その瞳がオレを映している。

「私は坂上明……って、知ってるよね」

 彼女はそう言って小さく笑った後、本題へ入った。

「あなたの名前も教えてほしい。そして図々しいけど……お願いを聞いてもらえたら、とても助かる。何分、晴菜ちゃんのほかに友達いなくて。頼める人の当てが、ほかにないの」

 第二図書室の本棚の間を、半歩後退する。動悸が半端ない。オレ好みの可愛い顔が、切実な表情で迫ってくる。

 ちょ、待って。心の準備が。

「私の彼氏になってほしい」

 オレの願望が現実となったので、立ったまま夢を見ているのかと思った。本当に自分が今、正気なのか疑う。

「あ! もちろんフリでいいの! 復讐を達成できたら、すぐにやめるから。引き受けてくれると、とても助かる。……はっ! もしかして、付き合ってる人いる? それなら、この話はなかった事にして!」

 慌てた様子で補足してくれた。何だ、そっか。そうだよな。オレ、夢見過ぎ。自分の勘違いに苦笑いする。しかし、こちらにとってはおいしい要望だ。もちろん承諾する。

「オレもちょっと色々あって、あいつらに復讐したい気分なんです」

 言いながら考えている。あいつら……坂上先輩を泣かせて、許せねえ。
 内心荒れているけど、表情には出さず話を続ける。

「付き合ってる人は、いないので大丈夫です。名前は沢西春夜です。よろしく先輩。岸谷先輩に揺さ振りをかけて、あいつらの仲を引き裂こうという企みですね? 坂上先輩って無害そうな顔して、実はエグい事考えてるんですねー」

 違うのは分かっていたけど、ついからかってしまう。きっと可愛い反応を返してくれるから。

「えっ……? そこまで考えてなかったよ! 岸谷君が私の事を好きだったのかどうかの確認と……こっちには未練がないところを見せ付けて、惜しい事したかもって後悔させられたらなっていう些細な嫌がらせで一矢報いたいと……」

 両手の指をモジモジと合わせながら説明してくれる。やっぱり。仕草が一々可愛いし、理由も甘いっていうか優しい。

「奪ってやりましょうよ、どうせなら。そして捨ててやるんです」

 言い切る。このどうしようもなく至上の先輩に、幸せになってほしい。「岸谷先輩との事、協力しますよ」心の内で呟く。微笑んだ。



 やがてキスまでする仲になったけど、決定的な告白はしていない。彼女は岸谷が好きだから。告白して拒絶されたりしたら下手すると、あの二人に復讐するという共通の目的で結ばれた関係さえ失ってしまうかもしれない。

 彼女がオレを好きになってくれればな……そんな甘い考えを幾度夢想しただろう。でもキスを拒まれないって事は、少なくとも嫌われてはいない筈。

 彼女の気持ちを尊重して、岸谷と彼女が上手くいくように手伝う……などという、当初の思惑は嘘っぱちだった。

 オレを好きになってほしい。オレだけを見てほしい。オレが彼女を幸せにしたい。

 本心は欲に塗れていた。最後に僅かに残った理性で、彼女に選択肢を与えた。彼女は岸谷と付き合ってみて、それでも奴を拒めるのか。……もしもオレの事を、少しでも好きになってくれているのなら。何か変化があるかもしれないと期待して。



 彼女から連絡があった。自宅マンションから近いバス停で待ち合わせる。
 内心焦っていた。きっと彼女と岸谷との間に、何かあったのだ。やはり付き合わせるべきじゃなかったんだ。
 バスから降りて歩道に立った彼女は、明らかに元気がなかった。岸谷と何かあったのか問うけど、反応から違うようだと感じる。涙を流す彼女の両腕を掴む。もしかして。

「もしかして、オレ……何かしました?」

 彼女はオレのせいだとは言わず「心配かけてごめんね」と微笑んで見せた。心配で堪らなくなる。「何かあったら、いつでもうちに来て下さい」と伝える。彼女の目から涙が零れる。

「今日……春夜君のお家に行きたい」

 そう言ってくれたのに。状況に思い至って焦る。「いつでも来て下さい」と誘いはしたけど。今日は両親が旅行に行っている。花織も旅行先の近くにアニメの聖地があるとかで付いて行ったし。さすがに、ほかの家族がいない時に好きな人と二人きりのシチュエーションはまずいよな。

 思考しているうちに手首を掴まれた。引っ張られて、自宅のある方面へと進んで行く。マンションのエレベーターを降りた時に尋ねられた。

「私たちは運命共同体なんだよね? ……両想いになったよね?」

 その時、近くのドアが開いて理兄ちゃんが出て来た。何か注意されたような気がしたけど。気が動転していて、よく覚えていない。話の途中で先輩の手を掴み、自宅へ入る。自室に招く。

