ、こんなトコで」
「今、すっごくキスした気分」
「こんなに人がいるとこはダメ」
「じゃあ、二日連続でホテルへゴーは?」
視線が絡み合い、どうしていいのかわからないまま榛原君を見つめる。うぅん、視線を逸らせられなかった。優しいまなざし。
胸の奥でなにかが溶ける感じがする。榛原君の息が少しかかったら、それはますます……
「ダメ」
ぎゅっと見つめると、榛原君はいきなり大きく伸びをした。
「じゃ、車に戻ろう」
ガクッ。
いや、失望している場面じゃない。当たり前のこと!
だけど、このまま帰るのは勿体ない。だって、ここ、まだ藤園の入り口なんだから。
「せっかく入ったのに。全部見て回ろうよ」
「奥に行く前に閉演時間だよ。いつでも連れてやるよ。今は早く紗英とキスしたい」
なに!?
「車の中ならこんなトコじゃないだろ?」
「ちょっと!」
手を握られて引っ張られる。そのまま駐車場に直行し、乗り込んだ。
マジ? 冗談じゃなくて?
ちょっと待って!
座ると榛原君が腕を伸ばして肩を取り、顔を近づけてきた。
「本気なのっ!?」
「もちろん。キスだけだから」
「榛原君!」
「ダメ?」
見つめられ、言葉を失った。喉に引っかかって出てこない。息をするのも苦しいくらい。
「ダメならあきらめる」
「……聞かないでよ。そういうの、返事に困るよ」
バカ! なに言ってる! ダメって答えなきゃいけないのに!
榛原君の顔に優しい笑みが浮かんだ。
「ゴメン。じゃ、もう聞かない。目、閉じて」
顔が近づき、反射的に目を閉じてしまった。
その瞬間、柔らかな唇が触れた。
一度離れ、また重なった。ゆっくり深くなるキスにだんだん心が慣らされていく感じがする。
昨日と同じ優しいキス。
……溶けそう。
ようやく榛原君の顔が離れた時には、もう思考回路は完全に停止して、私の心はトロントロンになっていた。
「やっぱその顔、ソソられる」
「…………」
その時、ブッブッとスマホが震えた。どっちのスマホかと思ったけど、榛原君のほうだった。
「もしもし。あ、課長。え? 今ですか?」
榛原君の目がチラリと私に向く。榛原君の上司である山田《やまだ》課長みたいだ。
「浜崎さんの同行です。閃きのために栃木に来てます。藤の花を見に。そうそう。今から出るので、直帰で。僕は車を返しに戻りますが。はーい、では、そういうことで。よろしくお願いします」
榛原君はスマホを切ってポケットに仕舞うと、私に視線を向けてニマッと笑った。
「人気デザイナー『サエ』のおかげで雷から免れた。さて、帰ろう」
榛原君は言うと、シートベルトをして車を発車させた。私はドキドキする心臓の音を聞きつつ、窓の外に視線をやった。
安堵と失望。
失望……を感じている自分に驚いてる。
ずっと、ずっと、私は不良オヤジが好きだったのに。
ずっとヤツへの想いを秘めていたのに。
それなのに、こんなに簡単に心がぐらついてるなんて。
信じられない。
私はちょろい女なのかもしれない。
本当に、忘れさせてくれるの?
お祖母ちゃんに手を引かれて初めて見た、思い出深い藤の花が心を綺麗にしてくれるような気がする。
意地とか、見栄とか、そんなものを流し去ってくれるような気がする。
そう思うのに、私の中からヤツは消えてくれない。むしろ『ここにいるぞ』と言っているように燦然と輝いている。
「私さ」
「うん」
「小さい頃、お祖母ちゃんに連れられて藤園に来たの。あの時は小さくて場所はわからなかったけど、たぶん、ここ。で、あんまり綺麗で感動して、その綺麗さをなんとか表現したいって思って、今まで突っ走って、ここまできた。でも形にできなくて……ずっと焦れったかった」
榛原君は黙って私の言葉を聞いている。だけど私が口を噤んだら、うっすら笑って尋ねてきた。
「藤の花の花言葉って知ってる?」
花言葉?
「うぅん、知らない」
「陶酔」
「陶酔? へぇ」
「それから、歓迎とか、恋に酔うってのもある」
「詳しいわね」
「紗英が、藤の花が好きだって聞いて、教えてやろうと思って調べたんだ。なんだか、イメージそのまんまで」
下の名前を呼び捨てにされて、ドキンとする。
私を〝紗英〟って呼ぶのはヤツだけだから。
「どういう意味?」
「デザイン描いてる時、陶酔したような目をしてるから。こっちが酔いそうになる」
えっ、ホントに?
