岸谷君の目が大きく見開かれるのを眺めていた。
これ以上、無理。どうしてもつらくて下を向く。毅然と見返してやりたかったのに。
「晴菜ちゃんと岸谷君がキスしてるとこ見ちゃった。ごめんね。その場にいるって言い出せなくて。――二人がそういう関係なの、知らなかったからショックで」
目を見れない。彼が、どんな表情をしているのか知る余裕もない。自分の気持ちを伝えるのに精一杯だった。多分今、私の顔……まっ赤になっていると思う。
「教えてくれればよかったのに」
やっと顔を上げて、言いたかった事を言えた。ちゃんと笑えているだろうか。
「坂上、ちがっ……」
「明ちゃんごめんね!」
晴菜ちゃんが私の眼前へ移動し言い放つ。何か伝えようとした岸谷君を……背後に隠すかのような動きだった。
女の子らしい華奢な掌で私の両手を包み、説明してくる。
「私……言えなくて。岸谷君とは付き合ってるとか、そういうのじゃないから! 明ちゃんに、こんな事知られたら私……嫌われると思って言えなかった」
綺麗な瞳が目の前で悲しそうに潤み、伏せられる。
「私は聡ちゃんが好き」
静かに、だけど力強い言葉で。晴菜ちゃんが宣告する。
その口の動きを、どこか虚ろに見つめていた。背中に微かに痛みが走る。過去、緊張した時にも感じたそれが冷たい汗を呼ぶ。
「ずっと好きだった」
長い睫毛が持ち上がり、隠れていた双眸がこちらを向く。黄みがかった茶色。瞳の色も大好きなものの一つだったのに。
悲しいのを堪えているから、眉間に皺が寄っていたと思う。そんな顔で彼女の目を見返した。
晴菜ちゃんは私へ言い聞かせるように口にする。
「どんな事をしても、守りたいものってあるよね。私はその為に友達も利用するし、他人の幸せも踏みにじれる。本当の自分も偽れる」
私は傷付いていた。たった一人の友人が吐露した胸中が、酷く歪んでいるように思える。
しかも更に厄介だと感じたのが彼女の目だ。内容の暗さに反して、とても澄んでいる。まるでそれが正しいと信じ切っている様子に見えて、背筋がゾクッとした。
友人の目が笑みの形を作り、私から距離を取る。その際、小さな囁きが聞こえた。
「えへへ。明ちゃんは甘いなぁ」
一歩後ろへ離れた彼女は、にこやかに切り出す。
「ねえねえ! すっごく気になってるんだけど、二人って本当に付き合ってるの? 何か信じられないなぁ」
先程までの雰囲気と印象の変わった明るい声で……今、一番追及されたくない話題を衝かれた。
「えっ?」
思わず出た声も裏返って、高く変な感じになってしまい……めちゃくちゃ怪しかったよね……私の反応。つい、右隣に立つ沢西君の顔をチラ見する。
「ウッフッフ」
晴菜ちゃんの含み笑いに、再び目を戻す。彼女は自らの口元を押さえて、ニマァと笑った。
「本当に付き合ってるなら、証明して見せてよ」
「しょ、証明……?」
「好き合ってるなら、キスくらいできるよね?」
「おいっ!」
晴菜ちゃんの要求が、とんでもなさ過ぎる。目が点になりそうだよ。岸谷君が声を荒げて、彼女の暴挙を止めようとしてくれてる。
こんな時に。私は、ぼうっとしていた。何か、私には関係のない次元の話が展開されている気がして。
これまで片想いはあっても、両想いとか誰かと付き合ったりといった経験もないし。もちろんキスなどという高レベルな接触に挑戦した事もない。
しかし今、直面しようとしていた。この要求を回避できなければ私も沢西君も……恋人でもない、好きな人でもない人とキスしてしまう事になるのだ。私だけならまだしも、沢西君に申し訳なさ過ぎる。
何とか打開策をと必死に考えを巡らせている時、事もなげに言われた。
「できます」
「っ?」
私は勢いよく右へ振り向く。
沢西君も、こっちを見ていた。
えっ? えっ? 展開が目まぐるしくて付いて行けない。
待って。私たちは「フリ」だから。本当にするのは、凄くまずいんだって。沢西君には、好きな人がいるでしょ? それって、好きな人への裏切りじゃん!
