「明、ごめん」
薄く目を開ける。
「オレが悪かったです」
春夜君が謝ってくる。直前までしていたキスに夢見心地だったのに、ぎゅっと抱きしめられて不安が過る。
「春夜君?」
「オレたち、暫くイチャイチャするの……やめましょう」
言い渡されて息を呑む。
「何で?」
尋ねる声が震えてしまう。春夜君は私を抱きしめたまま、苦々しい響きで返答する。
「オレ、このまま何時間も明とイチャイチャすると思うんです。明の貴重な時間を、オレの欲の為に使わせたくない」
彼の肩に手を置く。少し体を離して見つめる。
「私もイチャイチャしたいよ?」
彼は何故か右手で両目を覆い、顔を上に向けている。暫くの沈黙ののち、絞り出すような嗄れ声が聞こえてくる。
「だ、め、で、す……ッ! オレが今、どんな気持ちで言ってると思ってるんですかっ! テストが終わったら、幾らでもしていいですから! テストが終わるまで、我慢してくださいっ!」
「フフッ」
つい笑ってしまう。私の為に、気にしてくれるんだ。嬉しいな。でもイチャイチャし足りなくて残念。名残惜しく思いながらも了承する。
「分かった。私も勉強に集中する。でも、言った事は忘れないでね。……あと、さっきの罰ゲームもあるから」
「……はい?」
春夜君は、よく分かっていないみたいで首を傾げていたけど。詳しくは教えないで、勉強する為の準備をした。
休みの日やテスト期間中も。私たちは、なるべく会うのを控えた。会ったら、イチャイチャしたくなるって分かっていたから。
「へぇ~~。最近、見掛けないなと思っていたら……そんな約束してたんだ。はぁ~、二人とも偉いねぇ」
二日目の試験科目が終了した。帰り際に晴菜ちゃんに呼び止められ「あの……いつも明ちゃんの周囲をうろちょろして目障りな男はどうしたの?」と聞かれたので、経緯を話した。口では褒めてくれているのに、こちらへ向けられた目からは呆れられている気配を感じる。
晴菜ちゃんが机に頬杖をついていた姿勢から身を起こした。
「じゃあ、私は帰るから。また明日ね!」
「うん。また明日!」
晴菜ちゃんに手を振り返す。教室を出て行く背中を見送り、独り言ちる。
「いいなぁ」
彼女は今日も、彼氏さんと会う約束をしているらしい。「テスト勉強は?」と言いたくなるけど……要点を押さえて取り組み、いつも成績のいい部類の人なのだ。彼女の心配をするより、自分の心配をした方が得策だ。
「さ、私も帰ろう」
机に置いていた鞄を持ち、立ち上がる。
「坂上」
思い掛けず呼び止められた。振り返る。尋ねた。
「何? 岸谷君」
彼と話すのは久しぶりだなと、軽く考えていた。まさかあんな事態に発展するとは、この時は予想もしていなかった。
「俺の頼みを聞いてくれたら何でも言うことを聞く! 頼むぅぅぅ!」
教室の床に手をついた岸谷君に要請される。暫し、周囲が騒然となる。まだ教室に残っていた数人の生徒らの、ヒソヒソ囁く声が聞こえてくる。頭を抱えたくなる。これじゃ彼の頼みを断りづらい。……もしかして分かってて、わざとやってる? 岸谷君へ疑いの眼差しを向ける。
何故、こんな事態になっているかと言うと。数分前、彼に声を掛けられたところからの説明が必要になってくる。
岸谷君は俯きがちに「幼馴染として心配なんだ」と告げてきた。
私じゃなくて晴菜ちゃんの事だ。
「あいつ、付き合ってる奴いるって言ってたけど……あいつなりの強がりなんだと思う。本当は俺の事が好きなのに……俺には姫莉がいるから身を引いたんだ、きっと」
「それは……ないと思うけど」
「頼む! 俺と一緒に、あいつに本当に恋人がいるのか……いたらどんな奴なのか突き止めてほしいんだ!」
「ええーっ」
私が露骨に嫌な反応を示した為か、岸谷君は膝を床につき要請してきた。
……そういう経緯だった。
でも彼が、ここまでするなんて。晴菜ちゃんの事を本気で好きだったりして……。少し、かわいそうに思う。
それに。彼とは、ちゃんと話さなければと考えていた。幼い頃の約束も含めて。
一時間後。私と岸谷君はファミレスにいた。岸谷君は依然、必死な様相だった。
何でこんな事に……って、今更後悔しそうになる。今日彼を手伝ったら何でも言うことを聞くと言質を取ったので、もう暫くの辛抱で幼い頃にしていた約束や付き合っていたあれこれを解決できると思った。
