斜め前のドアのそば。黒いリュック。黒髪。 片耳にイヤホンを挿して、ぼんやりと窓の外を見ている。
(こっち、見てない。気づいてない)
それだけで、胸がドキッとした。
名前も知らない。 けれど、ただそこにいるだけで、ひよりの中で“特別”になっていく気がした。
毎朝、同じ電車に乗るたびに、目で追ってしまう。 どこに立つのか、どの駅で乗ってどこで降りるのか。 わかるのは、ほんの少しのことだけ。
──でも、一度だけ。目が合った……かも?
昨日だったか、その前の日か。
ふと顔を上げたとき、彼がこっちを見ていた気がした。
すぐに目を逸らされたから、確信はない。 でも、その一瞬だけ、胸の奥がじんわりと熱くなった。
(……きっと、気のせいだよね)
そう自分に言い聞かせながらも、今日もまた同じ場所に立つその背中を見つけて、心が少しだけ浮かれてしまう。

