心配してくれているらしい沢西君に良心が咎める。
長年の片想いは何だったのかというくらいに、昨日の今日で気持ちは薄れていた。岸谷君の事情より、沢西君と今日も一緒に帰れる嬉しさが勝っている。沢西君に言われなかったら、気にしていない事にも気付かなかった。
「えっと……」
何とか口を開く。
「私、全然……岸谷君に未練ない……と思う」
下を向いて告げる。まともに沢西君を見れない。
ダメだ。これ以上言ったら、気持ちがバレてしまいそう。沢西君には好きな人がいる。だから私に好かれても迷惑……だよね。
考え至って、途端に気分が沈む。
「先輩。もうアイツの事、好きじゃないの?」
尋ねられ、沢西君の目を見返す。眼鏡越しに……やや睨まれているような視線を浴び、『もしや。心の内を見通されているのでは……?』と疑う。
私の気持ち……気付かれたっ?
「……もちろんっ!」
「何その間……」
やっと返した私に、彼は不満がありそうだった。
もしかしたら。私の気持ちが定まっていないと、復讐に影響が出ると考えているのかもしれない。また昨日みたいに「やめます? 復讐」などと言われたらまずい。焦りながら思考を巡らす。
何か話題を逸らそうと思い付いて……先程、感じた疑問を投げ掛ける。
「沢西君がさ。さっき『誠意を見せて下さい』って、言ってたのが気になってるんだけど。何の事かな?」
「いえ。もういいんです。そろそろ行きましょう」
そっぽを向いて歩き出した彼を、小走りで追い掛ける。隣に並ぶ。目を合わせてくれない。何か……怒らせてしまっただろうか。
不安を抱き始めた時、反応があった。
「あんまり見ないで下さい。何なんですか。分かりましたよ。言いますよ」
苛立ちの滲むような言い方だった。立ち止まって、正面から見てくる。
「先輩が岸谷先輩の事を、やっぱり好きだから復讐をやめて……アイツと付き合いたいって思ってるんじゃないかって思ったんです」
ハッキリとした口調で伝えられた内容を一瞬、理解できなくて。もう一度考える。
「お、思ってないよ」
「本当ですか?」
やっと紡いだ返事に間髪入れずに強く問われ、驚いて相手を見つめ返す。沢西君が先に目を逸らした。
「すみません。これは先輩の復讐なのに。オレ……自分の事しか考えてなくて」
言い置いて先に行ってしまう彼の背中を追う。塾のあるビルは、もうすぐそこ。前方の道路左側にある。
私は沢西君の数メートル後方を歩きながら、密かに決意していた。
沢西君の復讐に協力しようと。
どうせ私は沢西君の事が好きだし。彼は好きな人がいるのに、私とイチャイチャするという大層難儀な協力をしてくれている。恥ずかしがって、それらの行いを拒める立場にないと思い知っていた。
『オレ、先輩ともっと……仲良くなりたいと思ってるんですよ』
彼は言ってくれた。私も仲良くなりたいと思っている。この感情に温度差はあるだろうけど。
沢西君が必要だと言えばする。キスも。望まれれば、それ以上の事も協力する。
告白したいという思いが過るけど、振られてつらくなる未来しか描けなくて先送りにした。
そして割と近い未来で、この時の決意が試されるのだった。
「先輩、帰りましょう」
放課後、沢西君が教室へ迎えに来てくれた。
着席していた私の傍には、晴菜ちゃんが立っている。見上げて表情を窺う。
彼女は沢西君に冷たい視線を送っていた。その瞼が閉じられ……次に目を開いた彼女は、別人のような笑顔で言ってくる。
「やだ。明ちゃんたち。ラブラブだねっ! 私も最近、忙しくて一緒に帰れないし。暫くは、帰りが別々だね。寂しいな。別々に帰っても、私の事……忘れないでね!」
晴菜ちゃんに両手を握られ、うるうるした瞳で見つめられる。
「ありがとう晴菜ちゃん。一緒に帰れなくてごめんね」
今……目の前にいる友達と、昨日ありすちゃんに聞かせてもらった録音の音声での彼女。ギャップが凄くて、内心では戸惑っている。
廊下に出たところで、沢西君に手を引かれた。
「先輩、そっちじゃありません。こっち」
連れて来られたのは、第二図書室だった。沢西君は人がいないのを確認して、私と向き合う。
「今日は用事ないって言ってましたよね? これからの作戦を立てましょう。岸谷先輩に、より大きくダメージを与えるにはどうすべきか。オレも連日考えているんですけど、上手く思考がまとまらなくて。先輩、何かいい案を持っていたら遠慮なく言って下さいね」
「あ……うん」
沢西君の発言を受け、私の中に罪悪感が生まれる。目線を彷徨わせながらも、何とか返事をした。
彼は、こんなに復讐の事を考えてくれているのに。私は復讐よりも『今日も、沢西君と一緒に過ごせる時間ができた!』って、浮かれポンチだった。気を引き締めないと。
「うーん。そうだなぁ」
呟いて首をひねってみても、特に思い付かない。考えあぐねていた時、ふと本棚に目が留まる。ありすちゃんの言葉が甦る。
『読んでる本の好みが、合いそうな気がしたの』
私は第二図書室で借りた本を、教室の自分の席で読んでいる事が多かった。多分その時、ありすちゃんに見られていたのだろう。「私も、その本読んだ!」みたいに思ってくれたのかもしれない。