それに……。
私の意識は密かに……岸谷君の反応を探っていた。
私、別の人とキスしてるところを……岸谷君に見られるの嫌だと思ってる。
しっかり未練を抱えている自分に気付いて、がっかりする。
そうこうしている内に、沢西君が眼鏡を外した。近くにある机の上にそれを置いた後、私と向かい合ってくる。眼鏡を掛けていない沢西君は、はっきり言って格好よさが増している。紛うことなき美男子だ。直視できずに目を下に逸らす。
ハードルが鬼のように高いのだと、この時やっと悟った。震えがくる。
「……すみません。やっぱり今日はやめておきます。彼女とは今日、付き合い出したばかりで……オレの方から、半ば一方的に交際を迫った経緯があるので。人前でするっていうのも、ちょっと恥ずかしいですよね? 無理させて嫌われたくないですし。もっと仲が深まるまで、待ってもらえませんか?」
ハッとして、己の目が開く。
「……そうねぇ」
沢西君の申し入れに、晴菜ちゃんが考える素振りで呟いている。
私は心底、自分が嫌だった。足を引っ張っている。自分の事なのに沢西君任せで。嫌悪感に……太腿の横で握ったこぶしが震える。
「大丈夫! できるよ」
口から飛び出た声は、放課後の教室によく響いた。言ってしまってから我に返る。
しまったぁ! 黙っていれば、やり過ごせた場面だったのに?
正面にいる沢西君の顔を見るのが怖い。きっと凄く呆れているよね。「ごめん!」と心の中で詫び、斜め下を向く。
「じゃあ見せてもらおうっと。二人がどれだけ仲よしさんなのか」
晴菜ちゃんは楽しげだ。こんなに無情な子だったなんて。
「坂上先輩、こっち向いて」
言われて……緊張でカチコチに動きが重い体を、声の方へ向ける。顔は下に逸らしたまま。
「こっち見て」
要求に……何とか視線を上げるけど。沢西君の目を見る頃には動悸が激しくて、きっと泣きそうな困り顔になっていたと思う。恥ずかしさで頬が熱い。
もう、この流れは回避できないのかな? 眼前の味方を必死に見つめる。アイコンタクトで伝わらないだろうか。
そんな私を、きょとんとした目で眺めていた相手は微笑んだ。
おお! 何かいい策が、あるのかな?
沢西君の顔が近付いてくる。
「目、閉じて」
何か策があるに違いない。
囁かれた言葉を信じ、ぎゅっと目を瞑った。
だめだ。今の要求は、キスの前振りだよね? さすがに私も気付きはした。でも、もう目を閉じてしまった。
『何か困った事が起きたら、オレを頼って下さい』
さっき第二図書室で、沢西君に言われた。今、正に困っているので……沢西君に頼る事にする。任せる。どうなっても恨まない。こんな事態になった元凶は私だ。沢西君は、むしろ被害者。
目を閉じていた私の頭に何かが触れる。頭を撫でられている? 直後、おでこに何かが当たった。
頭にあった感触がなくなったので、額に左手を置いて目を開いた。眼差しが間近にある。
お、おでこ? おでこにしてきた?
少し、ほっとしていたのに。沢西君の左手が、私の右頬に添えられる。
えっ、まさか。これからが……本番?
