(お祖母ちゃんと見た藤棚、藤園。あの壮大さと、感動を形にしたいのになぁ)
廊下を歩きながら考える。
子どもの頃、お祖母ちゃんに連れられて見た藤の花を思い出す。
空が紫色をしていたあの時の感動が今でも忘れられない。
そればかりか、ずっと胸の中で踊り続け、いつかこの感動をデザインっていう形で表現したいと思ってきた。
ここまで出かかってるのよ。なのに、もう少しだと思うと、遠のく。感動が遠のくと、意識まで遠のきそうでクラッとくるから困りもの。
私の身辺は少々複雑だ。母親は出産に失敗し、私を産み落としてすぐに他界したそうだ。当時、父親は不明。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんだけは知っていたみたい。二人で育てようとしたけど、三歳の時にお祖父ちゃんが事故に遭って亡くなり、八歳の時、お祖母ちゃんが病気になった。私はそこで香田家に連れていかれたのだ。お祖母ちゃんは翌年他界した。
私が浜崎のままでいたいと言うと、ヤツが親権者となってその願望をかなえてくれた。もちろん、本妻はものすごく怒っていたけど、でも香田家の戸籍に入るよりマシだったみたい。
結局、私は大学を出るまで香田家に住み、就職と同時に家を出た。
つーか、中学の時にヤツが結婚して奥さんまで一緒に住むようになったから、一日も早く家を出たかったのに、その奥さんが所謂キャリアウーマンで、『義理の母に子どもの面倒は頼みにくいから、紗英ちゃん、お願いだから家にいてよ、育児手伝って』って懇願されて、居続けることになったのだけど。
絶対ウソだ。いくらでも高い保育園に入れられるはずなのに。
私のためにそう取り計らったのよ。
でも、お嬢ちゃん二人は確かに可愛くて、懐いてくれたから出ていけなかったし、私もなんだか幸せ感じて、居心地よかったんだ。
勝てないよ、どう頑張ったって、あの人には。それだけよくできた女がヤツの妻で、私は対抗心どころか、尊敬までしてる状態だ。
だからこのよこしまな気持ちは絶対に気づかれてはいけない。
フロアに戻り、自席に腰を下ろすと、頭上に影が落ちた。顔を上げると真横に榛原君が立っている。
昨日のことが頭をよぎって心臓がバクバクするのを諫める。
横目でフロア内を確認し、動揺を本人と他のスタッフに気づかれないようにしなきゃ。
「どうでした?」
「ダメでした」
間髪入れない返事に榛原君がプッとふき出す。
いつもの榛原君で、ちょっとほっとする。
「それでは記事になりませんが。企画の記事、催促されているんですよ」
榛原君に向け、ヤツに言った言葉を口にした。今度の榛原君は笑わず目を丸くしている。
「雑誌に目玉イベント告知って載せるんですよ? オレンジかレモン、じゃねぇ。浜崎さんの表現は好きだけど、さすがにそれは書けません」
榛原君の若々しい顔を見ながら、ぼんやりと腹違いのヤツの言葉を思い出す。
──俺もあいつも本気だ。どうにも好きになれないなら仕方ねぇが、そうじゃないならつきあってみろ。
バカみたい。なに親風吹かしてんのさ。
つか、もう一線超えちゃったんですけど。
「浜崎さん?」
「あ、なに?」
榛原君の顔に苦笑が浮かんだ。
「なにじゃないですよ。よほどイマイチだったんですね、集中力乏しすぎ。ちょっと気分転換に出かけませんか?」
「気分転換?」
「えぇ」
「どこ行くの?」
「いい所です。閃くかもしれませんよ」
面白そうだ。私は立ち上がった。
「了解。行こう」
話は決まった。
榛原君の運転する車に乗り、窓を全開にして外を眺めていた。首都高を抜け、車は埼玉を通り越し、栃木に入った。いったいどこまで行くのかと思っていたら、ようやく車が止まる。促されてやってきたのは有名な藤園だった。
「あ」
そこは思い出の藤園だった。
驚いて立ち尽くしている私。榛原君は陽気に笑いながら歩き、チケットを買って手招きする。
「浜崎さん、藤の花が好きでしょ。今日からだそうですよ」
言いながらさっさと入っていく。私は慌てて追いかけた。
「うわぁ、すごいや。マジですごい。綺麗だなぁ。空が紫色に見える」
榛原君は素直な感想を述べながら、咲き始めた藤の花を見上げている。私は榛原君について歩いて……藤棚に見惚れた。
一本の木から十畳以上の枝を張り、無数と花を垂らしている。紫色の花は頭上を覆い、それ自体が空のようだ。花びらは紫と白が重なった種類で、白い部分は雲に見える。見つめても見つめても、けっして飽きることはなかった。それどころかますます引き込まれる。どこまでもどこまでも、私を魅了する。
どうしてこんなに綺麗なの?
どうしてこんなに素晴らしいの?
地球という名の神様は天才だ。こんなものを作っちゃうんだから。
風が吹くたび、サワサワと音を立てて垂れた花たちが揺れる。
まるで囁いているよう。
まるで歌っているよう。
まるで……
胸の奥底からなにかがこみ上げてくる。感動なんて簡単な言葉では言い表せない思いと衝動。
これは、なに?
私はずっと、この思いと衝動の正体を探っている。
教えて、ねぇ、藤の花、藤の香り。
なにがそんなに私をざわつかせるの?