ありすちゃんが昨日……教えてくれた情報はショックだったけど。それ以前に、この第二図書室で目の当たりにした光景のインパクトが強過ぎて……昨日のダメージは少なかったように感じる。沢西君の存在も、心強かったし。
けれど、引っ掛かりが残っている。ありすちゃんが気掛かりな事を言っていた。
『本当はもう一つ、知ってる事があるんだけど』
告げてきた際の彼女の様子が……何かを心配しているような雰囲気だった。聞いてみる。
「ありすちゃんが知ってる、もう一つの事って何だろう。もしかして、復讐の手掛かりにならないかな?」
「さあ……どうでしょうね」
彼は言い終わらないうちに、図書室中央にある本棚の方へ歩き出した。
「沢西君?」
どうしたのだろうと、後を追う。
「あの人も先輩の事、よく見てましたね」
沢西君は立ち止まり、本棚の一角に視線を落としている。彼の長くて綺麗な指が、数冊の背表紙を横になぞる。
息を呑む。一瞬……何も考えられなくなった後、問い掛けが口から漏れる。
「見てたの?」
彼がなぞった並びには、私が一番気に入っている作者の本が置かれていた。
「先輩、よくここで読んでましたよね。オレが側を通っても気にしない様子で、本の世界に没頭してて。見ていて気持ちいいくらいでした」
「見られてたんだ……」
愕然とする。恥ずかしくて下を向く。
第二図書室はあまり広くないので、机はカウンター用のものしか備わっていない。読書できるスペースとして椅子が何脚か、壁際や空いた場所に置いてあるだけだ。晴菜ちゃんが一緒じゃない時などは……よくここへ来て椅子に座り、本を読み耽っていた。
「沢西君の好きな本も教えて!」
「嫌です」
何か話題を……と、焦って聞いてみたら。ソッコーで断られた。
「え……」
呆然と呟く。思いがけないダメージを、じわじわ受けている最中。細めた目を向けられた。
「そんなの、オレの事をちゃんと見てたら分かりますよね?」
「……そうだね。これからは沢西君の事、ちゃんと見るよ」
距離が近い気がして、俯いて一歩……下がる。
「沢西君が私の好きな本の事、知っててくれたの嬉しい」
素直に、思った気持ちを口にする。
「あのシリーズね、主人公たちと一緒に旅してる気分になれるんだ。長い物語なんだけど。読んでいって、ずっと最後の方に……主人公と主人公が好きだった仲間の想いが通じるシーンが、たった一文だけあって。そこを何回も読み返してた。両想いって、どんな気分なんだろうって」
「してみます?」
沢西君に問われて一拍、呼吸が止まる。相手の目を見つめ返す。
「……読んでたの?」
「あ、ハイ。フツーに。先輩、経験なかったんですね」
「~~~~ッ」
声にならない声を上げ、熱くなる頬を押さえる。
先程、語ってしまった本の内容を……沢西君は知っていた。私が繰り返し読んだ場面には、キスシーンがあった。
「赤くなって可愛い」
可愛いと言われて、心臓が一段と騒がしくなる。からかわれているんだと……考え直すけど。眼前の存在を激しく意識してしまって、冷静に対応できない。
距離が縮まる。沢西君の手が、私の右頬を撫ぜる。
頬に伝わる体温が心地いい。
必死な私は、ありったけの理性を以て口走る。
「や、やめとく」
沢西君の復讐に協力すると、昨日決めたばかりだったのに。いざ、するとなると……怖気付いてしまう。
「何でですか? オレとじゃ嫌ですか?」
すぐ近くから問われる。
「ち、違うのっ」
誤解されそうになって、急いで否定した。目を大きく左に逸らす。恥ずかしくて。ゴニョゴニョと、密かに危惧していた考えを白状する。
「一回だけじゃ、済まなくなりそうだからっ……! 本で読んだ事があるけど、キスって気持ちいいもの……なんだよね? 引かれちゃうと思って……」
「えっ、そっち? オレじゃなくて、先輩が済まなくなりそうなの? ハハハ……」
それまで暗かった沢西君の声が一転した。明るい笑い声に、緊張が少し緩む。
「先輩?」
呼ばれて、相手の目を見る。意志の強そうな眼差しで伝えられる。
「望むところです」
えっ……と思った時には、唇同士が触れていた。ファーストだったキスが、すぐにファーストじゃなくなる。少しだけ離れて、直後にまた合わさるから。行為に感情が追いついていない。どこかフワフワした気分だ。
終わった後、両肩に手を置かれた。彼は俯いている。
「あー。先輩の言ってた事が分かりました。確かに、一回じゃ終われませんね。……引きました?」
首を横に振って見せる。
「じゃあ、何で目を逸らすんですか」
不服そうな物言いへ返答する。
「や、やっぱり……こういうのは……両想いの人と、するものでしょう? 沢西君は私の事、好きじゃないでしょう?」
キスしていても沢西君の心が私にないという現実に、納得できない部分があって。つい、捻くれた事を言ってしまった。それなのに手を放してほしくなくて、彼のシャツの胸元を握り締めていた指に力が籠もる。
両手を掴まれた。顔を上げる。真剣な目で見つめられている。尋ねてくる。
「オレはしたい。坂上先輩と。先輩は?」
一拍、言葉に詰まる。昨日の決意は必要なかったのだと思う。私の進みたい方向に、彼がいるのだから。心に従って答える。
「私もしたい。……沢西君と」
引き寄せられる。もう一度、重ねられた時。手に……心臓の響きが聴こえた。
