憶那(おくりな)。
心の中で眠っているもう戻らない大切な思い出。
いつか、どこかで見たこの言葉は、私の心の奥底に沈んでいる。
あの頃の思い出とともに。
父が倒れたと報されたのは、当初引っ越しを予定していた日の2日前だった。
そのときには既に危篤で、集中治療室に入っていたらしい。
夕方4時くらいのできごとだったため、その日のうちに行くことはできず、次の日に行くことになった。
想來くんには知らせなかった。
言えなかった。
またあの日みたいになんでって言われたら辛くなってしまうから。
だから、甘えと傲慢に満ちた手紙を書いて、出発する直前に彼の家のポストに入れた。
何枚も便箋を無駄にして書いた手紙だったけれど最後は、
『また、再会できますように』
なんていう青臭い文章で締めくくってしまった。
何度もインターホンのボタンへ伸びた手はついにボタンを押すことはなかった。
時間が来て、逃げるように電車に乗り、追われるようにして町を出た。
父は胃癌だった。
着いたときには意識が朦朧としている状態で説明がなくても長くないことがわかった。
想定外の事態すぎて、ショックを受ける間もなかった。
受け入れるにはすべてが急で、重すぎた。
「お父さん ?
わかる ?」
呼びかけても返事がない。
時折、苦しそうに顔を歪めながら、死へ近づいていく。
そんな父を見るのはさすがに辛かった。
呼吸器をつけて規則正しく胸を上下させている父の容体は、刻々と悪化していった。
機械の電源を落とせば、父は死んでしまう。
人間の無力さが、命の儚さが胸に突き刺さる。
ただ見つめることしかできなかった。
病室に入ることも許されず、取りつけてある窓から父を見ていた。
今にも直線になってしまいそうな心電図が、ゆっくりと小さく動いている。
「ねえ、お父さん、どうしてこんなになるまで放っておいたの ?」
気づいていたはずだ。
癌によって自分の身体が蝕まれていることくらい。
それなのに見て見ぬふりをした。
どうして ?
もしかしたら私のところへ来たとき、既に患っていたのかもしれない。
そう思うと、目の前の父親がひどく哀れに思えてきてならなかった。
「誰も、気にしないと思った ?
あなたが一番わかってるくせに。
家族を失うのがどれだけ辛いか。
気づいたときにはもうできることが何もないってどれだけ苦しいことか」
これが心の中で出していた声なのか、実際に出していた声なのか、自分でもわからない。
「聞きたいこと、いっぱいあったんだよ。
話したいことも、責めたいことも」
呼吸の音が少しずつ弱まっていく。
機械の手をかりても、生きていけない域に達しはじめていた。
「でも、もう時間ないから、ひとつだけ」
ビビビッビビビッというアラームが鳴り響く。
父が眠っているベッドの周りのモニターが一斉に点滅しだす。
「ありがとう。
お父さんのこと許せないし、これからも許さないけど、あれが間違ったことだって断言はできない。
娘としては、絶対にやってほしくなかった。
でも、人として、正しかったんじゃないかって思ってる自分もいる。
きっと私がお父さんの立場でも同じことすると思う」
医師と看護師が駆けつけてきて、父が見えなくなった。
「だから。
だから、もういいよ」
窓枠をつかむ手に力がこもる。
手のひらに涙が落ちてきた。
「もう、背負わなくていいよ !」
大きな声が出て、看護師が数人、こちらを向いた。
迷わず、声を張り上げる。
とどけ。
お父さんに、とどけ。
「お父さんは、最低の父親だけど、間違ったことしてないよ !
元気でね !
