彼女の気持ちも分かるけどね。好きな人にだけ特別っていう気持ち。
 仕方がないから、スカートのポケットに入れていた飴玉を口に含む。感情を静めた。

 朔菜ちゃんが花織君の隣の椅子に座っている。彼女はテーブルに肘をつき、右手の甲に頬を置いた姿勢で……花織君の方を見ている。

「ねぇ……食べさせてあげようか?」

 朔菜ちゃんに持ち掛けられ、それまで硬直したように微動だにしていなかった花織君が不自然に体を軋ませた。

「やっぱり知ってるんだな? この、オレの長年の願望は……オレと舞花ちゃんしか知らない筈だ!」

 声を荒げる花織君に、朔菜ちゃんは冷静なトーンで返す。

「舞花に聞いたの」

 花織君はあからさまにショックを受けた顔をした。

「嘘だ。あの子が言う筈ない。誰にも言わない約束をした!」

 朔菜ちゃんは黙っている。

「それに。オレの夢はユララにオムライスを食べさせてもらう事で、あんたは今日……ユララの格好をしていないじゃないか」

 花織君は語尾を弱めて、朔菜ちゃんから視線を逸らした。そんな彼に朔菜ちゃんは問う。

「ねぇ……花織が好きなのは『ユララ』? それとも『私』?」

 花織君が、ゆっくりと朔菜ちゃんに視線を戻す。色を失くしたような表情の花織君に、朔菜ちゃんはスプーンを差し出す。オムライスが掬ってある。

「はい、あーん」

 促された花織君が口に含む。状況に納得していない様子でも、しっかり食べている。その間、花織君は朔菜ちゃんの顔を見ていた。熱心に。

「ユララじゃなくて不満? がっかりした?」

 朔菜ちゃんが少し笑いながら問い掛けている。彼女を見つめる花織君の顔に変化があった。それは微笑みに変わっていく。

「いいや」

 花織君が朔菜ちゃんのスプーンを持つ方の手首を取り、引き寄せている。彼女の頬に手が添えられる。

「何?」

 朔菜ちゃんが少し不機嫌そうな声で聞いた。こちら側からは、彼女の後ろ姿しか見えていないけど。多分、花織君は睨まれているんじゃないかな。

 間近から朔菜ちゃんを見ていた花織君の表情が、更に明るくなる。彼女へと笑い掛ける彼の眼差しは幸せそうで、とても優しかった。

「オレが好きなのは全部、舞花ちゃんだから。何も問題ない」

 朔菜ちゃんは何も言わなかった。ただ花織君を見ているようだった。

「今まで気付かなくてごめん。ずっと離れてたから、あの時の自分の気持ちが一時の気の迷いかもしれないと思うようになってた。舞花ちゃんも幼かったし。結婚の約束は……してもいいと思ったからしたんだ」

