エンドロール

 「はあー」

 家に帰った途端、ため息が出た。

 三浦の言葉が、それなりに助けになっているとはいえ、やはり断れずにいる。
 おかげで、朝は早く、夜は遅い。

 すでに22時を回っている部屋の中はまだ少し肌寒い。

 風呂を溜め、溜めている間にコンビニで買った弁当を口にする。

 テレビもない、ラジオもない、静かな部屋で、僕の咀嚼音だけが響く。
 やがて、場違いなほど愉快な音楽がお湯が溜まったことを知らせた。

 平凡な日が、平凡に繰り返される。
 毎日が、平和で、穏やかに通り過ぎていく。
 なにか事件が起こるよりはマシか。

 仕事で疲れた体を湯船に浸かって癒した。
 温かいお湯が強張った体をほぐしていった。
 血液が体中に循環する心地が気持ちいい。

 遠くで着信音が聞こえ、慌てて湯船から出た。
 一人だからいいかと、下半身にタオルを巻きつけた状態で、リビングへ足早に向かった。

 「はい、もしもし」

 「あ、椎名君 ?」

 課長の声がした。
 課長が電話をかけてくることなんて滅多にないので、背筋が伸びた。

 「はい、なんでしょうか」

 「明日、お休みとっていたと思うんだけど、来ることってできるかな ?」

 「え ?」

 思わず、そう声が出た。

 「なぜでしょう。
 明日は、用事がありまして」

 「うん、そう聞いていたんだけどね、資料をお願いしていた子が体調不良で、しばらく休むことになってしまって。
 その資料、明後日までなんだけど、椎名君にお願いできないかと思って」

 明日は、母の誕生日だ。
 前々から、レストランの予約をとって、祝う予定を立てている。
 学生時代、あんなにも助けになってくれた母との予定をなしにはできない。

 「確認してからでもよろしいでしょうか」

 「それは、もちろん」

 「では、失礼いたします」

 そう言って、通話を終了した。

 とりあえず、洗面所に戻り、衣類を身に着けた。

 確認するとしても、どうすればいいのか。
 母に聞いたってどうせいいと言うに決まっている。

 そのとき、もう一度バイブレーションが着信を知らせた。

 「はい」

 「あ、椎名 ?
 俺、三浦」

 聞き覚えのある人懐こい声がした。

 「ああ。
 どうかしましたか ?」

 スマホを耳に当てながらベランダのドアを開けた。
 春のにおいがふわりと香ってきた。
 そのまま外に出る。

 少し肌寒い風が、火照った体に心地いい。

 「いや、別にどうかしたわけじゃなくて、ただなんとなくというか
 最近、どう ?
 みたいな」

 確かに、話してから1週間は経っていた。

 「別に、特に変わらずですけど」

 「そう ?
 ならよかった」

 「うん」

 沈黙が漂う。

 どこかで車のクラクションの音が聞こえた。
 下から酔っている若者の声がした。

 「明日、母の誕生日なんです」

 気づけば話しはじめていた。

 「え ?」

 突然の話題に三浦も戸惑った声を発した。

 「だから、明日、お祝いする予定で。
 前々から休みをもらっていたんですけど」

 「うん」

 すぐに相槌を打ちはじめた三浦のコミュ力にはつくづく圧倒される。

 「でも、さっき電話がきて、課長から明日も来てほしいって言われて。
 確認するって言って一旦保留にしているんですけど、どうしたらいいかわからなくて。
 課長に頼まれたこと断るとか、無理だし、でも、母との約束を破るっていうのはもっと嫌です」

 自分の情けなさに泣きそうになった。
 街の方の夜景が眩しい。

 「断れば ?
 うん、断った方がいいと思う。
 あ、課長の方をね」

 あっさりとした物言いに、しばらく声が出ない。

 「え、そんなにあっさり、断っちゃっていいんですか ?」

 「うん、いいと思う。
 課長もきっとダメもとで頼んでるし、誰かがどうにかしてくれるよ。
 それに、君、学生の頃、色々あった雰囲気あるし、お母さんとの約束は守った方がいい」

 「誰かがどうにかしてくれるって、人任せじゃダメでは」

 「いいの、いいの。
 みんな、どっかでは人任せにしてるんだし。
 それに、椎名はこれまでたくさん任されてきたでしょ ?
 断んな」

 礼を言ってから、通話を切った。
 やはり、友人がいると、頼りになる。

 課長に電話をかけた。
 ワンコールですぐに出た。
 そこで、もう一度、決心が揺らぐ。

 『断んな』

 「課長、すみません、明日は難しいです」

 「わかった。
 夜分にすまなかったな」

 筆で繊細に描いたような星々が、空に輝いていた。