「俺が忘れさせてやる」

 ジョッキに手を伸ばそうとしたところにそう言われて、驚いて目を見開いた。
 仕事が終わって、ご飯食べようと誘われた。

「いきなりどうしたの?」
「俺が全部忘れさせてやるから言うこと聞けよ。飯食ったらホテル行こう」

 誰、この人。

 普段は礼儀正しく、丁寧な言葉遣いのわんこな後輩、なんだけど?
 今、隣に座っているのは、まるで別人。

 誰? って感じ。

 名前は榛原(はいばら)祥太郎(しょうたろう)
 シュッとした今風の顔立ちの、三歳年下入社二年目、広報担当スタッフ。

「今日の仕事、キツかったっけ?」

 私が問うと、榛原君は小首をかしげた。

「どういう意味?」
「だから言葉通り。キツい時って、わけわかんないこと口走りたくなるでしょ?」
「ならないけど」
「…………」

 返す言葉を失って、今度こそジョッキの取っ手を掴んだ。

「俺の誘惑、無視しないでほしいんだけど?」

 まだ言ってる。でも、今度はちょっとお伺い風。イメージ――といっても好感度じゃなく変化って意味でのイメージなのだけど――が下がって、上がって、と忙しい。

「急にどうしたの?」
「我慢の限界かなって。僕も男なんでね」
「さっき〝俺〟って言ったけど、やっぱり呼称は〝僕〟なの?」

 すると榛原君は照れ笑いを浮かべた。
 やっぱりいつのも〝わんこ〟みたいで可愛い。

「会社以外では〝俺〟。会社では可愛い後輩演じてるから〝僕〟」
「へぇ。なんで?」

 尋ねながらビールを喉に流し込む。
 実は平静を装ってるので、それを誤魔化すため。ついでに意識も周囲に巡らせて、店内の喧騒に緊張を溶かそうとも。

「そのほうが、みんな油断してくれるからだけど。で、これ、食い終わったらホテル行こう」
「……よくわかんない。どうして私とホテル行きたいのよ」
「好きだからに決まってるだろ? それ以外に理由ある?」
「…………」

 またしても言葉を失った。
 あ、いや、違う意味でも通るか。

「そんなにエッチ好きなんだ」

 榛原君の目が丸くなったのを視界の端で確認する。

「浜崎さんってアホ? それとも高度なおとぼけ演技で逃げようって思ってる?」

 うーむ。

「でも、まぁいいや。えーっと」

 言いながら榛原君はわざとらしく背筋を正した。

「わたくし榛原祥太郎は浜崎紗英さんに惚れてます。なので、つきあってください。お願いします」

 頭を下げる様子を、私はぼんやり見ていた。


 それから約二時間後――私は榛原君とラブホのベッドの中にいた。
 キスされて、服を脱がされて、あっちこっち触られて。
 二十七まで誰にも触らせなかったのに、こんな形で奪われるんだ。あたしのバージン。
 触れられている肌の部分に温かさを感じた。
 手の温かさが心地いい。

「はぁ」

 自分でも信じられないくらい熱っぽい息が出た。
 こんな私でも、こんな吐息をつけるんだ。
 こんな私、でも。

 私の嬌声が部屋に響いている。
 初めてのことに混乱している反面、妙に冷静になにをされているか理解している自分がいる。

 ずっと想ってる人がいて、それが許されない人で、私は一生独りなんだって思っていたのに、いきなり世界を壊された。そしてそれを受け入れている自分がいることに驚く。

「紗英は俺みたいな強引なヤツに救ってほしかったんだよ。俺に委ねたらいいから。大丈夫、俺は紗英が好きだから、ちゃんと頑張る」

 耳元で小さな声がする。
 なにを勝手なことを。
 いつの間にか呼び捨てになってるし。

 でも、〝好き〟って言葉が、ずっと私を守っていた鎧を引き剥がしたのは確かなことだった。だから、許されない立場の男をずっと想ってきたというのに、こんなに簡単に委ねてしまったんだと、思う。