お願いだから。
廊下を歩きながら考える。
子どもの頃、お祖母ちゃんに連れられて見た藤の花を思い出す。
空が紫色をしていたあの時の感動が今でも忘れられない。
そればかりか、ずっと胸の中で踊り続け、いつかこの感動をデザインっていう形で表現したいと思ってきた。
ここまで出かかってるのよ。なのに、もう少しだと思うと、遠のく。感動が遠のくと、意識まで遠のきそうでクラッとくるから困りもの。
私の身辺は少々複雑だ。母親は出産に失敗し、私を産み落としてすぐに他界したそうだ。当時、父親は不明。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんだけは知っていたみたい。二人で育てようとしたけど、三歳の時にお祖父ちゃんが事故に遭って亡くなり、八歳の時、お祖母ちゃんが病気になった。私はそこで香田家に連れていかれたのだ。お祖母ちゃんは翌年他界した。
私が浜崎のままでいたいと言うと、ヤツが親権者となってその願望をかなえてくれた。もちろん、本妻はものすごく怒っていたけど、でも香田家の戸籍に入るよりマシだったみたい。
結局、私は大学を出るまで香田家に住み、就職と同時に家を出た。
つーか、中学の時にヤツが結婚して奥さんまで一緒に住むようになったから、一日も早く家を出たかったのに、その奥さんが所謂キャリアウーマンで、『義理の母に子どもの面倒は頼みにくいから、紗英ちゃん、お願いだから家にいてよ、育児手伝って』って懇願されて、居続けることになったのだけど。
絶対ウソだ。いくらでも高い保育園に入れられるはずなのに。
私のためにそう取り計らったのよ。
でも、お嬢ちゃん二人は確かに可愛くて、懐いてくれたから出ていけなかったし、私もなんだか幸せ感じて、居心地よかったんだ。
勝てないよ、どう頑張ったって、あの人には。それだけよくできた女がヤツの妻で、私は対抗心どころか、尊敬までしてる状態だ。
だからこのよこしまな気持ちは絶対に気づかれてはいけない。
フロアに戻り、自席に腰を下ろすと、頭上に影が落ちた。顔を上げると真横に榛原君が立っている。
昨日のことが頭をよぎって心臓がバクバクするのを諫める。
横目でフロア内を確認し、動揺を本人と他のスタッフに気づかれないようにしなきゃ。
「どうでした?」
「ダメでした」
間髪入れない返事に榛原君がプッとふき出す。
いつもの榛原君で、ちょっとほっとする。
「それでは記事になりませんが。企画の記事、催促されているんですよ」
榛原君に向け、ヤツに言った言葉を口にした。今度の榛原君は笑わず目を丸くしている。
「雑誌に目玉イベント告知って載せるんですよ? オレンジかレモン、じゃねぇ。浜崎さんの表現は好きだけど、さすがにそれは書けません」
榛原君の若々しい顔を見ながら、ぼんやりと腹違いのヤツの言葉を思い出す。
──俺もあいつも本気だ。どうにも好きになれないなら仕方ねぇが、そうじゃないならつきあってみろ。
バカみたい。なに親風吹かしてんのさ。
つか、もう一線超えちゃったんですけど。
「浜崎さん?」
「あ、なに?」
榛原君の顔に苦笑が浮かんだ。
「なにじゃないですよ。よほどイマイチだったんですね、集中力乏しすぎ。ちょっと気分転換に出かけませんか?」
「気分転換?」
「えぇ」
「どこ行くの?」
「いい所です。閃くかもしれませんよ」
面白そうだ。私は立ち上がった。
「了解。行こう」
話は決まった。
榛原君の運転する車に乗り、窓を全開にして外を眺めていた。首都高を抜け、車は埼玉を通り越し、栃木に入った。いったいどこまで行くのかと思っていたら、ようやく車が止まる。促されてやってきたのは有名な藤園だった。
「あ」
そこは思い出の藤園だった。
驚いて立ち尽くしている私。榛原君は陽気に笑いながら歩き、チケットを買って手招きする。
「浜崎さん、藤の花が好きでしょ。今日からだそうですよ」
言いながらさっさと入っていく。私は慌てて追いかけた。
「うわぁ、すごいや。マジですごい。綺麗だなぁ。空が紫色に見える」
榛原君は素直な感想を述べながら、咲き始めた藤の花を見上げている。私は榛原君について歩いて……藤棚に見惚れた。
一本の木から十畳以上の枝を張り、無数と花を垂らしている。紫色の花は頭上を覆い、それ自体が空のようだ。花びらは紫と白が重なった種類で、白い部分は雲に見える。見つめても見つめても、けっして飽きることはなかった。それどころかますます引き込まれる。どこまでもどこまでも、私を魅了する。
どうしてこんなに綺麗なの?
どうしてこんなに素晴らしいの?
地球という名の神様は天才だ。こんなものを作っちゃうんだから。
風が吹くたび、サワサワと音を立てて垂れた花たちが揺れる。
まるで囁いているよう。
まるで歌っているよう。
まるで……
胸の奥底からなにかがこみ上げてくる。感動なんて簡単な言葉では言い表せない思いと衝動。
これは、なに?
私はずっと、この思いと衝動の正体を探っている。
教えて、ねぇ、藤の花、藤の香り。
なにがそんなに私をざわつかせるの?
お願いだから。



