現場に出向き、幼き子供とともに怯えている母親を見ると、母の顔が脳裏をかすめる。
 決して鮮明ではない、あの穏やかそうな顔が。
 私の母は、怖がっているのに苦しんでいるのに素直にSOSを出せない、この若い母親たちと同じだったのだろうか。

 父はなぜ私たちをあんなにも雑に扱っていたのだろう。
 それなのに、なぜ母を撥ねた運転手を殺したんだろう。
 もう一生解けぬ問いが常に私の片隅にあった。

 父はどういう気持ちだったんだろうか。
 私が生まれたとき、父の頭の中にはどんな未来が広がっていたのだろう。
 私たちに暴力を振るっていたとき、私は父にとってどんな存在だったんだろうか。
 運転手を殺したとき、少しでも父は私の顔を思い浮かべてくれてたんだろうか。

 父のことは、私には想像もつかない。
 きっと、父の中には父なりの考えがあって、葛藤があって、苦しみがあったんだろう。
 想像したくもないし、想像しちゃだめだと思った。
 もうわからないからこそ、自分の中の想像で終わらせちゃいけない。

 第一、そんな過去に囚われている場合ではない。
 私がやるべきなのは、児童相談員として子供を守ること。
 そして、時にはその子の親も守ること。

 経験者だからこそ、できることがある。
 経験者にしかわからない気持ちがある。

 それを無駄にしてはいけないし、小さな子供たちの小さな平和を守るためにも駆使していかなければいけない。


 「涼風さん。
 この現場、行ける ?」

 仕事を始めてから、3カ月。
 私は、初めての虐待の現場に出向いた。
 これまでは育児放棄や貧困家庭など、支援によって改善できるような現場に行くことが多かった。
 今回のような通報の時点で、虐待が確定している現場は初めてだった。

 「はい。
 行けます」

 建物を出て、車に乗り込むときには既に鼓動が速くて、手に汗を握っていた。
 車中では一言も発さず、窓の外を流れていく景色を見るともなく見ていた。

 「涼風さん、着いたよ」

 運転してくれていた桐原さんが、声をかけてくれた。
 いつの間にかぼーっとしてしまっていたらしい。

 車を出て、目の前に佇む二階建ての建物を見上げる。
 いかにもシリアスなドラマに出てきそうな古くて汚いアパートだった。
 所々ひび割れ、外階段は錆びてぼろぼろになっている。

 「ここです !」

 通報者らしき中年の女性が駆け寄ってくる。
 1階の右から2番目の部屋を指さしながら。

 一気に呼吸が荒くなる。

 「涼風さん、大丈夫 ?」

 桐原さんが心配そうに顔を覗き込んできた。
 きっと、顔が蒼白だったのだろう。
 少しだけ目を見開いたのがわかった。

 顔を上げて、深呼吸をした。
 あの扉の向こうに待っている子供のために心を落ち着かせた。

 「はい、大丈夫です。
 行きましょう」

 怖がっている暇はない。
 行くしかない。