 花織君の話を受け、朔菜ちゃんは俯き……絞り出すように口にする。

「佳耶お姉ちゃんは? 告白してた」

 尋ねる声が朔菜ちゃんじゃない。舞花ちゃんになっている。

「結婚するって約束してたのに酷いよ!」

 彼女は感情が昂った様子で花織君を責めた。花織君が表情を曇らせる。

「あれは……理に言いくるめられて……。ただオレに免疫がなくて。一番、親しい女友達を……好きだと勘違いしてただけだよ」

「それに私だって気付かなかった!」

「ごめんって! もう、間違わないから」

「本当……?」

 花織君が一心に、朔菜ちゃんへ視線を注いでいる。

「……うん」

 神妙な面持ちで返事をした花織君に、朔菜ちゃんが抱き付いた。花織君が瞼をいっぱいに広げて頬を赤らめている。彼はうわ言のように呟く。

「何このギャップ」

 朔菜ちゃんが少し体を離して花織君を見上げた。花織君が距離を縮める。

 私と春夜君が同じ部屋にいるのも構わず、イチャイチャし始めた二人を直視していいものか悩む。しかも朔菜ちゃんが、こんな事を言い出す。

「もっとしていい?」

「ダメ!」

 花織君が即答した。彼は朔菜ちゃんを宥めるように言い聞かせている。

「オムライスが冷めるから」

「美味しかった?」

 朔菜ちゃんの問いに花織君は「物凄く」と答えた。朔菜ちゃんが笑った気配がする。

「この日の為に、いっぱい練習したの。……やっぱりもっとしたい」

 朔菜ちゃんが猶もねだる。花織君は口元を手で押さえて横を向く。

「オレ、初心者だから手加減して」

「私も初心者だよ?」

「ぐふっ」

 朔菜ちゃんの返答が想定外だったようで、花織君が呻って自らのシャツの胸元を握り締めている。

「そんな訳あるかっ!」

「何で?」

「だって舞花ちゃんは可愛いし……」

「本当だよ。……確かめてみる?」

 えっ? 何か過激なイチャイチャに発展しそうな二人に戸惑う。ずっと好きだっただろう花織君と想いが通じて感極まってるのは分かるけど、私は友達としてどう対処したらいいんだろう。私たちはまだ高校生で。そんなっ……と考えたところで先週、春夜君との間に起きた事を思い出した。何も言えない。

 オロオロしていると、それまで隣で本に視線を落としている様子だった春夜君が話し掛けてきた。

「明。前……オレの部屋の本が読みたいって言ってましたよね? いいですよ。行きましょう」

「えっと、でも……」

 朔菜ちゃんの方に目線を移す。花織君はこっちを見ていたけど朔菜ちゃんは振り返らずに花織君の方を向いている。

「オレの部屋の本、読み放題ですよ?」

「うっ。分かった」



 つい釣られて、春夜君の部屋に付いて来た。以前ここに来た時の事が頭を過って、意識してしまう。

「明」

 優しい声音が私を呼ぶ。手を引かれて、ベッドの端に並んで腰を下ろす。

「あれ? 本を読むんじゃなかったっけ?」

 尋ねてみる。春夜君は爽やかに微笑した。心なしか距離が近い。ベッドの縁に掛けていた手に、彼の手が伝う。

「これはオレの頼みで、本はそのご褒美です。嫌ですか?」

 真っ直ぐな瞳で聞いてくる。

「ううん」

 首を横に振った。

「どっちもご褒美だよ」



 前回は少し強引で性急だったけど、今回は違った。深くて短いキスを繰り返される。曖昧に試すような目で瞳を覗かれる。もっと長く、春夜君を感じていたいのに。

 焦らされていると気付く頃には熱の行き場を彼にしか見いだせなくなっていて、口を滑らせてしまった。

「もっと……」

 春夜君が聞いてくる。

「もっと……何?」

 恥ずかしくなって、口を押さえて顔を横に向けた。耳の側で誘惑してくる。

「明の要望に応えるから。言って?」


 口付けをねだった。最初に与えられたものが、お遊びだったと感じる程に執拗に奪われて……満たされ鎮火する筈の熱を煽り増長させていく。


 見下ろしてくる春夜君の視線を受け止める。

「明に……言わなきゃいけない事があります」

「うん、何?」

 彼は思い詰めたような表情で、苦しそうに目元を歪めた。

「オレ……明と岸谷先輩の事を、めちゃくちゃに邪魔して……」

「うん」

「明を奪ったんです」

「うん、そうだね……」

「凄く狡い奴なんです」

「知ってる」

「恨みますよね、普通……」

 元気なく視線を外した春夜君へ、明るく笑い掛ける。

「私は嬉しいよ?」

 再び、双眸を向けられた。相手の口が動く。

「……何で?」

「奪いたいくらい好きになってくれたのかなって。私は春夜君から話を聞くまで、私が晴菜ちゃんから春夜君を奪ったと思ってたよ?」

 春夜君がハッとしたように目を開いた時、部屋にノックの音が響いた。

「オレだけど。舞花ちゃんを送ってくる。お前らはどうすんの?」

 花織君の声に、慌てて身を起こそうとした。

「あっ、私も帰……むぐ」

 言い掛けた口を、春夜君が手で塞いできた。起こしかけていた体も、肩を押されて再びベッドに沈む。
 春夜君はドアの向こうの花織君に返事をした。

「明がもう少し本を読みたいらしいから、後から彼女を送ってく」

「おー、程々にな」

「明ちゃんまたね」

 舞花ちゃんの声だ。春夜君の手が緩んだのでドアの向こうへ声を掛ける。

「うん、またねー!」

 二人が外に出る音が聞こえる。気配が遠ざかっても、まだ……私たちはそのままの体勢で見つめ合っていた。

「帰りたかったですか?」

 春夜君に聞かれて言葉に詰まる。「もっと春夜君と一緒にいたい」っていうのが、私の本心なんだけど。一緒にいる時は満たされている。でも離れてしまうと、すぐに会いたくなってしまう。苦笑いした後、本心を隠した。

