私も車に乗せてもらい、沢西家にお邪魔する。奥のLDKへ通されて開口一番、舞花ちゃんが花織君に詰め寄った。

「私じゃダメですか? 佳耶お姉ちゃんに敵うところなんて、ないかもしれないけどっ! だけど今の私だったら、きっとお兄ちゃんの夢を叶えてあげられると思うんです。身体もあの頃より成長したし、お化粧の腕も上がったし、友達に協力してもらってユララの衣装も手に入れました。だから……お願い……!」

 その様子を彼らから少し離れたドアの前で見ていた。私のすぐ横にいる春夜君が、ゾッとしたような顔をしている。「どうしたの?」と尋ねると耳打ちで教えてくれた。

「これから、どうなるんでしょうね。兄貴を巡る三角関係……しかも花織は『朔菜』って子が気になってるみたいだし。理兄ちゃんの折角の計らいも、より状況を複雑にしているし……」

 お手洗いに行っていた佳耶さんがリビングに戻った時、理お兄さんが言い出す。

「一人ずつ、デートして決めれば? それから佳耶は、これから用事があるから先に送ってくる。戻って来るまでに、よく話をしておけよ花織」

 理お兄さんは佳耶さんを伴い、部屋の外へと移動して行く。

「何でアイツが仕切ってるんだ」

 花織君が不満げに呟いている。理お兄さんと佳耶さんを見送った後、キッチンのドアの前に何かが落ちているのに気付いた。桃色の……ハンカチ?

「ねぇ、舞花ちゃん。このハンカチ舞花ちゃんの?」

 持ち上げて聞いてみた。舞花ちゃんはハンカチを見て首を横に振っている。

「違うわ」

 舞花ちゃんが答えた同じくらいの時に、花織君の表情がハッとしたように動く。

「それ、佳耶のだ」

 言われて慌てる。

「今ならまだ間に合うかな? 私、駐車場まで行ってみます!」

 言い終わらないうちに靴を履いて外へ出る。一階にある駐車場には、まだ理お兄さんの車があった。よかった、間に合った――!
 ほっとする筈だった。しかし、すぐに心臓がバクバク鳴り出す。胸を手で押さえる。……えっ?
 マンション入り口前の植え込みの間から、件の車に目を凝らす。

 今、一瞬……二人がキスしているように見えたけど……見間違いだよね……?

 目を擦ってもう一度見た時には、キスしていなかった。やっぱり見間違いかも。けれど、ハンカチを渡しに行こうと踏み出し掛けた足が止まる。

「佳耶……嘘が下手になった? 花織の事が好きだって、あれ嘘でしょ?」

 ――という理お兄さんの声が聞こえたからだ。車の窓が、どこか開いているのかもしれない。内容を聞き取れる。

「何で嘘ついてるのかな?」

 理お兄さんは意地悪な目付きで笑って、佳耶さんをからかっている。佳耶さんは少し拗ねたように、ムッとした表情で反論する。

「理君が、悪い人だからだよ」

「へぇ……俺のせい?」

 佳耶さんに視線を注いだまま、理お兄さんの口角が上がる。佳耶さんが泣きそうな声で伝えている。

「私、本当に花織君が好きだったのに……今は理君の事ばかり考えているんだよ?」

 佳耶さんの腕が理お兄さんの首に絡んだ。

「責任取って」

 熱望するように囁く薄紅色の唇に、理お兄さんが唇を合わせた。

 えっ? これって、どういう状況なんだろう……?
 ただ、気軽にハンカチを渡しに行ける雰囲気じゃない事は察した。


 植え込みを前にして立ち竦んでいた私の後ろを、親子連れが通った。子供が父親に肩車してもらい、はしゃいでいる。そちらへ向けていた顔を、もう一度車の方へ戻す。あっ。

 キスは終わっていた。というか、さっきの親子の気配で中断したのかもしれない。理お兄さんが佳耶さんの肩に手を置いたまま、こっちを睨んでいる。……見つかった。

 渋々……植え込みの横の方へ回り、姿を見せる。車の側へ寄る。
 佳耶さんが慌てた様子で理お兄さんから離れている。理お兄さんが運転席側の窓を開けてくれた。

「すみません。間の悪いところに来てしまって。これ……佳耶さんのハンカチじゃないですか?」

 ハンカチを差し出して尋ねてみる。助手席の佳耶さんが目を大きくした。

「あっ! 私の。ありがとう……!」

 キラキラした瞳で、お礼を言われ照れてしまう。理お兄さんがハンカチを受け取り、佳耶さんへ渡してくれている。

「それじゃ……」

 言い残して、その場を去ろうとしていた。

「見た?」

 戻ろうと踵を返し掛けていた私に、理お兄さんが聞いてくる。彼の表情を見る。真顔だ。

「見ました」

 ほかに何て言いようもない気がして、正直に言う。

「ふぅん、そう……」

 理お兄さんは不服そうに目を細め呟く。しかし。その双眸は、すぐに朗らかな笑みを作る。

「そういう事だから、よろしく。佳耶の事……花織には俺から言うよ」

 ニヤリとした不敵な眼差しを最後に、窓が閉められる。車が走り去るのを見送って、マンションの中へ戻る。
 胸を押さえ、独り言ちた。

「あードキドキした」



「ごめん。オレ、好きな人がいる」

 花織君が舞花ちゃんの両肩を掴んで言い含めている。沢西家に戻ると、そんな場面に出くわした。一拍置いて、舞花ちゃんがボソリと言う。

「やっぱり、佳耶さんには敵わないんだ……」

 彼女は俯いてしまった。花織君は慌てた様子で否定する。

「違う! 佳耶じゃなくて……別の」

「別のっ?」

 舞花ちゃんは聞き返した後、花織君を睨んだ。

「まだほかにも、好きな人がいるのっ?」

 彼女の言葉に責めるような響きが滲んでいる。花織君が右下に顔を背ける。彼は舞花ちゃんから視線を外して口にする。

「舞花ちゃんを見てたら何でか、その子の事を思い出すんだ。オレたちと同じでユララが好きな子で、この間、初めて会ったばかりなんだけど。ずっと忘れられなくて……凄く気になるんだ」

