目を開けた美奈は、しばらく動けなかった。

頭がぼんやりしていて、夢の中にいるようだった。

天井は白く、静かに光っている。 空気は冷たくて、でも風はない。

「……あれ……?」

美奈はゆっくりと体を起こした。

床は硬くて冷たい。

でも、触れると、少しだけ波打った。

まるで、水の上に立っているような感覚。

周りには、見覚えのある家具が並んでいた。

でも、どれも少しずつ歪んでいる。

時計の針は逆に回り、窓の外は霧に包まれていた。

「……ここ……なぎちゃんの家……?」

声に出してみても、誰も答えない。

美奈は立ち上がり、部屋の中を見渡した。

静かすぎる。

音がない。

時間が止まっているようだった。

そして、ふと気づいた。

——あれ?

——わたし……戻ってない……?

「え……うそ……」

胸がぎゅっと締めつけられる。

さっきまでの“眠れば帰れる”という思いが、音を立てて崩れていく。

「うそ……うそでしょ……?」

声が震えた。

でも、鏡はただ静かに、そこに立っていた。

美奈の顔を映して。

でも、その瞳は、少しだけ違って見えた。

奈は、重い体をなんとか起こして、玄関の方へ向かおうとした。

でも、足元がふわふわしていて、まるで水面を歩いているようだった。

一歩踏み出すたびに、床が波打つ。

家具は見覚えがあるはずなのに、どれも異常に大きく、歪んでいた。

棚は天井まで伸びていて、時計は壁を這うように回っている。

声を出すと、空間に響いて、何重にも反響した。

「……出たい……ここから……」

美奈は玄関の扉に手を伸ばした。

でも、扉は遠くにあるようで、なかなか近づけない。

そのとき——

「あ、おきたの?」

背後から声がして、美奈はびくっと跳ねた。

振り返ると、なぎが立っていた。

いや、“なぎ”じゃない。

その笑顔は、どこか違っていた。

目が笑っていない。声が、空気に溶けていない。

美奈は、思わず後ずさった。

なぎ——いや、彼女はゆっくりと近づいてきた。

「ごめんねー、美奈ちゃん」

その声は、優しいけれど、冷たい。

「実はね、私、“なぎ”じゃなくて、“夜凪”なの。これで、“よなぎ”って読むの。」

美奈は、言葉が出なかった。

“夜凪”——夜の静けさ、風の止んだ時間。

その名前は、どこか終わりを告げるような響きだった。

「ふざけないで……なぎちゃんって言ってたじゃん……!」

夜凪は、相変わらず微笑んでいた。

その笑顔が、余計に怖かった。

「うん、そう言ってたね。でも“なぎ”って呼ばれるの、嫌いじゃなかったよ?」

「なんなの、それ……!ここ、どこなの!?なんでわたし、帰れないの!?どうして……っ」

夜凪は、静かに言った。

「私、美奈ちゃんが来てくれて、嬉しいの」

「なに言ってんの。来たいなんて言ってない!」

「だから、ごめんって言ったでしょ?」

「ごめんで済むわけないじゃん!出してよ!」

美奈の声は震えていた。 怒りと恐怖が混ざって、涙がこぼれそうだった。

「そもそも、なぎちゃん、言動も変だったし、おかしいと思ってたのよ!」

夜凪は、首をかしげて、静かに言った。

「ごめんねぇ…私、わかんないから」

「もう、なぎちゃんなんか友達になるんじゃなかった!とりあえず、もう友達じゃないし、出してよね!」

その瞬間——夜凪の糸がぷつんと切れた。

「……友達じゃない?」

おそるおそる問い返す夜凪の顔を見て、美奈は一瞬ためらった。

でも、はっきりと言った。

「うん。友達じゃない」

混乱して、言葉もぐちゃぐちゃだった。

でも、その一言が、決定的だった。

夜凪がゆっくりと近づいてきて、美奈の頬に触れた。

また、あの鈍い感覚が広がる。

「ごめんね、美奈ちゃん。ここの世界に来てしまったら、戻れないの」

「は…っ、あ!そん、、な、、わけ、、」

酷い眠気が襲ってくる。

喋るのも、意識を保つのも、必死だった。

でも夜凪は、静かに言葉を続けた。

「ここは、鏡の中の嘘。もう戻れないし、現実世界では、あなたの存在は忘れられる」

美奈は、必死に耐えた。

さっき眠ったのが失敗だったと気づいていたから。

指をつねり、頬を叩いた。

でも、指に力が入らない。

瞼は重く、もう限界だった。

——目をつぶったら、もう何もできない。

そのとき——

「あー、しつこい。早く眠りなさいよ」

夜凪が、もう一度額に触れた。

その瞬間、美奈の意識は、静かに沈んでいった。