幸せになってね !」
ピーという音が鳴り響き、父の死を報せた。
思わず、間違ったことをしていないと言ってしまったけれど、それが合っているのか、私には知りえない。
一生、解決しない問題なんじゃないかと思う。
解決してはいけない問題なんじゃないかと思う。
でも、そんな優しい嘘のような言葉が、最期に静かに寄り添ってくれていたらいいなと思う。
心の中で眠っているもう戻らない大切な思い出。
いつか、どこかで見たこの言葉は、私の心の奥底に沈んでいる。
あの頃の思い出とともに。
父が倒れたと報されたのは、当初引っ越しを予定していた日の2日前だった。
そのときには既に危篤で、集中治療室に入っていたらしい。
夕方4時くらいのできごとだったため、その日のうちに行くことはできず、次の日に行くことになった。
想來くんには知らせなかった。
言えなかった。
またあの日みたいになんでって言われたら辛くなってしまうから。
だから、甘えと傲慢に満ちた手紙を書いて、出発する直前に彼の家のポストに入れた。
何枚も便箋を無駄にして書いた手紙だったけれど最後は、
『また、再会できますように』
なんていう青臭い文章で締めくくってしまった。
何度もインターホンのボタンへ伸びた手はついにボタンを押すことはなかった。
時間が来て、逃げるように電車に乗り、追われるようにして町を出た。
父は胃癌だった。
着いたときには意識が朦朧としている状態で説明がなくても長くないことがわかった。
想定外の事態すぎて、ショックを受ける間もなかった。
受け入れるにはすべてが急で、重すぎた。
「お父さん ?
わかる ?」
呼びかけても返事がない。
時折、苦しそうに顔を歪めながら、死へ近づいていく。
そんな父を見るのはさすがに辛かった。
呼吸器をつけて規則正しく胸を上下させている父の容体は、刻々と悪化していった。
機械の電源を落とせば、父は死んでしまう。
人間の無力さが、命の儚さが胸に突き刺さる。
ただ見つめることしかできなかった。
病室に入ることも許されず、取りつけてある窓から父を見ていた。
今にも直線になってしまいそうな心電図が、ゆっくりと小さく動いている。
「ねえ、お父さん、どうしてこんなになるまで放っておいたの ?」
気づいていたはずだ。
癌によって自分の身体が蝕まれていることくらい。
それなのに見て見ぬふりをした。
どうして ?
もしかしたら私のところへ来たとき、既に患っていたのかもしれない。
そう思うと、目の前の父親がひどく哀れに思えてきてならなかった。
「誰も、気にしないと思った ?
あなたが一番わかってるくせに。
家族を失うのがどれだけ辛いか。
気づいたときにはもうできることが何もないってどれだけ苦しいことか」
これが心の中で出していた声なのか、実際に出していた声なのか、自分でもわからない。
「聞きたいこと、いっぱいあったんだよ。
話したいことも、責めたいことも」
呼吸の音が少しずつ弱まっていく。
機械の手をかりても、生きていけない域に達しはじめていた。
「でも、もう時間ないから、ひとつだけ」
ビビビッビビビッというアラームが鳴り響く。
父が眠っているベッドの周りのモニターが一斉に点滅しだす。
「ありがとう。
お父さんのこと許せないし、これからも許さないけど、あれが間違ったことだって断言はできない。
娘としては、絶対にやってほしくなかった。
でも、人として、正しかったんじゃないかって思ってる自分もいる。
きっと私がお父さんの立場でも同じことすると思う」
医師と看護師が駆けつけてきて、父が見えなくなった。
「だから。
だから、もういいよ」
窓枠をつかむ手に力がこもる。
手のひらに涙が落ちてきた。
「もう、背負わなくていいよ !」
大きな声が出て、看護師が数人、こちらを向いた。
迷わず、声を張り上げる。
とどけ。
お父さんに、とどけ。
「お父さんは、最低の父親だけど、間違ったことしてないよ !
元気でね !
幸せになってね !」
ピーという音が鳴り響き、父の死を報せた。
思わず、間違ったことをしていないと言ってしまったけれど、それが合っているのか、私には知りえない。
一生、解決しない問題なんじゃないかと思う。
解決してはいけない問題なんじゃないかと思う。
でも、そんな優しい嘘のような言葉が、最期に静かに寄り添ってくれていたらいいなと思う。