 覚悟を決めた。これから何があっても、彼女はオレのものだ。誰にも渡さない。

 俯いている彼女に近付いた。彼女の右手がオレの上着の左袖を引っ張ったから、オレは彼女に必要とされているんだと感じた。泣きたいような衝動に駆られて抱きしめる。

 部屋に二人だけ。オレのものにしたい。あいつにはもう、触らせない。

 キスをする。喉にも首にも。……まだダメだ。まだ確実な言葉をもらっていない。じっと相手を見つめる。

「私、春夜君のものになりたい」

 オレの願望が、彼女の口から零れる。驚いて目を見開く。

「そして終わりにしよう? ……復讐はもう、しなくていい」

 続け様に放たれた言葉に、大いに戸惑う。

「え……?」

「やめる」

 その言動に思い至る。彼女はあいつを選んだんだ。
 そりゃあ、あいつと付き合ってる訳だから……もうオレは必要ないって事だよな?
 虚しい。納得できない。オレは何の為にここにいるんだろう。もう役目は終わったって事?
 教えてくれよ。

「言ったよね? 今、オレのものになりたいって。何で? 何の目的で? 復讐の為? だから、それで終わりにしたい? 信じられない。本当に、そう思ってる?」

 焦燥のまま、問い詰める。止められなかった。

 オレが見す見す、あいつのところに行かせると思ってるの?
 怒りにも似た感情を押し殺して、歪んだ要求を口にする。

「証明してみせてよ」

 荒く口付けた。力でねじ伏せるように強引に。奥を嬲って苦しませた。拒まれなかったのが不思議だった。彼女は優しいから、オレの望みを叶えてくれたんだと思った。オレにされるまま抵抗もできずに震えている。彼女に証を付ける。オレのものだという証を、目立つところに。



 夜九時頃、オレのスマホが鳴った。無視したけど、しつこいので出た。

「……はい」

「あっもしもし? 私だけど単刀直入に話すね。もう岸谷に疲れちゃった。あいつ、マジでムカつく。今、明ちゃんと一緒にいるんでしょ? メッセージで送った時間と場所に、明ちゃんと一緒に来て。フィナーレにするから」

 通話がプツッと切れた。内巻先輩は本当に自分勝手だな。それにしても……何で坂上先輩といるって知ってるんだ? 女子の情報網が怖過ぎる。

 電気を消した暗がりで、目覚まし時計の薄ぼんやりした緑の光を頼りに坂上先輩を見下ろす。彼女はオレと内巻先輩が裏で手を組んでいる事を知らない筈だ。不審に思われるかもしれない。

「晴菜ちゃん?」

 聞かれて、僅かに緊張した。答える。

「はい」

 先輩は「そっか」と、どこか寂しげに笑った。




 春の日向のような微笑みを向けられる。

「私、春夜君が好きだよ」

 言い残し屋上を後にする坂上先輩の背を、呆然と見送る。


「好きな人に『好きだよ』って言われた。これって、どういう意味だろう?」

 午後の休み時間中、友人に尋ねる。机に上半身を伏せて、昼休みに明に告げられた言葉の真意を考えている。一つ前の席に横向きに座っている友人・湧水(わきみず)七瀬が紙パックのリンゴジュースを啜っていたけど、その音が聞こえなくなる。顔は横向きに伏せたまま、ちらと目を向けて奴の表情を窺う。彼はストローから離した口をあんぐりさせ、こっちを見ている。

「いや、そのままの意味だろ」

 言い切られて胸が詰まった。

「……んだよ。自慢話か?」

 湧水が笑う。長くてうっとうしい前髪に覆われて、その目元は見えない。湧水が前髪をもっさりさせているのには訳があった。目付きが鋭くて近所の子供に怖がられるらしい。

 オレも見せてもらった事がある。……確かに。湧水が普通の表情をしていると言っていた際も、怒っているように見える。

 その時、試しに「怒った顔してみて」と要求した。

「分かった」

 湧水が了承した後、向けられた目力が強まる。眼光に射殺されるかと思った。

「ヤバイな、お前の目」

「そうだろ?」

 湧水は再び前髪で目を隠す。口元の様子から、笑っているのが分かる。やや茶色がかった黒髪はクセがあって、身長はオレと同じくらい。少し痩せ気味の体型なのを気にしているようだけど。目付きに比べたら、どうって事ないとオレは思う。


 この間……二日連続で用事があって、明と帰れなかった。

 一日目は花織の服選びに付き合った。理兄ちゃんに頼まれて断れなかった。当の理兄ちゃんは花織をオレに押し付けて「用事」と称して、どこか別の場所へ出掛けて行った。

 二日目は大きな商店街近くにあるファミレスの一角で、湧水の惚気のような悩みを聞いていた。湧水には付き合っている彼女がいるらしいのだが、彼女の意向でその事は秘密にしていると言う。だから彼女が誰なのかも教えてもらっていない。

 あまり訳を話さずに「つらい」とか「あああ」とか打ち震えている友人を、ドリンクバーのメロンソーダを飲みながら眺めていた。要約すると「恋人に好感を持たれていないかもしれない」と、言いたいようだった。

「お前はいいよな。彼女とラブラブで。どうせ毎日、一緒に帰ってるんだろ?」

 妬みの込められたニュアンスの言い方に、少し笑う。オレも愚痴をこぼしたくなった。