きみのとなりは春のにおい

「……あのとき、声かけてくれてありがとうございました。今日も……本当に、ありがとうございます」


彼は、ちょっと照れたようにうなずいた。


「無事でよかったよ」


やっと、言いたかったことが言えた。
胸の奥に詰まっていたものが、ふっと軽くなる。


けれど、それでもどうしても、あとひとつだけ――


「……あの。もしよかったら……名前、教えてもらってもいいですか?」


彼は少し驚いた顔をした。
でもすぐに、やわらかく微笑んで、答えてくれた。


「藤宮 宙(ふじみや そら)。星条学園、一年。たぶん、君と同い年だよ」


その名前を聞いた瞬間。
ひよりの胸が、トクン、と跳ねた。


「……桜庭ひよりです。友愛高校、一年です。よろしくお願いします、藤宮さん」

「“さん”付け、なんか新鮮だな。……同い年なんだし、“宙”でいいよ」

「……じゃあ、宙くん」


名前を呼んだその瞬間。

ほんの少しだけ、心の距離が近づいた気がした。


たった今まで、怖くて、泣きたくて。
何も見えなくなりそうだった世界。


でもいま、宙くんの名前を知って、こうして隣に座っているだけで。




春が、ようやくちゃんと始まる気がした。