「だって帰らないと」

 顔を横に向けて、視線から逃げる。

「早く帰らないといけない理由が、あるんですか?」

 静かな声で尋ねられた。

「春夜君と一緒にいたら、つらくなるから」

 言ってしまってから、自分でも変に思った。もしかして言葉が足りてなくて、失言になったかもしれない?
 恐る恐る春夜君を窺った。顔色が悪い。

「オレといたら、つらいんですか?」

 ポツリと問い掛けられ、焦って訂正する。

「ち、違う! そうじゃなくて! 春夜君と一緒にいる時は、凄く幸せだから……それに慣れてしまって帰りたくなくなっちゃうから。離れるのがつらくなるから! 我儘なところを見せて嫌われたくなくて。春夜君を好きになって、恋ってつらい事もあるんだって知ったよ。会えなかった時、春夜君が晴菜ちゃんを好きだって……二人は今、一緒にいるのかもって考えただけで泣いてたよ」

 自分の勘違いを振り返って少し笑う。でも、慌てていたから……何か余計な事まで打ち明けてしまった気がする。

「だから。何と言うか。本当はね、ずっと春夜君と一緒にいたいんだよ?」

 照れてしまう。視線を逸らして伝えた。

「じゃあ問題ないですよね」

 切り出した彼の声には、明るさが戻っている。

「オレ、前にも言いましたよね? ずっと、ここにいてくれていいって。明もオレと同じ気持ちだったのなら、いいですよね?」

 相手を見る。細く笑みを作る目が、確かに私を映している。

「でも。お家の人が」

「うちの家族なら明の事、大歓迎です。いつまででも、うちにいてくれていいです」

「でも。うちの家族も心配す……」

「うちの親から明のご両親に連絡させてもらいます」

「食費とか着替えとか、えっと……」

「明は何も気にしなくていい。着替えとか必要なものは、理兄ちゃんに車で運んでもらいましょう」

 障害になりそうな事柄を並べてみたけど。彼は「明がここへ引っ越す為のプロセスの一つで想定内」とでも言いたげだ。

 ニコニコと誘惑してくる。

「ここにある本、毎日読み放題ですよ?」

「うっ」

 春夜君と毎日一緒にいられるし、本も読める。凄い引力だ。
 それでもしぶとく考えあぐねて中々答えを返さない私に、彼はトドメを刺そうとしてきた。

「明。オレの持ってる本、全部あげます。ここにいて」



 ほとんど暮れた空に一筋、茜に染まる雲が棚引いている。川沿いの歩道を、春夜君と歩く。思っていた事を口にする。

「春夜君の部屋の本は、私のものになった訳だけど……本当にいいの?」

 今日は、このまま帰るけど……近いうちに沢西家へ引っ越す約束をした。よって春夜君の持っている本は、全て私の物なのだ。

 家に帰ったら、家族会議しなきゃ。両親をどう説得しようかと頭を悩ませていた。春夜君が機嫌のよさそうな微笑みを浮かべている。

「はい。もう全部読んでますし、本よりも明に興味があります。それに。明はもう、オレのものになりましたよね? つまり明の本も、結局はオレの物って訳です!」

「え……狡っ!」

 笑い合いながら、バス停へと歩みを進める。ふとした瞬間に思い至る。

「春夜君のお家に引っ越すって……何だか嫁入りするみたい」

 立ち止まって見つめる。数歩分前方で足を止めた彼が、振り向く。どこか大人っぽい眼差しを寄越してくる。

「オレはそのつもりですけど」

 春夜君の部屋に初めて入らせてもらった日に「プロポーズみたい」と思った言葉が、胸に浮かぶ。

 春夜君の気持ちが嬉しいのに、言い表せそうな言葉を見付けきれなくて口を噤んだ。
 涙が出そう。両想いなんだ。


「何で泣くんです?」

 優しい手付きで、頭を撫でてくれる。
 彼の差し出してくれたハンカチで頬を拭った。