きみのとなりは春のにおい


春の風は、暖かく優しいようでいて、ときどき残酷だ。



そう思ったのは、きっとあの日が初めてだった。


──新しい制服の襟を握りしめて、駅のホームに立つ私。



目の前には見慣れない景色と、数分後に来るはずの電車。



希望よりも、緊張と不安のほうが大きかった。


眩しい朝の日差しに目を細めながら、私は人波に押されて電車に乗り込んだ。
その瞬間、ふわっと視界が揺れる。



……あ、やばいかも。



心臓が早鐘みたいに鳴って、背中に冷や汗がつたう。
つり革をつかもうと伸ばした指が、なぜかうまく届かなくて。



そして、世界が少しだけ傾いた――そのとき。



「……大丈夫?」


耳元で、落ち着いた声がした。
その瞬間、誰かの腕にそっと支えられていた。


「ちょっと、こっち来て。人多いし、危ないから」


気づけば、私は電車を降りて、駅のベンチに座っていた。


その人の制服が、自分とは違う学校のものだと気づいたのは、少しあと。



「水、飲める?」


差し出されたペットボトルを、まっすぐ見られなかった。
でも、喉がカラカラで、冷たい水が胸に染みた。


「少し休めば、楽になるよ。……今日、入学式?」


私は、こくんと頷いた。


「電車ずらしても間に合いそう?」


「……はい。ありがとう、ございます」


ようやく出せた声は、ひどく掠れて震えていたのに。
その人はふっと笑って、「そっか」とだけ言った。


次の電車が来る。


駅のアナウンスが響いて。
彼は名前も告げずに、また電車に乗っていった。


その背中が見えなくなっても、私の胸の音は止まらなかった。


──このときはまだ知らなかった。



あの人と、毎朝の電車で何度も出会うことになるなんて。
それが、わたしの初恋になるなんてことも。