陶酔 溶けてしまうまで

「紗英!」

 名前を呼ばれて顔を上げた。榛原君が走ってくるのが見える。

「紗英っ」

 目の前まで来ると榛原君は膝に手をやって前かがみになり、はあはあと苦しそうに呼吸を繰り返した。それから顔を上げて私を見つめる。

「ごめん」
「なにを謝ってんだよ。嬉しいっての」

 榛原君が隣に座った。肩が触れて、そこからゆっくりと熱が伝わってくる。
 人と触れ合っているという熱が。じんわりと。

「そうなの?」
「当然だろ? つらい時にお呼びがかかるってことは、頼られてるってことだから」
「逆かもしれないよ?」

 榛原君の目がきょとんと丸くなった。

「逆?」
「都合よく利用しようって」
「それでもいいよ。好きな子の横にいられるなら」

 ……ズルい。そんなこと言われたら、もう崩れる一方だよ。

「ん?」

 下から覗き込んでこられて、思わず顔を逸らしてしまう。

「で、どうしたんだよ。なにがあった?」
「……やらかして、へこんでる。最後まで聞いてくれる?」

 返事はなく、肩を掴まれて引き寄せられた。

「昨日さ……」

 榛原君を見送ったあと、智恵ちゃんが来ていたことから、さっきのヤツとのやり取りまでを説明する。
 私の感情だだ漏れの説明は聞きにくかったと思うけど、榛原君は相槌のみで言葉は挟まず、最後まで聞いてくれた。

「ってことは、へこんでいるのは社長との言い合いじゃなく、社長の奥さんへの気持ちを言い当てられたことってわけだ」
「言い当てられてなんかない。私は香奈さん、好きだから」
「そう思い込もうとしてるだけなんじゃない?」

 なん――

「紗英はいろんなことが、ごちゃ混ぜになってる気がする」
「……どういう意味?」

「社長のこと、本気で好きなんだと思う。それは傍から見ていて思う。思うけど、その気持ちの半分は……なんというか、恋愛ではない気がする。憧れとか、頼っているとか、母親が異なっているとか。そういう人間関係絡みのこと。そうじゃなかったら、つらくてこの会社に入社なんてできないんじゃないかな」

 それは……

「血のつながっていない半分で強く惹かれて好きだと思い、つながっていない部分で憧れなんかのいろんな思いがぐちゃってある。紗英には社長しか身内がいなくて、生きる上でも社長がいないとどうにもできなかった。他に寄り合う者いない。だからどんどん拗らしていく。社長の奥さんに対しても、兄の妻だとわかっている部分と、大事な存在を取られたって思う部分が存在している。だけど大人だから理性がきちんと働いていて、表層部分では人として同じ女性として認めている。けど、潜在部分では嫉妬している」

「…………」

「いろんな感情が拗れている。女性にだらしない――って社長が言っていたんだけど――そんな父親のこと、愛人で自分を産んで間もなく亡くなった母親のこと、娘に手を出した男の家に孫を預けなくちゃいけなくなった祖母のこと、唯一の身内である兄のこと、その兄が結婚したことによって一人ぼっちになってしまったって思ってること、その兄の家族がいい人たちだってこと」

 ちょ。
 どうして榛原君がそんなことわかるのよっ。

「紗英さん、寂しかったんだよね」

 !

「だから、社長に全部、のっけちゃったんだろう。心のどこかでそれがわかっていて、つらくて、足掻いてたんだろ。でも、寂しいって思うことは罪じゃない。いいんだ、思いっきり思って。

 …………。

「でも、もう大丈夫だよ。俺がいるから」

 …………。

「俺が横にいるから、もう寂しくないよ」
「……そう、なの?」
「そうだよ。俺が全部忘れさせてやるから」

 …………。

「社長の家に連れていかれたのって八つだったよね。じゃあ、約二十年ってことだ。そう簡単じゃないと言いたいだろう。でもいいんだ。急がなくていい。だって人生百年、俺たちには七十年くらい時間があるんだからさ。ゆっくりやってこう。まずは、寂しくなければ上々だ」

「そっかなぁ」

 榛原君が私の手をぎゅっと握ってきた。