 暗かった舞花ちゃんの瞳に光が灯ったように見えた。

「一応、聞いておくけど。さりあちゃん? それとも朔菜……ちゃん?」

 舞花ちゃんの質問に、花織君が彼女へと視線を戻す。

「『朔菜』」

 花織君の答えを聞いた舞花ちゃんは、再び俯いている。

「お兄ちゃんが、ユララが好きって言ったから……」

 紡がれた言葉の意味が分からないだろう花織君が「えっ?」と聞き返している。顔を上げた舞花ちゃんは微笑みを浮かべた。彼女は目を伏せ首を横に振って「ううん。まだ秘密です」と小さい声で告げ、意志の強そうな眼差しを花織君へ向けた。

「私のデートの日……私じゃなくて花織お兄ちゃんが気になってるって言う、その子を呼びます。それで本当に好きなのか確かめてほしいです。その子とだったら……お兄ちゃんが本当に、その子の事を好きなら。私は賛成します。但し。佳耶さんとの交際は、丁重に断ってください」

「舞花ちゃん。ごめんな。オレ、こんな奴で。久しぶりに会って舞花ちゃんが凄く美人になってて驚いた。……好きになってくれて、ありがとう」

 『朔菜ちゃん』も、すぐ近くにいる人なんだけど。花織君は気付いてなさそう。うーん残念。

 舞花ちゃんって朔菜ちゃんやユララになっても舞花ちゃんだって気付かれないレベルの変装ぶりだし凄いな。

 この間の撮影旅でのユララ姿も、本当に綺麗だった。花織君じゃなくてもメロメロにされちゃうよ。隣に立つ春夜君を盗み見る。私じゃ舞花ちゃんみたいに似合わないのは分かってるけど。

「私もユララの格好してみたいな」

 何気なく呟いてしまった独り言を、春夜君に聞かれてしまった。

「絶対ダメです!」

 強張った顔で断言してくる。そ、そんなに似合わないと思う?
 彼はゾッとしたように曇らせた表情を花織君の方へ向け、何か呟いている。

「可愛過ぎて、兄に見られたら……」



 花織君と舞花ちゃんの話も一段落ついたので、そろそろお暇しようかと舞花ちゃんと話していた。「理兄ちゃんに送ってもらえばいい」と春夜君が言う。

「そういえば、理兄ちゃん遅いな」

「ひゃっ?」

 春夜君の疑問に……さっき出くわした理お兄さんと佳耶さんのキスシーンが思い出されて、口から変な声が出ていた。慌てて話を逸らす。

「あっ! ほら! 夕方だし道が混んでいるんじゃないかなー?」

 目線も、どうしても春夜君から逸らしてしまう。
 二人の事を、私が勝手に伝えちゃダメだよね。理お兄さんも「俺から言うよ」って言っていたし。

「私、舞花ちゃんと帰るよ。舞花ちゃんもバス停まで道が分かれば、バスで帰れる筈だから」

「明……?」

 私の不審な態度に、春夜君が眉を寄せ訝しむような視線を送ってきたけど。気付かないフリをした。



 喫茶店や春夜君のお家に行った翌日の放課後。早速だけど、舞花ちゃんと花織君のデートの日だ。朔菜ちゃん姿の舞花ちゃん、春夜君と共にバスに乗る。再び沢西家を訪れた。

 デートと言ってもお家デートらしい。何でも、花織君の『夢』に関係するのだとか。朔菜ちゃんの手にはエコバッグが握られていて、バスに乗る前……商店街で買ってきたものが入っているらしい。何が入っているのかな? 気になったけど後で分かるだろうから、それまで楽しみにしていよう。

 玄関で出迎えてくれた花織君が朔菜ちゃんを見て、ぎこちない動きになった。

「よ、よう」

 花織君が朔菜ちゃんに声を掛けている。朔菜ちゃんが顔を横に向けてボソッと言った。

「来てやったわよ」

 朔菜ちゃんの頬も、少し赤い気がする。甘酸っぱい空気に、見ているこっちが照れてしまう。

「キッチン借りるよ」

 朔菜ちゃんは花織君に断って、テキパキと何かを作り始めた。エコバッグから玉ねぎや人参といった食材を取り出している。

「まさか? アレを作るつもりなのか?」

 花織君が驚愕したような顔で呟く。

 私と春夜君はリビングの絨毯の上に座り、件の二人を見守っていた。春夜君は途中で退屈したのか、自分の部屋から本を持って来て読み始めている。

 暫くして、テーブルに出来立てのオムライスが置かれた。卵がふわとろしていそうな、いかにも美味しそうなオムライス。

 私はそれを見ながら、悔しさに歯軋りする。

 朔菜ちゃん……! 何で花織君にだけなの! 私もめちゃくちゃお腹空いてるよ!