晴菜ちゃんと彼女の彼氏らしき人物がここで会っているという岸谷君の情報を頼りに、大きな商店街の一角にやって来ている。この場所はビルの二階に位置しているので、窓際の席からは街の交差点を見下ろせる。少し離れた席から、窓際の席にいる晴菜ちゃんたちを窺っていた。
岸谷君が頻繁に、件の二人へ視線を向けている。
「ちょっと岸谷君。そんなに見たらバレちゃうよ!」
小声で注意する。
「焦ってるのは分かるけど……」
「あいつ、俺とキスしておきながら。ほかの男にデレデレしやがって……」
ダメだ。私の話、全然聞こえてない。確かに晴菜ちゃんは、いつもよりニコニコが増しているように見えるけど。デレデレしている風には感じなかった。
相手の男性は私たちと同じ高校の制服姿で、クセのある茶色がかった黒髪に特徴がある。前髪部分が、もっさりしている。
ああ……。何でこんな事に。明日も明後日も、まだテストはあるんだよ? ジトッとした視線を岸谷君へ送るけど、それにすら気付いてもらえない。まあ仕方ない。これが終われば帰れるし、今は何か暗記でもしておこう。道具を取り出す為、鞄を漁っていた。
「おい、行くぞ」
暫くして岸谷君に呼ばれた。顔を上げる。先程まで窓際の席にいた晴菜ちゃんたちの姿がない。「やっと帰れるんだ」そう思っていたのに。
私と岸谷君は大通りを繁華街の方へ進んでいた。晴菜ちゃんたちの後を追っている。
繁華街の奥まった道を歩きながら、罪悪感に苛まれる。きっと今頃、春夜君は勉強している筈だ。私も勉強に集中するって約束したのに。
それに今、岸谷君と二人だけで行動している現状に引っ掛かる。どんな理由があるにせよ。春夜君に悪い事をしているようで、胸がモヤモヤする。岸谷君に「アイツに言ったら絶対止められるから」と口止めされてしまい、まだ春夜君に連絡をしていない。
春夜君に嫌な思いをさせたくない。私も「岸谷君にまだ未練がある」とか、誤解をされたくないし。
一つだけ……それらについての対策が、あるにはあるけど。
悶々と考えつつ歩みを進めていたので、岸谷君が立ち止まったのに気付いていなかった。ぶつかりそうになって、慌てて顔を上げる。
「あそこに入った」
岸谷君が伝えてきたのは、晴菜ちゃんたちの行き先だ。
裏通りにあるビルを見上げ、息を呑む。
ここは……!
テスト期間中に、何と大胆な。
分かった! 彼女の魂胆が。
「ここでも勉強する気なんだ。きっと、そうだ……。私も早く帰って、勉強しなきゃいけないのに!」
焦りから思考を口に出していた。ギリギリと歯軋りして、横にいる岸谷君を睨む。岸谷君から呆れられている雰囲気の一瞥を寄越された。彼は冷静な面持ちで言う。
「ここに来て普通、勉強なんてするか? する訳ねーだろ。それに勉強なら、さっきファミレスでしてただろ?」
……岸谷君が、何をいいたいのか薄ら伝わってくる。
「岸谷君、帰るよ」
言い聞かせる。もうこれ以上は、さすがに付き合いきれない。それなのに。
じっと見つめられた。
「いやいや。待って。まさか? ここに入るの?」
聞いたけど、岸谷君は黙っている。まさかだよね? 私は相当、怖じ気付いていた。戸惑っている内に、右手首を掴まれてしまう。
「行こう」
抵抗する間もないまま手を引かれ、岸谷君に続いて店の中へ入った。
「ここまでする必要ある? 岸谷君は晴菜ちゃんの事が好きなの?」
カラオケ店の個室でソファに膝立ちし壁に耳を当てている……かつて好きだった人の現在の姿を、残念な気持ちで眺めている。彼は私の質問には答えず「あ、やっぱり歌い出したぞ。勉強なんてする筈ねーよな」と、フッとほくそ笑んだ。言ってやる。
「あ~そっち? 私は、てっきりイチャイチャするのかなって思ってたよ?」
ぎょっとした顔で、こっちを見てくる。岸谷君の表情から、生気がなくなっていく。
「………………やっぱり、そうだよな。付き合ってるなら……きっと、そうなんだろうな」
岸谷君はソファに座り直し、深く項垂れてしまった。……ああ。やっぱり、晴菜ちゃんの事が好きなんじゃん。
ちょっと意地悪を言い過ぎたかなと考える。「彼が下を向いているのは、泣いているからなのでは?」と、思い至って慌てた。
「岸谷君ごめん! そんなに晴菜ちゃんの事が好きだった?」
隣に腰掛けて謝る。上半身を傾けて、彼の表情を知ろうとした。肩を押され、視界が天井を向く。天井を遮るように岸谷君の顔がある。
彼は聞いてくる。
「ねぇ。本当に俺の事、好きじゃなくなった?」