何も反応できないまま、傍観者のように立ち尽くした。
「やめろっ!」
大きめの声が聞こえたと認識した時、左肩を強く掴まれた。驚いて、掴んだ人物の顔を見上げる。
「岸谷君……?」
呆然としながらも、その名を呼ぶ。私の左斜め前に立ち、沢西君を険しく睨んでいる横顔に視線を奪われる。
沢西君も岸谷君を睨んでいる。
「内巻。もういいだろ?」
岸谷君が晴菜ちゃんの方を見ずに言った。岸谷君の後方にいた晴菜ちゃんは、彼の背中へ冷たい目線を送っている。
岸谷君に止められなかったら、もう少しで沢西君の唇と触れてしまうところだった。
「坂上」
呼ばれて岸谷君を見る。
「俺、お前の事が好きだった。ずっと。お前は? 俺の事、どう思ってた?」
大きく開いた目に岸谷君を映す。考える前に言葉が溢れてきた。
「何で。何でそんな事言うの?」
岸谷君の双眸が細まる。困ったように少し、眉を寄せている。彼の指が、私の零した涙を拭った。
「俺を選んでほしい」
乞われて、私の気持ちは知られているのだと思った。悔しさに奥歯を噛む。
「岸谷先輩、何言ってるんですか?」
はっきりと……よく通る声に、ハッとさせられる。
沢西君が薄く微笑みを浮かべた顔で、岸谷君へ言い切った。
「坂上先輩は、オレの彼女ですよ?」
沢西君の言い分は正論に聞こえる。岸谷君が大きめの声で主張する。
「俺の方が坂上の事を知ってる! 小一の頃から」
「ああ。大丈夫です」
沢西君が、ふわっと笑った。
「これから仲を深めていくんで。……指くわえて見てろよ。坂上先輩、行きましょう」
途中……違和感のある呟きを耳が拾う。聞き間違いかもしれない。
差し出された手を見つめる。
「坂上、行くな!」
岸谷君が私を止めようとするけど、無視して沢西君の手を握った。
「ウックックック」
岸谷君の後方で晴菜ちゃんが笑っている。すごく楽しそうだ。
「聡ちゃん、諦めたら?」
晴菜ちゃんが岸谷君へ声を掛けている。
岸谷君は何も言わずに、私の右後ろにある戸を開け教室を去った。
「あらあ……。ダメージ大きかったかぁ」
晴菜ちゃんはそう苦笑した後、私へ目を向けてきた。
「ごめんね! 今日は別々に帰ろ! 二人とも気を付けて帰ってねー!」
彼女は元気よく宣言し、手を振りながら教室を出て行った。
「先輩、帰りましょう」
眼鏡を掛け直した沢西君に促され、頷く。帰り支度をする。
いつもは晴菜ちゃんと帰る道を、沢西君と辿る。
九月中旬の夕刻。空はまだ明るい。この頃は、夏に比べて陽射しが柔らかくなったと感じる。
「よかったんですか?」
大通りの歩道を、並んで歩いている時に尋ねられた。沢西君へ顔を向ける。
「岸谷先輩、やっぱり坂上先輩の事が好きみたいでしたね。よく岸谷先輩を選ばないでくれたなって、オレ……感動したんですよ」
ニコニコ笑っている沢西君へ、私も笑って見せる。
「沢西君のおかげだよ。ありがとう、復讐に付き合ってくれて」
そうは言っても。心のモヤモヤは、まだ晴れていない。
「何言ってるんですか? 今日は岸谷先輩の気持ちを確認しただけじゃないですか。抉っていくのは、これからです」
「……そ、そうだね」
同意しつつ考える。
沢西君は、もしかして。あの二人に、私より強い恨みを持っているのかな?
沢西君の足が止まったのに気付いて振り返る。
「坂上先輩、今日の反省会です。岸谷先輩たちの前でオレの事、ちゃんと『恋人』だと思ってくれてました?」
聞かれて「うっ」と言葉に詰まる。
「う、うーん。……少し?」
「今日は付き合って初日という設定だったので、まだ初々しい二人という見方もできそうですが。時間が経ってからも、そんな感じだと怪しまれます。慣れましょう。オレもその……経験なくて、偉そうな事は言えませんけど」
照れたように瞳を下へ逸らす沢西君に、ツッコミを入れる。
「嘘つき!」
「へ?」
沢西君は何で咎められているのか全然分かってなさそうな顔をしている。思わず詰め寄って責めてしまう。
「絶対に沢西君は女の子に慣れてる。だって、あ……あんな……。岸谷君の本音を聞き出す為の演技だったのは分かってるんだけど。あの時もう少しで、キスしちゃうところだったじゃん!」
「沢西君は本当は……私の事が好きだから協力してくれてる?」って、勘違いしそうになるから……紛らわしい行動はやめてほしいと心の中で付け足す。
――だが。沢西君から返って来たのは、思いもよらない言い分だった。
「ダメなんですか? キスしちゃ」
「……えっ?」
一瞬、思考が停止した。