「真剣なまなざし、とかじゃなく?」
私の小さな反論に榛原君はふふふっと笑った。
「本当に好きなんだなって思う。最初は変な人だなって思った。そのうち、イっちゃってる人ってこんな感じなのかなってのに変わった」
「イっちゃってるって……」
「社長も変でしょ」
それは……
「言葉遣いが悪くて、目つきもよくないし、ちょっと声音が低い時なんか脅されてる? って思うくらいだ。でもびっくりするくらい人たらしで、ここのスタッフって社長の信者みたいでさ。気づいたら俺もその一人になってた。社長にバイトでいいから置いてほしいって直談判してた。でも……」
榛原君が首を少し傾けて私の顔を覗き込んでくる。
「香田家の血なんだなって、今なら思うけど」
「…………」
「で、紗英の話に戻るけど、机に向かってる紗英はなんだか酔ってるみたいに目がトロンとしていて、色っぽくて、デザインするって世界に浸って酔っているんだろうなって思う。いいな、俺も、そこ、行きたいって。凡人の俺にはけっして到達できない〝好きの極致〟」
「榛原君」
榛原君は照れ臭そうに笑うと、片手を私の背に回して少しばかり引き寄せた。
「ちょっ」
「ここでキスしたら怒る?」
「バカ、こんなトコで」
「今、すっごくキスした気分」
「こんなに人がいるとこはダメ」
「じゃあ、二日連続でホテルへゴーは?」
視線が絡み合い、どうしていいのかわからないまま榛原君を見つめる。うぅん、視線を逸らせられなかった。優しいまなざし。
胸の奥でなにかが溶ける感じがする。榛原君の息が少しかかったら、それはますます……
「ダメ」
ぎゅっと見つめると、榛原君はいきなり大きく伸びをした。
「じゃ、車に戻ろう」
ガクッ。
いや、失望している場面じゃない。当たり前のこと!
だけど、このまま帰るのは勿体ない。だって、ここ、まだ藤園の入り口なんだから。
「せっかく入ったのに。全部見て回ろうよ」
「奥に行く前に閉演時間だよ。いつでも連れてやるよ。今は早く紗英とキスしたい」
なに!?
「車の中ならこんなトコじゃないだろ?」
「ちょっと!」
手を握られて引っ張られる。そのまま駐車場に直行し、乗り込んだ。
マジ? 冗談じゃなくて?
ちょっと待って!
座ると榛原君が腕を伸ばして肩を取り、顔を近づけてきた。
「本気なのっ!?」
「もちろん。キスだけだから」
「榛原君!」
「ダメ?」
見つめられ、言葉を失った。喉に引っかかって出てこない。息をするのも苦しいくらい。
「ダメならあきらめる」
「……聞かないでよ。そういうの、返事に困るよ」
バカ! なに言ってる! ダメって答えなきゃいけないのに!
榛原君の顔に優しい笑みが浮かんだ。
「ゴメン。じゃ、もう聞かない。目、閉じて」
顔が近づき、反射的に目を閉じてしまった。
その瞬間、柔らかな唇が触れた。
一度離れ、また重なった。ゆっくり深くなるキスにだんだん心が慣らされていく感じがする。
昨日と同じ優しいキス。
……溶けそう。
ようやく榛原君の顔が離れた時には、もう思考回路は完全に停止して、私の心はトロントロンになっていた。
「やっぱその顔、ソソられる」
「…………」
その時、ブッブッとスマホが震えた。どっちのスマホかと思ったけど、榛原君のほうだった。
「もしもし。あ、課長。え? 今ですか?」
榛原君の目がチラリと私に向く。榛原君の上司である山田《やまだ》課長みたいだ。
「浜崎さんの同行です。閃きのために栃木に来てます。藤の花を見に。そうそう。今から出るので、直帰で。僕は車を返しに戻りますが。はーい、では、そういうことで。よろしくお願いします」
榛原君はスマホを切ってポケットに仕舞うと、私に視線を向けてニマッと笑った。
「人気デザイナー『サエ』のおかげで雷から免れた。さて、帰ろう」
榛原君は言うと、シートベルトをして車を発車させた。私はドキドキする心臓の音を聞きつつ、窓の外に視線をやった。
安堵と失望。
失望……を感じている自分に驚いてる。
ずっと、ずっと、私は不良オヤジが好きだったのに。
ずっとヤツへの想いを秘めていたのに。
それなのに、こんなに簡単に心がぐらついてるなんて。
信じられない。
私はちょろい女なのかもしれない。
本当に、忘れさせてくれるの?



